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ピサロ

16世紀初頭のスペインの征服者。カルロス1世との協約によりインカ帝国征服を請け負い、1533年にインカ帝国を滅ぼした。

 フランシスコ=ピサロ Pizarro は、スペイン人のピサロはコンキスタドール(征服者)の代表的人物。南米大陸のインカ帝国を征服し、現在のペルー、エクアドル、コロンビア一帯をスペイン領に組み込んだので、アステカ王国を滅ぼしてメキシコを征服したコルテスとともに、もっとも著名な征服者である。しかし、現地の征服者間の内紛によって殺された。

インカ帝国を滅ぼす

 ピサロはパナマ地峡を発見したバルボアの副官だった人物で、バルボアに続き、南の海(太平洋)の彼方にある黄金帝国を探すために、パナマから南アメリカ大陸探検に乗り出した。何度か失敗した後、1532年に現在のエクアドルに上陸、そこから南下してペルーのインカ帝国領内に入った。インカ帝国は高度な国家機構を持ち、道路網も整備されていたので、ピサロの率いるスペイン軍も進撃しやすかった。スペイン軍はカハマルカでインカ王アタワルパの陣に対面し、従軍司祭がアタワルパにキリストの教えを受け入れるかと問い、聖書を手渡した。インカ王がそれを投げ出すと、この「冒涜」を口実に、火砲で武装したスペイン騎兵の攻撃が開始され、わずか3分ほどで2000人以上が殺され、王も捕らえられ、後に処刑された。これでインカ帝国は滅亡した。その年、1533年にはピサロは首都クスコに無抵抗で入り、それとは別に海岸部に新都リマを建設した。クスコは後にインカ帝国の傀儡皇帝であったマンコ=インカが反乱を起こした際、破壊された。

カルロス1世とピサロの協定

 アメリカ大陸をめざしたコンキスタドール(征服者)は、成功報酬を王室に求め、王室もそれに応えて褒賞を約束して征服行為を実行させた。その際に、両者には協約書が締結された。インカ帝国の征服をもくろんだピサロはスペイン国王カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)との間で、1529年7月26日付けの協約書で、征服が成功した場合、総督の地位と種々の特権を得ることと、征服に従ったスペイン人に対し、土地や現住民のインディオにキリスト教化を委託して対価として年貢を取ることを認めるするエンコミエンダの権限を分与することを認められた。

ラス=カサスの告発

 ラス=カサス『インディアスの破壊についての簡潔な報告』では、ピサロを次のように評している。
(引用)1531年、例の札付きの無法者(ピサロのこと)は部下たちを率いてペルーの王国へ向かった。・・・彼の眼中には神も人もなく、ただひたすら彼は村々を破壊し、そこに暮らしていた人びとを破滅させ、殺害した。その結果、引きつづいてそれらの地方で甚だしい悪行が繰り返されることになったが、それは明らかにどんなに言葉をつくし強調しても、言いつくすことができないほどのものである。最後の審きの日に、われわれはそれらの出来事の非道さをはっきりと理解し、知るようになるだろう。<ラス=カサス『インディアスの破壊についての簡潔な報告』1976 染田秀藤訳 岩波文庫  p.139>

ピサロの奪った黄金

 1532年11月、ピサロはアンデス山中の街カハマルカでインカ皇帝アタウアルパを生け捕りにした。皇帝の身代金として一部屋分の貴金属が運び込まれた。しかし、ピサロはアタウアルパを解放せず(後に処刑する)、集まった財宝を戦利品として分配した。このとき溶解された貴金属は金塊が132万6539ペソ、銀塊が5万1610マルコ(1マルコは230グラム)であった。ここからカルロス1世の取り分を除き、ピサロには5万7220ペソの金塊と2350マルコの銀塊が配分された。ピサロはまたアタウアルパが使用していた黄金の輿(純金製で重さが83㎏)を自分のものにした。その後、首都クスコでも太陽の神殿などの財宝を奪い、他の町でも略奪を行った。これらの略奪された財宝は溶解された金塊・銀塊として大西洋を越えてセビリアにもたらされた。<青木康征『南米ポトシ銀山』2000 中公新書 p.15-16>  

Episode 過去を語りたがらぬ男、ピサロ

 フランシスコ=ピサロは大発見時代の征服者(コンキスタドーレス)の人間像の典型といえる。その素性はよくわかっていないが、1471年前後にスペインのエストレマドゥラで生まれ、父は歩兵大佐であったが母は街の売笑婦であったと伝えられている。彼は読み書きを習ったことが無く、豚飼いが本職であった。コロンブスによる「発見」以来、一旗組(アベンツレーロス)が続々と新大陸にわたったが、ピサロもその一人となった。パナマで太平洋の発見者バルボアの部下となったが、バルボアが1515年に逮捕された時に総督と知り合う機会を得て、バルボア死後は総督の軍事遠征に加わり、頭角を現した。1524年から太平洋岸を南下してペルー上陸を企て、何度かの失敗の後、「黄金郷」インカ帝国の存在を確信し、いったんスペインに戻って国王カルロス1世(ハプスブルク家のカール5世)に面談してその可能性を説き、1529年に(征服前の)ペルー総督に任命され、国家事業としてのインカ帝国征服の指揮権を得た。こうしてピサロは征服者として大成功を収め、新たな首都リマを建設した。1536~37年にはインカの反乱(傀儡皇帝であったマンコ=インカの反乱)を鎮圧したが、かつての仲間であったアルマグロと対立して内戦となり、彼を殺害した。ところが1541年、リマの私宅にいたピサロはアルマグロの息子に暗殺されてしまった。<泉靖一『インカ帝国』1959 岩波新書 p.231-258>
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書籍案内

泉靖一
『インカ帝国』
1959 岩波新書

ラス=カサス/染田秀藤訳
『インディアスの破壊についての簡潔な報告』
2013 岩波文庫

ティトゥ=クシ=ユパンギ口述・染田秀藤訳
『インカの反乱』
1987 岩波文庫

安村直己
『コルテスとピサロ
遍歴と定住のはざまで生きた征服』
世界史リブレット 人
2016 山川出版社