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黒人奴隷/黒人奴隷制度/奴隷貿易/大西洋奴隷貿易

15世紀末に始まったスペイン・ポルトガルのアメリカ新大陸植民地経営では、当初インディオの奴隷労働が行われたが、急激に人口が減少したため、16世紀からアフリカ大陸の黒人奴隷を供給する大西洋奴隷貿易が始まった。その後大量の黒人がラテンアメリカ地域に送られ、現地に定着した。この地域の諸国独立後もプランテーションにおける黒人奴隷労働が続いたが、19世紀に奴隷制批判が始まり、アメリカ合衆国での南北戦争の過程で黒人奴隷は解放された。しかしその後、黒人に対する人種差別はなくならず、その後も差別反対の運動が続いた。


 黒人奴隷貿易は、16世紀以降、ポルトガルスペイン・イギリス・フランスなどの国家的事業として行われ、アフリカ大陸各地から、多くの黒人(アフリカ人)が南北アメリカ大陸・西インド諸島に送られ、現地の鉱山や農園で奴隷として使役された。彼らの人権は認められず、奴隷商人によって商品として売買された。その背景には、スペイン・ポルトガルの新大陸植民地でインディオを酷使したため人口が減少し、労働力が不足したことがあげられる。
大西洋奴隷貿易 大西洋奴隷貿易は、主としてアフリカ西岸(ギニア湾沿岸)から多くの黒人が捕らえられて奴隷として西インド諸島・中南米に送られた。奴隷貿易はヨーロッパ、アフリカ、アメリカ大陸を結ぶ三角貿易の一辺をなし、中間航路と言われたが、奴隷船の苛酷な環境によって多くの黒人が洋上で命を落とし、またしばしば暴動が起こった。
プランテーション 黒人奴隷は安上がりな奴隷労働力として鉱山、砂糖・綿花・ゴム・コーヒーなどのプランテーション(大農園)で酷使され、次々と供給された。まずブラジルでは砂糖プランテーションが作られ、後に西インド諸島(ハイチ、キューバ島など)に広がった。北米大陸ではヴァージニアのタバコや藍のプランテーションが作られ、南部全域では綿花プランテーションが広がった。それらはアメリカ合衆国が独立してからも黒人奴隷に依存しながら発展した。
黒人奴隷の解放 19世紀に入るとイギリスで黒人奴隷貿易と奴隷制度に対する人道的な立場からの批判が強まり、ウィルバーフォースらの運動によってまず奴隷貿易禁止(1807年)が実現し、さらに奴隷制度廃止(1833年)そのものが実現した。アメリカ合衆国では、19世紀中頃に、北部工業地帯では黒人を賃金労働力として購買力をつけて経済を発展させようという志向が強まり、南部綿花プランテーションでの黒人奴隷労働維持の志向との対立するようになり、奴隷制が一つの争点となって南北戦争(1861~65年)となった。その過程でリンカン大統領が奴隷解放宣言(1863年1月)を行い、合衆国における黒人奴隷解放は実現した。その前後にラテンアメリカ諸国でも次々と黒人奴隷は解放された。最も遅れたのがブラジルで、1888年だった。
人種差別 しかし、アメリカ合衆国に於いては黒人には経済的に自立する基盤が与えられなかったため、貧困が続き、そのため白人の差別感情はなくならず、その後も真の黒人解放、平等化をめざす運動が主として黒人の側から起こった。ようやく第二次世界大戦後の公民権運動によって黒人差別は法的に否定されたが、その後もアメリカの人種問題はなおも深刻な国内問題として続いている。
※世界史上の奴隷・奴隷制についてはギリシアの奴隷制ローマの奴隷制、中国の奴隷/奴婢を参照。

参考 奴隷貿易とその廃止を記念する国際デー

 世界史の中で、黒人奴隷貿易の歴史が厳然とあり、現代世界にも深い爪痕を残している。そしてそれに対する奴隷制廃止運動も永く続いた。結論を先取りして言えば、現在の国際社会では、1998年にユネスコが8月23日を「奴隷貿易とその廃止を記念する国際デー」として世界的に奴隷貿易の加害と被害の歴史を思い出す日として設定しているところまで来ている。この日は1791年に、ハイチの黒人奴隷が初めて反乱に立ち上がった日である。奴隷制・奴隷貿易が廃止された現在の焦点は、なおも続く人種差別をなくすこと、かつて黒人奴隷貿易を行っていた西欧諸国がその賠償をどのように行うか、に移っている。 → UNESCO International day for Remembarance of the Slave Trade and Its Abolition

(1)大西洋黒人奴隷貿易の開始

ポルトガルの黒人奴隷貿易

 サハラ以南のアフリカ黒人を奴隷として拉致し商品化する行為を、組織的・国家的にはじめたのは15世紀のポルトガルであった。1441年にはエンリケ航海王子の派遣した艦隊はモロッコ南部のリオ・デ・オロで上陸、初めてアフリカ人を捉え、奴隷として本国に連れ帰った。こうしてポルトガル人による黒人奴隷貿易が開始され、1448年には西アフリカ海岸における最初のヨーロッパ人の居留地としてアルギム要塞が建設された。それ以後、ポルトガル人はギニア地方で黒人を捉え、本国に連れ帰ってヨーロッパ各地に金や象牙、胡椒とともに奴隷として供給した。
 ポルトガルのアフリカ西岸進出の動機はであったが、黒人奴隷の利益が大きいことが判明した。そこでポルトガルは将来、スペインとの競合を予測して、1455年にローマ教皇から新たに「発見」し、これから「発見」する非キリスト教世界を征服し、交易を独占する権利を認められた。これはローマ教皇が黒人奴隷を承認したことであり、大きな転機であった。
 ジョアン2世(在位1481~95年)の時、1482年にはギニア地方(現在のガーナなど)の金と奴隷貿易拠点としてサン=ジョルジェ=ダ=ミナに砦を築いた。これが後のエルミナ要塞である。
 15世紀中頃から16世紀中頃までのアフリカにおける黒人奴隷貿易はポルトガルの独壇場であった。しかし、奴隷はリスボンに送られヨーロッパ内に売られるか、アフリカか大西洋上のマディラ島の砂糖農園で使役されるかだった。つまりこの段階ではポルトガル以外の国は奴隷貿易に参入しておらず、また奴隷が送られるのは旧世界であり、新大陸の南北アメリカ大陸・西インド諸島にはまだ送られていなかった。

