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征服者/コンキスタドール

16世紀にスペインから新大陸に派遣され、現地の国家を征服した人。

 スペイン語でコンキスタドール。複数形がコンキスタドーレス。メキシコのアステカ王国を征服したコルテス、南アメリカ大陸のインカ帝国を征服したピサロに代表される人々。武装したスペイン人兵士を引き連れて新大陸に侵入し、優越した火砲と騎兵を用い、あるいは部族間の対立を利用してインディオの抵抗を抑え、虐殺など非道な手段をもとりながら、征服活動を展開した。それはキリスト教の信仰を広げるという大義名分のもとで行われたが、その結果、ラテンアメリカのインディオの文明は破壊され、その人口を急激に減少させることになった。同時に、本国スペインに新大陸の金など莫大な富をもたらした。

征服を正当化する「勧告」

 スペイン人の征服者が自らの行為を正当であるとしたのは、スペインが定めた勧告(レケリミエント)を実行したからであった。これは征服活動の前にインディオに対し、ローマ教皇から(ということはキリストから)この地の支配を認められたスペイン王の支配に服するよう勧告することで、それに従わないインディオに対しては如何なる害を加えても良い、というものであった。しかしこの勧告は、インディオの村を襲撃する夜明け前に、村の入口から離れたところで通訳を通して読み上げられただけで、征服者が自己の残虐行為を正当化するための形式でしかなかったことは、宣教師ラス=カサス『インディアスの破壊についての簡潔な報告』(p.46-49)でも非難されている。以下は、同書の訳者染田秀藤氏による「勧告(レケリミエント)」訳注。
(引用)1512年に開催されたブルゴス会議において、植民者スペイン人と被植民者インディオとの関係や征服の正当性について審議され、その結果、最初のインディアス関係の植民法である「ブルゴス法」が制定された(1512年12月27日)。この時、インディオ擁護派のドミニコ会士たちが不正な征服戦争を中止させる勅令が発布されるまで新しい遠征隊の派遣を停止するよう要求したため、アラゴンの国王フェルナンド(カスティーリャの摂政)は審議会を招集し、いかにすれば征服が正当となるかを検討させた。その結果、当時最も権威ある法学者と言われたフワン・ロペス・デ・パラシオス・ルビオスが征服を法的に正当化するための文書を作成した(1513年)。それが催告(レケリミエント)と呼ばれる文書である。催告(レケリミエント)は聖書に従って世界の創造を説き、キリストがすべての人々の上に聖ペテロをおかれたといい、さらに、世界の支配者であるローマ教皇アレクサンデル6世がインディアスをスペインの国王に与えられた経緯を述べる。征服者(コンキスタドール)は世界の至上の権威者である教会とローマ教皇、それにインディアスの支配者としてのスペインの国王についてインディオに知らせ、服従するよう説得し、そして、インディオにそれを理解させ、審議させるための時間を与えなければならなかった。もしインディオが服従しなかったり、故意に決定を延ばそうとすれば、スペイン人はインディオの領土に侵入し、彼らを捕らえ、財産や土地を奪い、できる限りの害を加えることができると催告(レケリミエント)は述べている。<ラス=カサス『インディアスの破壊についての簡潔な報告』染田秀藤訳 岩波文庫 1976 p.176>
 またラス=カサスは同書でコルテスの征服を「誰の目にも明らかな人類の最大の敵であるあのスペイン人たちが、ヌエバ=エスパーニャ(メキシコ)の様々な地方でたえず犯しつづけた驚くべき所業」とまで断定して非難している。

征服者の兵力は“少数”だったのか?

 スペインの征服者がわずかな兵力しか持たずに新大陸の諸文明を征服した、という説明は、例えば「スペイン王室が探検に続いておくりこんだ“征服者たち”(コンキスタドレス)は、先住民の知らない火砲や馬をもった少数精鋭の軍隊で、たちまちこれらのインディオの諸国家をほろぼした」<『もういちど読む山川世界史』2009 山川出版社 p.119>という説明などのように、現在でもよく見かける。受験参考書ではコルテスは「わずか400人ほど」、ピサロは「27頭の馬と180の歩兵」<木下靖彦・木村靖二・吉田寅『詳説世界史研究』2008 山川出版社 p.278>とある。最も影響力の強い山川『世界史B用語集』では1990年代までの版では、コルテスは「兵500、馬16、銃約50をもってユカタン半島に上陸・・・」、ピサロは「兵180、馬27でパナマを出発・・・」と具体的な数字を上げていた。しかし用語集の現在の版ではコルテスは「少数の兵力で」とあるが、ピサロの兵力の記載はなくなった。ついでに言うと、旧版の用語集では「征服者」の説明に、「コロンブスが最初で、コルテス・ピサロが典型。勇猛・貪欲・残忍・信仰が奇妙に結合したタイプの人間が多い。」という面白い(?)説明があったが、現行版では「勇猛・・・」以下の部分は削られている。