負の世界遺産 エルミナ要塞

 アフリカ西岸のギニア地方の、現在のガーナ、かつて黄金海岸といわれた海岸に、ポルトガルが黒人奴隷貿易の最初の拠点として設けたサン=ジョルジェ=ダ=ミナ砦は、16世紀末にオランダに奪取され、エルミナ要塞と言われるようになった。その建物が現在も残されており、これは奴隷貿易という人類の負の遺産として、他の城塞群と共に世界遺産に登録されている。
奴隷海岸 またかつて黄金海岸と言われた現在のガーナの東、現在トーゴ、ベナン、ナイジェリアの海岸は、かつて奴隷海岸と言われた。このあたりにあった黒人王国ダホメ王国(現在のベナンの地域)、ベニン王国(現在のナイジェリアの一部)が、内陸から捕獲してきた黒人をヨーロッパの奴隷商人に売り渡していた。17世紀にはポルトガルに代わってイギリスやフランスが進出し、奴隷交易で繁栄したので奴隷海岸と言われるようになった。
 またギニア湾に浮かぶサン=トメ島(現在のサントメ=プリンシペ)はポルトガルの奴隷貿易の海上拠点として利用された。17世紀後半になると、ポルトガルはコンゴ川流域のコンゴ王国との間でも奴隷貿易をおこない、ルアンダ(現在のアンゴラの首都)からブラジルに向けて多数の黒人が奴隷として送られた。 → ポルトガルのアフリカ植民地支配

黒人奴隷制以前の新大陸

 16世紀の初め、西インド諸島、中南米に進出したスペイン人入植地は、さまざまな作物の農園や鉱山が開かれていった。それらの労働力としてインディオがあてられ、始めは奴隷として使役したが効果が上がらず、エンコミエンダ制などの方式を採るようになった。しかしインディオが酷使されたことは変わらず、次第に人口が減少していった。すでに早く、1501年に宣教師ラス=カサスが、インディオの酷使による減少を防ぐための代替案としてアフリカの黒人を使用しようと提言したことがあったが、彼自身は後にその件を反省している。
 北アメリカ大陸に入植したスペイン人はインディアンの奴隷化を試み、同じく北米に入植したイギリス人、フランス人、オランダ人らもインディアンを強制的に働かせようとした。イギリス人入植地のヴァージニアのタバコ・プランテーションでは本国からの白人年季奉公人も労働力とされた。他にもポルトガル人が入植したブラジルでも始めはインディオ奴隷による砂糖プランテーションが作られた。

白人年季奉公人制度=実質的な「白人奴隷制度」

 イギリス領の西インド諸島や北アメリカのプランテーションにおける労働力の主力は、黒人奴隷制が導入される17世紀中頃までは、白人年季奉公人であった。主力が黒人奴隷に移っても白人年季奉公人の制度は19世紀初頭まで存在した。
 年季奉公人はイギリス国内から買い主が渡航費用を負担してアメリカに渡り、一定期間強制的な労働に服さなければならない制度で、18世紀に黒人奴隷が大量に導入されるまでの植民地のプランテーションの労働力となった。彼らは本国の貧困層の白人であり、多くは移民として新大陸にわたったが、中には流刑とされたもの、買い主にだまされ拉致された者なども少なくなかった。彼らは年季が明ければ自由になれた点が黒人奴隷と異なるが、黒人奴隷制度がアメリカで導入される前に、白人奴隷制ともいうべき労働制度があったことは見逃すことができない。アメリカ植民地で黒人奴隷制度がすんなり受け入れられる前提には白人年季奉公人制度があったといえる。

新大陸への黒人奴隷貿易

 これらの基本的に狩猟民であるインディオ、インディアン奴隷に農耕を強制するのは効率が悪く、またかれら自身も過酷な労働と白人のもたらした天然痘などの感染症によって急速に人口が減少し、全般的な労働力不足を補うために、スペイン領アメリカには1530年代から、ポルトガル領のブラジルには1570年代から本格的にアフリカの黒人奴隷が供給されるようになった。
アシエント制の意味 スペインはスペイン植民地に黒人奴隷を供給する貿易商に対して、許可証としてアシエントを発行した。アシエントとは元来、国家の公益事業について王室が民間と取り交わす請負契約を意味した。16世紀に新大陸のスペイン領に奴隷を供給する必要が生じたが、1493年教皇子午線でスペインとポルトガルで支配権を分割したとき、スペインはアフリカにたいする権利を放棄していたので、自ら黒人奴隷を供給できなかった。同時にスペイン人商人には黒人を現地で拉致し、奴隷として新大陸まで運ぶノウハウはなかったので、スペイン王室は他国の奴隷貿易請負業者に一定数の奴隷の供給の許可を与える代わりに、契約料と税金を納めさせて王室の収入とするようになった。その際の奴隷供給契約(許可状)をアシエントというようになった。
アシエントをめぐる競争 このスペインによって設けられた新大陸への奴隷供給契約制度であるアシエント制は、今後の大西洋奴隷貿易に重要な意味をもっていく。アシエント権は、黒人奴隷貿易というある意味では異常な形態の貿易を実行できる「お墨付き」の役割をもっていた。始めはアフリカに拠点をもっていたポルトガルが独占していたが、その利益が大きくなると共にオランダ、イギリス、フランスなどの冒険的商人もその権利を得ようと必死に争うようになり、その獲得が国家目的にもなっていくからである。 → 詳細はアシエントの項を参照。<布留川正博『奴隷船の世界史』2019 岩波新書 p.37-58>

17世紀以降の大西洋奴隷貿易

 アシエント権は初めはポルトガル奴隷商人がを認められていたが、1640年頃から、アフリカ西岸のギニア湾には、オランダ、フランス、次いでイギリスが相次いで進出するようになり、ポルトガルの独占は次第に揺らいでいった。
(引用)こうしてニグロ奴隷貿易は、17世紀の経済界でもっとも重要な部門の一つになっていた。16世紀の例に倣って、この貿易は各国政府から、アフリカ西岸で奴隷取り引きを行い、この取引きを守るために城砦を設け、西インド諸島への奴隷を移送、売却する独占的特権を賦与された特許会社という形態をとって実践された。自由貿易商(フリートレイダー)とか「もぐり商人」とか呼称された個人商人は排除されていたわけである。(以下各国の説明)<エリック=ウィリアムズ/川北稔訳『コロンブスからカストロまで』1970 岩波現代新書 2014 「資本主義と奴隷制」p.210>
オランダ オランダはスペインからのオランダ独立戦争を戦い、1609年に実質的独立を果たした。すでに16世紀末にギニア海岸のポルトガル奴隷貿易の拠点エルミナ要塞を奪取しており、17世紀から本格的に大西洋奴隷貿易に参入してきた。1621年に奴隷貿易の特許会社としてオランダ西インド会社を設立して、西インド諸島だけでなくポルトガル領ブラジルに進出し、アフリカの奴隷を砂糖プランテーションに運び、砂糖を本国に持ち帰ることによって大きな利益を上げるようになった。1662年にオランダはアシエント権を獲得し奴隷をスペイン植民地に運ぶ権利を独占し、この時期、オランダは大西洋貿易の主役にのし上がったといえるが、その覇権は長続きせず、英蘭戦争で1674年に最終的に敗北したことによって、徐々に後退せざるを得なかくなり、その地位はイギリスに奪われていった。
フランス コルベールが1664年に奴隷貿易の独占権を与えてフランス西インド会社を設立して大西洋奴隷貿易に本格的に参加するようになった。次いで1673年には独占権はセネガル会社に移された。その進出地は17世紀の前半に西インド諸島の小アンティル諸島・グアドループなどに始まり、1740年代までにエスパニョーラ島の西半分をスペインから奪ってサンドマング(後のハイチ)を獲得して砂糖プランテーションを建設した。しかしフランスでは奴隷貿易への自由参加要求が強く、1674年には西インド貿易は自由化された。18世紀には、フランスの最大の奴隷貿易港ナントから、多くの奴隷貿易船がアフリカに向かった。ナントに次いで、ボルドーやル=アーブルなどが奴隷貿易で繁栄した。フランスの奴隷貿易船はアフリカ西岸のセネガル、ガンビアからギニア湾岸、さらにアンゴラ方面で奴隷を仕入れ、西インド諸島の砂糖プランテーションの労働力をして送り込んだ。その中で最も多い供給地がサンドマング(後のハイチ)で、1788年には白人2.8万人であるのに対し、黒人奴隷40.6万人だった。
イギリス イギリスはチャールズ2世が特許状を与え、1672年にロンドンに王立アフリカ会社が設立され、アフリカとアメリカ新大陸の間の奴隷貿易会社として発足した。王立アフリカ会社は王室が保護し、自ら参加さたことでわかるように王国にとって重視され、イギリス東インド会社と並ぶ当時最大の貿易会社であった。王立アフリカ会社は1673年から89年までの間に合計89,000人の奴隷を輸出(年平均5250人)した。いずれもギニア海岸から西インドのジャマイカなどに運ばれた。それに対してブリストルやリヴァプールの私貿易業者が闇で参入するようになったため、イギリス政府は1698年に議会で王立アフリカ会社の独占廃止法が成立し、1700年から10%の税を納めれば、誰でもイギリス国旗を立てて、黒人奴隷貿易に参入できるようになった。スペインのアシエント権(奴隷貿易許可状)は1701年にはフランスの手に移ったが、スペイン継承戦争後の1713年ユトレヒト条約でイギリスに譲渡され、イギリスが大西洋の黒人奴隷貿易(三角貿易)の利益を独占するようになる。<布留川正博『奴隷船の世界史』2019 岩波新書 p.48-52> → (3)イギリスによる黒人奴隷貿易
その他の国の黒人奴隷貿易 17世紀に黒人奴隷貿易に参入したのは上記三国だけではなかった。スウェーデンは黒人奴隷貿易の特許会社として1647年にギニア会社を創設した。デンマークでは1671年に西インド会社を設立して特許状を与え、王族も株主となり、1674年にはその活動範囲をギニアにまで拡げた。ブランデンブルク=プロイセンまでがブランデンブルク・アフリカ会社を設立し、1682年にはアフリカ西岸に最初の貿易拠点を建設した。
(引用)1450年前後にポルトガルの独占事業として始まった奴隷貿易は、こうして17世紀末までには飛び入り自由の大乱戦模様となっていたのである。<エリック=ウィリアムズ『同上書』 p.210>

参考 西欧諸国にとっての奴隷貿易

 エリック=ウィリアムズの同書は、17世紀の黒人奴隷貿易が「西方世界の力であり腱である」と言う言葉とともに、次のような人物の言葉を伝えている。
  • イギリスのチャールズ2世 奴隷貿易こそは「かくも多くの労働力を持ち込み、わが王国を富ましめる……有益な貿易」でる。
  • フランスのコルベール 奴隷貿易ほど利点の多い商業は世界中に二つとあるまい。
  • ベンジャミン=ラウレと言う人物が1685年にプロイセン選帝侯に語ったことば「周知のように、奴隷貿易こそはスペイン人が新世界から絞り出した富の源泉でありましたし、スペイン人に奴隷を供給する術(すべ)を心得た者なら誰でも、あのスペイン人の富の分け前に与れるのです。……オランダ西インド会社がこの奴隷貿易で富裕化したことを知らぬ者はありますまい」
  • サー=ドルビー=トマス 「イギリスの快楽、栄光、栄華は他のいかなる商品にもまして砂糖によってもたらされたのだ。この点では毛織物さえ及ぶものではない」
 さらにウィリアムズは、17世紀に続く「18世紀における奴隷貿易は人類の歴史に残る最大級の民族移動(マイグレイション)のひとつといえよう」と言っている。<エリック=ウィリアムズ『同上書』 p.221-222>

奴隷制度と奴隷の反抗

(引用)奴隷制度は基本的に恐怖政治である。奴隷は、些細な犯罪のためにも鞭打たれ、鉄鎖につながれた。1度には、つまり一つの犯罪に対しては、39回までしか鞭打ってはならない、と決められていたことは事実である。しかし、この規則は遵守するよりは破る方が名誉と考えられたほどのものであったし、どんな意味にもせよこの規則に奴隷の保護なり、奴隷所有主の絶対権力の制限なりを読み取る人はよほどの詭弁家といわねばなるまい。植民地によっては、奴隷殺しは現地通貨で100ポンド、イギリスの通貨にして約57ポンドの罰金刑に処せられた。……しかし、それが何を意味していたかは、次に引用する部分だけからもあきらかである。
「……奴隷を殺した自由人を死罪に問うようなことは、この島(アンティグア)の社会体制や政体に合わないし、それはあたかも奴隷に白人への抵抗を奨励するような仕儀にもなろうからである。奴隷殺害のかどで自由人が死罪に問われるなどということは、カリブ海のいかなる島においても、いまだかつて聞いたことがない。」<エリック=ウィリアムズ『同上書』 p.299-300>
 奴隷がこうした苦境から逃れる方法は四つあった。
  • 第一のそれは自殺である。これは強力な武器で、奴隷船の船上でも砂糖プランテーションに着いてからでも、奴隷商人をやっつけるために、意識的に行われた。
  • 第二の逃げ道は、プランテーションからの逃亡であった。バルバドスでは30日以上逃亡した奴隷は片足を切断するという規定があった。この罰則の厳しさは逃亡がいかに多かったかを物語っている。
  • 第三の道は、1772年から、イギリス領西インドの黒人奴隷はイギリスやアイルランドに連れてこられたときは自由人となるという裁判の判決が出たことであった。しかしこの判決は植民地では意味をもたなかった。
  • 第四の、そして最も知られた、奴隷制度に対する奴隷自身による回答が「叛乱」であった。奴隷反乱は奴隷貿易船の中で始まる。ナント港所属の奴隷貿易船では15隻に1隻の割合で反乱が起こり、1775年のディアナ号は積荷であった244人の黒人奴隷に乗っ取られた。プランテーションでも17世紀にたびたび奴隷反乱が起きている。サンドマング(ハイチ)でも18世紀の大反乱の予行演習が1679年に起こっている。ジャマイカでは逃亡奴隷はマルーンといわれ、その中には奥地で自立し、抵抗を続け、シマロンといわれる武装集団を造った者もいる。
<エリック=ウィリアムズ『同上書』 p.301-314>
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書籍案内