インディオの抵抗

 つまり、かつては「征服者」スペイン人と「被征服者」インディオの、"文明の落差"を強調し、スペイン人がわずかな兵力と火器などの優れた武器で、野蛮なインディオをなんなく征服した、という印象を強く抱かせていた。このところの用語集などの記載の変化は、従来の一方的、短絡的な説明は事実に反することが意識されてきた、ということであろう。実際の所は、スペイン人征服者の兵力が少数であったのは事実であるとしても、それが「たちまちこれらのインディオの諸国家をほろぼした」と言うのは完全に誤っている。アステカ王国に向かったコルテスの場合は、奸計によってテノチティトランに入り、モンテスマ王を捕らえたときはスペイン人だけの少数の兵力によっていたが、総督ベラスケスの差し向けたコルテス追討軍と戦うために離れたときにインディオの反乱が起き、多数のスペイン人が殺されている(悲しき夜、ノーチェ・トリステ)。コルテスは追討軍を破ってその兵力を合流させ、さらにアステカ人のモンテスマ王と対立していたトラスカラ人を味方につけ、総勢10万もの軍勢となって再びテノチティトランを攻撃し、陥落させてアステカ王国を滅ぼしたのだった。またインカ帝国も1533年に滅亡したとされているが、実際にはその後継国家がマンコ=インカに率いられて、1572年までインカの反乱と言われる抵抗を続けている。つまり、インディオ征服はけっして「たちまちのうちに」ではなかったのだ。インディオの必死の抵抗は、ラス=カサスを初めとする当時のスペイン人の報告や記録につぶさに語られており、それらの事実を無視して、いかにも高度な文明を持つスペイン人は、かんたんにインディオを征服した、というイメージを抱かせてしまうのは問題がある。日本の世界史教育、あるいは世界史教科書に未だに残る西洋文明優越史観の残滓と言うことが言えるだろう。

インディオはなぜ征服されたか

 「たちまち」とか「かんたんに」という形容詞をつけるのは明らかに誤っていることが分かったが、激しい抵抗にも拘わらず、インディオたちは征服され、文明が破壊されたことはたしかである。なぜインディオが敗れたか、についてはヨーロッパの歴史家の解釈も様々であるようだが、馬や鉄砲という武器を知らなかったアステカ人、インカ人がそれにおびえたこと、両国ともその最高神は色が白いということが重要な属性とされていたので、スペイン人をその再来とみて抵抗しなかったなどの心理的な要因から、アステカ王国は徴税などの悪政が周辺の人びとの反感を買っていたこと、インカ帝国では王位をめぐる内紛がスペイン人に乗ずる隙を与えたこと、つまりインディオ国家自体の問題などが指摘されている。しかし、これらはいずれもインディオ側に征服されてしまう要因があった、という説明である。これはどこか、植民地になった地域や民族はそれ自体に問題があった、だから植民地化は致し方なかった、むしろ植民地化されたことによって文明化された・・・という「新植民地主義」の理屈につながるような気がする。「征服」は常に、征服しようとした側に原因があるのである。「インディオはなぜ征服されたか」という問題の立て方ではなく、「スペインはなぜ新大陸を征服したのか」が問われなければならない。そこには主権国家体制を確立しようとするスペイン王室の財政上の要因、カトリック国として宗教改革に直面している精神的、文化的要因があると考えられる。

マクニールの『疫病と世界史』

 1997年に歴史家マクニールが発表した『疫病と世界史』上下は、日本でも広く読まれている。マクニールはその執筆動機として、「コルテスは600人に足りぬ部下を率いて遠征に出立し、数百万の民を擁するアステカ帝国を征服した。一体なぜこれほどの少人数で勝ちを収めることができたのか、との疑問が私を捉えた」ことをあげている。また、なぜメキシコやペルーの古来の宗教は跡形も無く消え失せ、キリスト教が人びとの心をとらえたのか、ということも疑問だった。マクニールが到達したその解答は次のようなものだ。
 コルテスと部下が首都から追い出されてから4ヶ月後に天然痘が首都に突発、白人は免疫をもっていたが、インディオにとっては未経験で、抵抗力がなかった。この最初の大虐殺だけでおそらく全住民の3分の1か4分の1が死んだ。これはアステカ帝国が滅んだ直接的な原因である。そして自分たちの神はこの苦難を救ってくれなかったが、白人の神は白人を守った。「古来のインディオの神々を中心として出来上がった宗教体系、聖職者の組織、生活様式などは、スペイン人が信心する神の優越性の、これほどはっきりした証拠の前にはひとたまりもなかった」ために、新大陸にはたやすくキリスト教が普及していった、とマクニールは結論づけた。この天然痘は旧大陸の文明のなかで度々流行を繰り返していた感染症による疫病である。同書でマクニールは、疫病とインディの不幸な出会いを文明という世界史の文脈のなかに位置づけて詳しく論じている。<マクニール/佐々木昭夫訳『疫病と世界史』2007 中公文庫 上p.23,25、下p.81- 第5章> → アステカ王国の滅亡 インカ帝国の滅亡
 人類が、天然痘の恐怖から解放されるきっかけとなったのは、18世紀末にジェンナーによって発見された種痘法が普及する19世紀前半のことである。
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書籍案内

マクニール/佐々木昭夫訳
『疫病と世界史』下
2007 中公文庫

安村直己
『コルテスとピサロ
遍歴と定住のはざまで生きた征服』
世界史リブレット 人
2016 山川出版社