サイディヤ・ハートマン
榎本空訳
『母を失うこと
大西洋奴隷航路をたどる旅』
2023 晶文社

黒人奴隷だった高祖母が大西洋を渡った航路をたどる旅。奴隷貿易の実態、奴隷を送り出したガーナの実態が描き出される。

エリック.ウィリアムズ
中山毅訳
『資本主義と奴隷制』
初刊 1944
ちくま学芸文庫 2020

文庫本化で手近に読めるようになった。西インド諸島出身の黒人歴史家による鋭い指摘に富んだ奴隷貿易論。

エリック=ウィリアムズ
/川北稔訳
『コロンブスからカストロまで(Ⅰ)』カリブ海域史1942-1969 初刊 1970
岩波現代文庫 2014

黒人奴隷貿易が西インド諸島、アフリカ、ヨーロッパにそれぞれどのような意味をもっていたか、を論じた古典的名著。

布留川正博
『奴隷船の世界史』
2019 岩波新書

最近明らかになった奴隷船の記録データベースをもとに黒人奴隷制を分析。わかりずらいアシエントについても詳しく解説している。

池本幸三/布留川正博
下山晃
『近代世界と奴隷制』
1995 人文書院

大西洋奴隷貿易を詳しく論述。資料、図版が豊富。

(2)イスラーム世界での黒人奴隷貿易

ムスリム商人によるインド洋交易圏での黒人を奴隷として売買した貿易。このインド洋交易における黒人奴隷貿易は、17~19世紀にオマーンによって盛んに行われ、ザンジバルがその中心として栄えた。

 紀元前後から盛んになった季節風を利用するインド洋交易圏で、アフリカの黒人を奴隷として売買することが行われていた。特に8世紀後半にアッバース朝が成立して、バグダードが建設され、バスラなどペルシア湾に面した都市が発展し、ムスリム商人がインド洋に進出するようになると、彼らはアフリカ東岸を南下し、象牙などと共に黒人を捕らえて奴隷としてイスラーム圏で売りさばくようになった。イスラーム法ではイスラーム教徒を奴隷とすることは否定されていたので、アフリカのナイル上流地域のアビシニア(エチオピア)のキリスト教徒(キリスト単性説を信奉するコプト教会系)や、現在のタンザニア、モザンビークなどの内陸部の非イスラーム教徒を捕らえて奴隷とし、彼らはイスラーム圏で家内奴隷や農園奴隷として使役された。黒人奴隷はイスラーム圏ではザンジュと言われ、アッバース朝時代の869~883年に起こった奴隷反乱はザンジュの乱といわれている。またアフリカ東岸で奴隷貿易の中心地として栄えたザンジバル島の名もザンジュから来ている。

ザンジバルの奴隷貿易

 アラビア半島からアフリカ東海岸にかけて、16世紀後半からポルトガルの衰退が進み、対抗していたオマーンのイスラーム政権が台頭した。17世紀末までにモンバサザンジバルモザンビークなどに拠点を設けたオマーンは、盛んに黒人奴隷貿易を展開し、それは19世紀のオマーンの最盛期サイイド=サイードの時代までつづいた。
 その頃この地域に進出したイギリスは1833年奴隷制度禁止をすでに決めていたので、オマーンとザンジバルに対しても1873年に奴隷売買を禁止する条約を締結、奴隷市場は閉鎖された。しかし実際に奴隷貿易が終わるのは20世紀に入ってからであった。<『新書アフリカ史』講談社現代新書 p.236>
注意 アフリカの黒人が、アメリカ大陸で奴隷とされる以前に(あるいは同時に)、イスラーム世界で広く「用いられていた」という事実は、日本ではあまり知られていない。このことをことさらにとりあげることによって、言外に、アフリカ人が奴隷とされるのは昔からあった、そういう劣等民族であったから、ヨーロッパやアメリカでもそうなったのは自然の成り行きであり、アメリカの発展にとってはやむを得なかったのだ、という認識があるとすれば、それは明らかに誤っている。近代以前の奴隷制度(異教徒や戦争捕虜を奴隷とする)と、近代アメリカの黒人奴隷制度(経済的需要からの組織的な制度)とは明らかに異なる。

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(3)西欧諸国の黒人奴隷貿易

17世紀に始まったアメリカ大陸・西インド諸島への黒人奴隷貿易は、18~19世紀にイギリスが三角貿易を独占してその利益を上げ、植民地アメリカの発展を支える労働力となっていった。

北アメリカの黒人奴隷の始まり

 北アメリカのイギリス植民地に最初につれてこられた黒人奴隷は、1619年8月、オランダの商人によって、ヴァージニア植民地のジェームズタウンに「輸入」され、タバコ・プランテーションの経営者(プランター)に売り渡された20人が最初であった。イギリス植民地でははじめは白人の年期奉公人(ロンドンの貧民などが強制的に連行されることもあった)を労働力としていたが、プランター(大農園経営者)はそれよりも一生涯使役できる黒人奴隷の方が採算が合うと考えたのだった。

1619年という年

 アメリカ大陸にもたらされた黒人奴隷の実質的な最初の年となった1619年は、最初の植民地議会であるヴァージニア議会が開催され、自治が始まった記念すべき年でもあった。また、この年はメイフラワー号ピルグリム・ファーザーズがプリマスに上陸する1年前にあたっている。
(引用)アメリカ最初の代議制議会の誕生という民主主義的なもののはじまりと、アメリカ最初の黒人奴隷の輸入、すなわち生身の人間を動産とする黒人奴隷制度という非民主主義的なもののはじまりとが、同じ時に、同じ場所で、同じ人間によってなされたことのアメリカ史の皮肉である。それは、たんに皮肉ということ以上に重要な歴史的意味を、その後のこの国の歴史において現実に持つことになるが、この二つの出来事は、偶然とよぶには、あまりにも偶然的でありすぎた感がある。<本田創造『アメリカ黒人の歴史』岩波新書 1964 p.31 新版1991 p.23>

イギリス、アシエントを獲得

 イギリス領の西インド諸島ジャマイカ島などでも、砂糖プランテーションの労働力として黒人奴隷が使役された。イギリスは1672年に奴隷貿易独占会社である王立アフリカ会社を設立し、フランスとの抗争で北米大陸の植民地を拡大しながら、1713年ユトレヒト条約で、アシエント(スペイン領への黒人奴隷供給契約)を獲得し、新大陸の黒人奴隷貿易を独占した。

イギリスの黒人奴隷

 イギリスの、本国とアフリカ東岸、北米・中南米・西インド諸島を結ぶ三角貿易の一環としてブリストルなどを拠点として行われた黒人奴隷貿易はアフリカと南北アメリカ大陸を結ぶ主要な品目となり、大々的に展開され、多数のアフリカ人が奴隷として新大陸に連行されていった。イギリス商人は西アフリカ内陸のベニン王国の王に鉄砲を大量に売りつけ、ベニン王はその鉄砲で奴隷狩りを行ってイギリス商人に売った。奴隷とされた黒人はギニア地方のいわゆる奴隷海岸(Slave Coast)の港から船に積み込まれ、中間航路でアメリカ大陸や西インド諸島に輸出された。黒人奴隷はタバコ、藍、米のプランテーションでも使役されていたが、特に18世紀からは南部に綿花プランテーションが発達し、そこでは欠くことのできない労働力となり、18世紀に黒人奴隷貿易は最盛期を迎えた。

黒人奴隷貿易と産業革命

 イギリスは奴隷貿易を含む三角貿易の利益を蓄積して産業革命を達成した。また19世紀初めまで、イギリスの綿工業は奴隷貿易と結びついて発展した。イギリスがアフリカに持ち込んだのはマンチェスターなどのランカシャー地方の工場で作られ、リヴァプールから積み出された綿織物であり、アフリカで綿織物を荷下ろしして黒人奴隷を詰め込み、西インドにもたらしてそこで砂糖や煙草、綿花などを積み込んでリヴァプールに戻ってきた。この奴隷貿易によって蓄積された富は、さらに綿工業に投資され、産業革命はさらに進化した。また、アメリカ南部のプランテーションで黒人奴隷によって生産される綿花はイギリス綿工業の原料として盛んに生産され、1793年ホイットニーの綿繰り機の発明が増産に拍車をかけた。
 黒人奴隷貿易で資本を貯えた人が直接産業資本家になったわけではないが、イギリスの経済を支えたことは間違いがない。同じ18世紀に東インド会社によるインド植民地支配も大きな利益を生んでいた。この大西洋の黒人奴隷貿易と、アジアでのインド植民地支配が、イギリスの産業革命という蒸気船を推進した外輪の二輪だったと言える。

黒人奴隷の数

 16~19世紀までに、アフリカ大陸から「拉致」された黒人の数は「あまりにも膨大」であるが、エドワード・ダンバーの1861年の推定によれば、16世紀には88万7500人、17世紀には275万人、18世紀には700万人、19世紀には325万人、総計1400万近くもおよぶ。しかも、中間航路で死亡した黒人も入れれば、7000万人と推計されていた。<本田創造『アフリカ黒人の歴史』新版 岩波新書 1991 p.28>
 第二次世界大戦後、大西洋奴隷貿易の科学的研究が進み、1969年、アメリカの歴史家カーティンは諸資料を総合して推計し、総計で約956万6000人という数字を挙げた。数千万というかつての数字とは相当開きがあり、少なすぎるのでは、あるいは逆にそれでも多いのでは、とさまざまな反論があった。
黒人奴隷総数の最近のデータ 2000年代に入り、同例貿易船のデータベース化が進み、コンピュータで統計学的に研究することが可能になり、かなり具体的な数字が報告されるようになった。その一つにエルティスとリチャードソンが世界各地の研究者からデータを集めて分析した結果として、黒人奴隷の総数を1070万人としている。また、その内容の分析から、定説と異なる実態も明らかになってきた。<布留川正博『奴隷船の世界史』2019 岩波新書 p.21-36>
  • いままでイギリスの奴隷貿易が最も多いと思われていたが、最も多くを輸送していたのはポルトガル船、ブラジル船であった。
  • 奴隷の輸入で最も多かったのもブラジルで480万。次いでイギリス領西インド(224万)、スペイン領アメリカ(114万)、フランス領西インド(109万)、オランダ領西インド(44万)と続き、イギリス領北アメリカは38万人に過ぎなかった。イギリス領北アメリカつまりアメリカ合衆国は黒人奴隷の再生産が多かったものと思われる。
  • 奴隷の輸出地で最も多いのは、従来はギニア湾岸と思われていたが、実際にはアフリカ中西部海岸のアンゴラが最も多かった(560万)。

奴隷貿易・奴隷制の禁止

 18世紀末のイギリス産業革命の進展は、危険な黒人奴隷貿易よりは、安価な原料を輸入し、工業製品を輸出することであがる利益の方がうわまわるようになった。それはアフリカを黒人奴隷の供給地としてではなく、原料の供給地であり製品の市場である植民地として支配しようとする政策の転換をもたらした。並行して、人道的にも黒人奴隷を禁止すべきであるという運動が起こった。 → 詳しくは奴隷制度廃止の項を参照
イギリス イギリスで奴隷貿易が禁止されるのは、1770年代からのウィルバーフォースらのキリスト教福音主義派の運動によって反奴隷制運動が始まり、その最初の成果として1807年奴隷貿易禁止法が成立した。しかし植民地の西インド諸島ジャマイカ砂糖プランテーションなどでは依然として黒人奴隷制がつづいており、次ぎに制度そのものが問題とされるようになった。産業革命が進行したことによって産業資本家や中間層が成長、彼らはトーリ党、ホイッグ党に働きかけたことによって1820~30年代に審査法の廃止、カトリック教徒解放法などの改革が進み、特に1832年に第1回選挙法改正が実現して議会に自由主義勢力が増えたことによって、翌1833年奴隷制度廃止が実現した。1831年にはその実現に直接影響を与えた、ジャマイカの黒人奴隷反乱が起こっているが、1833年の奴隷制度廃止はジャマイカを含むイギリス領西インド諸島でも実施された。その結果、イギリス領での砂糖プランテーションは衰え、その中心はスペイン領キューバに移った。またイギリス領カナダにも適用されたので、1850年代になるとアメリカからの逃亡奴隷が神田を目指すようになる。
フランス フランスはサンドマング島(ハイチ)やマルチニック島などの西インド諸島植民地で黒人奴隷を使役して砂糖プランテーションやコーヒープランテーション生産が行われ、本国のナントやボルドーの貿易商が奴隷貿易を行っていた。イギリスの奴隷貿易反対運動の影響でフランスでもブリッソなどが黒人どもの会を作り黒人奴隷制反対運動が始まり、フランス革命が勃発するとその自由・平等・博愛の理念に動かされて、植民地でも奴隷解放の動きが高まった。1791年に黒人奴隷がトゥーサン=ルヴェルチュールに率いられて反乱を起こした。それまで植民地経営の維持を優先して奴隷制については議論されてこなかったが、ジャコバン派独裁政権のもと、1794年に国民公会植民地奴隷制の廃止宣言を出した。これは実質的なフランスにおける奴隷制廃止を意味していた。サンドマングの黒人はその後も反乱軍を率いて抵抗、1804年に最初の黒人共和国としてハイチの独立が実現した。しかし、その後クーデタで権力をにぎったナポレオンによって奴隷制廃止令は無効とされ、ハイチのをのぞいて奴隷制は復活した。ナポレオンはその最初の妃ジョゼフィーヌが西インド諸島のアンティル諸島マルティニクのサトウキビ大農場主の娘だったので、その要請を受けて奴隷制を復活させたと言われている。フランスがアンティル諸島なども含めて全面的に奴隷制を廃止したのは、1848年二月革命による第二共和政の成立によってであった。
 ハイチの黒人奴隷反乱の始まったとされる1791年8月23日は、現在はユネスコによって「奴隷貿易とその廃止を記念する国際デー」として記念日とされている。
ポルトガル “元祖”であったポルトガルの黒人奴隷貿易ではどうなっただろうか。ポルトガルは南米大陸のブラジルとアフリカ大陸の西海岸にアンゴラギニアビサウ、東海岸にモザンビークという広大な植民地を有していた。そのブラジルでは、およそ16~17世紀には砂糖のプランテーション、18世紀には鉱山、19世紀にはコーヒー農園で、それぞれ必要な労働力としてアフリカ黒人奴隷が供給されつづけた。ポルトガルはイギリスとの経済関係が強かったので、イギリスで黒人奴隷貿易が禁止され、奴隷制そのものも廃止されると風当たりが強くなってきた。やむなくポルトガルは1842年に海外領の奴隷貿易を全面に廃止した。その植民地であったブラジルは1822年に独立した後も黒人奴隷を使役しつづけていたが、1888年に奴隷制度を廃止した。これが世界で最後の奴隷制度の廃止となった。
アメリカ アメリカ合衆国では独立前の13州で1619年から黒人奴隷が使役され、またニューイングランドの貿易商の中にはアフリカと西インド諸島を結ぶ黒人奴隷貿易に参画するものもあった。1776年に独立戦争が始まると、イギリスからの輸入を断つ目的もあって奴隷貿易を禁止する邦(独立宣言後の植民地)が多くなった。1787年に制定されたアメリカ合衆国憲法で1808年までに連邦として奴隷貿易の禁止が盛り込まれた。1808年年に奴隷貿易禁止法が発効したが、実際には南部における黒人奴隷労働の需要はますます高かったので、密貿易という形で盛んに黒人奴隷貿易が行われた。ようやく19世紀前半に黒人奴隷の密貿易の非人道的な状況が問題となり、南部の綿花プランテーションでの黒人奴隷制度そのものもその是非をめぐって激しい南北の対立となり、南北戦争が勃発する。 → アメリカ合衆国の黒人奴隷制度
スペイン領諸地域 1810~20年代にスペイン領であったラテンアメリカの独立が続いたが、それらの多くでは奴隷制度の廃止は遅れ50年代前後となった。また西インド諸島でスペイン領として残っていたキューバとプエルトリコは、奴隷解放がさらに遅れることとなった。主な国の独立年と奴隷制度廃止年をまとめると次のようになる。<国本伊代編『概説ラテンアメリカ史』2001 新評論>
スペインから独立した国(独立年→奴隷制度廃止年):ベネズエラ(1811年→1854年)、パラグアイ(1811年→1870年)、コロンビア(1813年→1851年)、アルゼンチン(1816年→1853年)、チリ(1818年→1823年)、ペルー(1821年→1854年)、メキシコ(1821年→1829年)、エクアドル(1822年→1852年)、ボリビア(1822年→1826年)、ウルグアイ(1825年→1842年)
独立が遅れた地域:プエルトリコ(奴隷制度廃止1873年→アメリカに併合1898年)、キューバ(奴隷制度廃止1886年→独立1902年)
19世紀後半まで続いた黒人奴隷貿易 1807年にイギリスが奴隷貿易を禁止し、さらに1833年に奴隷制度を廃止したからといって、世界的な奴隷貿易や奴隷制度が終わったわけではなかった。イギリスは人道的立場を理由に他国の黒人奴隷貿易をも取り締まったが、キューバブラジルの砂糖プランテーション、さらにアメリカ合衆国南部の綿花プランテーション向けの黒人奴隷供給は19世紀後半まで続き、それらは密貿易として行われたので、18世紀の奴隷貿易よりも悲惨な状態がとなった。大西洋奴隷貿易が姿を消すのはアメリカの1865年の奴隷解放、キューバで1886年、ブラジルで1888年に実現した奴隷制度廃止によってであった。

(4)アメリカの黒人奴隷制

黒人奴隷はアメリカ南部の綿花プランテーションでの労働力として使役され、北部から批判が起こり、南北戦争に発展した。

アメリカ独立宣言の矛盾

 1776年、アメリカ合衆国独立宣言は、その冒頭に、「すべての人は平等に造られ」ており、譲ることのできない「生命、自由、そして幸福の追求」を権利として与えられていると述べた。しかし、この「すべての人」の中には黒人奴隷(そしてインディアン)は含まれていなかった。それどころか、独立戦争の指導者ワシントンジェファソンら自身が自分の農園では黒人奴隷を使役していた。

アメリカ合衆国憲法の規定

 1787年に制定されたアメリカ合衆国憲法(88年発効)には1808年までの奴隷貿易の禁止は盛り込まれたが、黒人奴隷制度そのものの廃止(奴隷の解放)は規定されておらず、権利は認められなかった。南部プランテーションでは黒人奴隷労働が不可欠と考えられていたからだった。
5分の3条項 なお、彼らの憲法上の根拠は、アメリカ合衆国憲法の第1条第2節第3項で、黒人とインディアンは「その他全ての人々」という表現のもとに、下院議員の選出と直接税の改税基準において白人一人に対して5分の3人と数えられ(いわゆる5分の3条項)ており、また第1条9節1項には「入国を適当と認められる人々の移住および輸入」という言葉があり、黒人奴隷貿易は廃止が予定される1808年まで公認されている、というものであった。

奴隷貿易の禁止

 黒人を所有する大農園主であったワシントンやジェファソンも、早くから奴隷制は害悪であると考えていた。またキリスト教の人道的見地から黒人奴隷を解放すべきであるという声は独立前から特に北部では盛んだったので、奴隷貿易禁止については憲法制定後20年間の猶予するとされ、ジェファソン大統領の時、1808年に実現した。しかしこれは奴隷貿易の禁止であり、奴隷制そのものの廃止ではなく、アフリカから新たに奴隷を連れてくることは公式にはできなくなったが、今いる奴隷はそのままであり、売買も認められた。また南部では依然として黒人奴隷の需要が大きかったので、スペイン船などによる黒人奴隷の密貿易が後を絶たなかった。

奴隷州と自由州

 独立後、北部諸州では奴隷制廃止が次々と実現し1819年には22州のうち北部11州が「自由州」となったが、南部11州は奴隷制度を認める奴隷州であった。人口の増加とアメリカ合衆国の拡大に伴い、新たな州(男性の人口6万で準州から州に昇格する)ができると自由州か奴隷州かいずれにするかが問題となった。1820年、ミズーリ州が奴隷州として合衆国に加盟したとき、北部のマサチューセッツ州からメイン州を分離して自由州を増やし、同時に北緯36度30分以北には新たな奴隷州を造らないというミズーリ協定といわれる妥協が成立した。

奴隷制反対運動

 植民地時代からクウェーカー教徒らによるキリスト教的な人道主義の見地からの奴隷制廃止運動があったが、運動は次第に漸進的、人道的なものより、急進的、政治的なものに転換し、1833年に北部の白人の奴隷制廃止論者が即時廃止を主張する「アメリカ奴隷制反対協会」が結成された。資本主義の発展にとって必要な国内の労働力して黒人奴隷の解放を期待する面もあった。1830年代からは黒人奴隷で逃亡し、自由を求めて北部の自由州に逃れるものも多くなり、また自由黒人と白人の中に奴隷解放運動も活発になった。1838年にメリーランドから脱走しマサチューセッツ州に逃れ、そこで奴隷解放運動に加わったフレデリック=ダグラスはその一人であった。また、南部の黒人の逃亡を助ける組織も秘かに作られた。

Episode アミスタッド号事件

 アメリカが黒人奴隷制問題で国論が二分されていた1839年8月、コネティカットの海岸に一艘の船が漂着、41人の黒人がとらえられた。船はアミスタッド(スペイン語で友愛の意味)号というスペイン船であったが、この黒人の扱いを巡る裁判はアメリカで大きな注目を浴びることとなった。スペインの船主はこの黒人はキューバ生まれで正当な手続きで購入した財産だから返還してほしいと要求した。しかし真相は彼らはアフリカのシェラレオネから奴隷密貿易船で運ばれてきた人々だった。途中で反乱を起こし船を奪ったが、航路がわからず北米海岸に漂着したのだった。裁判の結果、スペイン側の主張は退けられ、シンケと呼ばれた青年をリーダーとした黒人たちはアフリカに送還されることになり、正義は守られた形となった。この事件を描いたのがスピルバーク監督の映画「アミスタッド」である。 → 19世紀の中間航路

黒人奴隷の逃亡を助ける地下鉄道

 黒人奴隷の逃亡を助ける奴隷制廃止論者(アボリショニスト)は、「地下鉄道」(アンダーグラウンド・レイルロード)といわれる非合法組織を作った。その組織で「停車場」というのは逃亡奴隷が一夜の宿を取るところであり、「終着駅」は奴隷制度のない北部か、カナダであった。彼らの輸送には「車掌」がつき、勇敢な指揮官に導かれて北極星を頼りに北への長い旅を続けた。<本田創造『アメリカ黒人の歴史 新編』岩波新書 p.90 1991>
ハリエット=タブマン メリーランド州の女性奴隷ハリエット=タブマンは、1848年に一人で脱走し、フィラデルフィアに逃れ、その地で地下鉄道運動に加わり、自ら「車掌」の役割、つまり案内役を務めて、その後何十人もの奴隷を北部に導き“モーゼ”と言われた。奴隷の逃亡に手を焼いた白人プランターが連邦政府を動かし、1850年に逃亡奴隷法が制定され逃亡奴隷は逮捕されると奴隷主のもとに引き戻されることになったので、タブマンたちの地下鉄道の行き先は奴隷制のないカナダまで延長されることになった。

南部諸州の主張

 しかし、19世紀の中頃、イギリス向けの綿花生産が増大するに従い、南部の綿花プランテーションは経営者(プランター)は、黒人奴隷労働力が不可欠であったので、その存続を強く主張するようになった。こうして奴隷制問題は誕生間もないアメリカ合衆国にとっての深刻な対立軸となっていった。学者の中にはギリシアのアリストテレスも奴隷制を認めていたとか、南部の黒人奴隷の方が北部のいつ首を切られるかわからない賃金労働者よりも生活が安定しているなどと奴隷制を正当化する主張もあった。また、プランター主は密貿易による新たな奴隷供給が困難になると、奴隷同士を結婚させて子どもを産ませ、それを売り払った資金で耕地をひろげていくようになり、黒人奴隷は財産としてますます重要になっていった。

1850年の妥協

 その後も南北の奴隷制を巡る議論は対立の度合いを深めていった。1848年のアメリカ=メキシコ戦争でメキシコから獲得した地域を自由州とするか奴隷州とするかでも激しく議論されたが、結局1850年9月に「1850年の妥協」が成立し、カリフォルニアは自由州と認められたが、ユタとニューメキシコは住民投票で決めるという「住民主権」の考えが採用された。また首都のワシントンDCでは奴隷売買を禁止する代わりに、奴隷の自由州への逃亡を取り締まる逃亡奴隷法が制定された。ストウ夫人は逃亡奴隷法に反対し、1852年3月に『アンクル=トムの小屋』を発表し、大きな反響を呼んだ。

カンザス・ネブラスカ法

 住民投票で決するというやり方は1854年のカンザス・ネブラスカ法でも採用され、北緯北緯36度30分よりも北にあるカンザスとネブラスカが自由州か奴隷州かの選択は住民投票で決することとなり、ミズーリ協定は破棄された。これに対して北部の奴隷制拡大反対論者は強く反発し、同じ1854年に共和党を結成した。民主党も同法に反対するメンバーが脱退し分裂した。

南北戦争への道

 さらにひとりの黒人奴隷が解放を訴えた、1857年のドレッド=スコット判決では、最高裁判所の判断は、黒人奴隷は財産であり、財産は憲法修正第5条のいわゆる権利宣言で適正な手続き(デュー・プロセス)がなされないかぎり侵害されないのだから、連邦政府は奴隷解放を命令することはできない、というものであった。そのような強固な奴隷制擁護の壁に対して、白人の中でも実力で奴隷解放を主張する人々が現れ、その中のには1859年の「ジョン=ブラウンの蜂起」のような事件も起こった。

ジョン=ブラウンの蜂起

 白人の黒人奴隷制廃止論者ジョン=ブラウンは、1859年10月、ヴァージニア州の連邦武器庫ハーパーズフェリーを襲撃した。ブラウンは自分の息子三人を含む、白人と黒人あわせて22人からなる小人数で、この地を二日間にわたって占領した。
(引用)彼は、自分たちのこの壮挙が奴隷暴動の狼煙となって、全南部の奴隷がいっせいに蜂起することを期待していたのである。しかし、そのことにかんするかぎり、彼の計画は失敗に帰した。・・・・彼の二人の息子は戦死し、ブラウン自身も重傷を負って捕えられた。結局、彼の蜂起は失敗した・・・北部の各地で大衆的な追悼集会が開催され、ソローやエマソンやホイッティアなどの著名な知識人も心からブラウンの死を悼んだが、フランスの作家のヴィクトル・ユゴーが「奴隷制度は如何なるものも消滅する。南部が殺害したのは、ジョン・ブラウンではなくて奴隷制度であった」と、いみじくも予言したように、それから一年数カ月後には、北部の農民や労働者たちは、「ジョン・ブラウンの遺骸は墓の下に朽ちるとも、彼の魂は進軍する」と歌いながら、大挙して奴隷制打倒の戦争に立ち上がっていたのである。<本田創造『アメリカ黒人の歴史 新版』岩波新書 p.95>

南北戦争

 アメリカ合衆国北部では次第に、黒人奴隷制に対する非難が高まっていった。それとともに経済政策・貿易政策でも南北の対立は深まってゆき、1860年の大統領選挙で奴隷制拡大反対を掲げた共和党リンカンが当選すると、南部諸州が反発し合衆国から分離しててアメリカ連合国を作り、ついに1861年南北戦争が勃発した。リンカン自身は奴隷制廃止論者ではなく、奴隷制の拡大に反対したのであり、南部諸州の奴隷制は容認していた。南部との戦争を決意したのは、奴隷解放のための戦いとしてではなく、分離独立を阻止するためであった。

奴隷解放宣言

 戦局が南部有利に進む中、リンカンは大きな転換を試みた。それが1863年1月1日の奴隷解放宣言であった。これによってリンカンの戦いは奴隷解放を目ざすという大義名分が与えられ、それまで南部支持に傾いていたイギリス・フランスの国際世論も一挙にリンカン支持に転じた。奴隷解放宣言による国際世論の支持とホームステッド法による西部農民の支持によって南北戦争はリンカンの率いる北軍の勝利として終わった。 → イギリスの奴隷制度廃止

(5)アメリカの奴隷解放

南北戦争中に奴隷解放宣言が出され、黒人は人格と自由を獲得したが、その後は差別問題で苦しむこととなった。

 南北戦争中の1863年1月1日のアメリカ大統領リンカン奴隷解放宣言は、1865年12月の憲法修正第13条発効で確定した。これによってアメリカ合衆国は黒人奴隷制を否定し、黒人奴隷は解放された。憲法修正に先立ち、1865年6月19日に南部テキサス州に北軍の将軍が訪れ、最後まで残されていた奴隷を解放した。

TopicS 6月19日「奴隷解放の日」をアメリカの休日に

 黒人社会ではこの6月19日が実質的な「奴隷解放の日」として祝われ、「ジューンティーンス」とよばれてきた。2021年6月、アメリカの連邦下院・上院で「奴隷解放の日」として連邦政府の法定休日とすることを賛成多数で可決し、6月19日、バイデン大統領が署名して正式に決まった。祝日の名も「ジューンティーンス」とよばる。これは2020年5月25日のミネソタ州での白人警官による黒人殺害事件から端を発したBLM(Black Lives Matter)運動の盛り上がりをうけてのことである。 → BBC News 2021/6/18

憲法修正第14条

 さらに戦後の南部の「再建」の過程で、1866年には憲法修正第14条(施行は1868年)で初めて市民権(公民権)を全アメリカ市民に与えたことによって、黒人に対しても法律の前に完全な市民的平等を保証された。また解放された奴隷の生活支援のため、解放奴隷黒人事務局(Freedmen's Bureau )が設立された。また、1870年には憲法修正第15条黒人投票権が正式に認められ、連邦議会や州議会での選挙権を行使し黒人が議員となることも始まった。
 こうして、法的には奴隷制は否定され、黒人は人格を保証され、自由を獲得した。これは、人類史およびアメリカ合衆国の歴史で重要な変化であり、南部の奴隷制プランテーションは姿を消した。しかし、その理念にもかかわらず、現実にはなおも深刻で多くの黒人差別が残されていた。

奴隷制度は廃止されたが・・・

 アメリカの黒人には自由と人格が認められたが、現実的な平等が実現したかというと、そうはならなかった。自由になったとしても多くの黒人には自立できる基盤である土地を持たなかったため、綿花プランテーションが復活すると、そこでシェアクロッパー(分益小作人)として雇われ、重い地代と借金のため、貧困状態から抜け出すことは出来なかった。
 南部諸州では、1877年に南部の再建期が終わると、また南部の白人は支配の優位を回復するために、さまざまな黒人取締法を州法として制定して黒人差別を強化していった。たとえば南部諸州では財産がないことや識字能力がないことなどを理由にした黒人投票権の制限が州法で立法化されるようになり、問題が深刻化していくこととなる。
(引用)しかし、経済的な点から見ると、この全般的な奴隷解放は、黒人からプランテイションにおける安定した生活をうばい、周囲のはげしい生存競争に入るだけの準備もなく、しかも隷属を示す皮膚の色をしたまま、ちょうど17世紀の土地を追われたイギリス農民のように、家も道具もたくわえもないままで、かれらをうき世にほうり出したという結果になったのである。<ビーアド『新編アメリカ合衆国史』P.290>
 さらに1870年代以降、南部の黒人差別が復活するなか、クー=クラックス=クランのような組織的、狂信的な黒人排斥運動も以前よりも強められていった。1890年代から黒人に対する差別は暴力的になり、反抗する黒人に対しては激しいリンチが加えられ、加害者の白人は罰せられないという状況が続いた。
 黒人差別に対する闘いは、20世紀に入りデュボイスらが1909年5月に全国黒人向上協会(National Association for the Advancement of Colord People NAACP)を結成するなど、組織的に始まったが、アメリカの経済繁栄のなかで埋没し、大きな潮流とはならなかった。しかし、運動は粘り強く続けられた。

公民権運動

 アメリカにおける人種問題が大きく動いたのは第二次世界大戦後の世界的な黒人などの植民地が次々と独立したことを背景に、国際的な人種差別に対する批判が強まったことによる、1950年代後半のことだった。1950年代のキング牧師らの指導する公民権運動を経た1960年代、つまりリンカンの奴隷解放宣言から1世紀も過ぎてからのことであった。奴隷解放宣言からちょうど百年後の1963年、公民権運動が盛り上がり、ワシントン大行進が行われた。それを受けて、1964年に公民権法が成立し、法的な黒人の平等化がようやく実現した。しかし、経済的格差からくる差別意識は容易に払拭されず、また黒人側にも力による解決を求める運動も起こり、問題は依然として残っていると言わざるを得ない。 → 黒人差別の項を参照