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アメリカ=メキシコ戦争/米墨戦争

1846~48年、アメリカがメキシコの領土を奪った戦争。これによってカリフォルニア、ニューメキシコなどを獲得、アメリカ合衆国の領土が太平洋岸に達した。敗れたメキシコにとっては領土の約半分を失う結果となった。

 19世紀前半にアメリカ合衆国は領土の拡大を続け、メキシコの領土を侵犯するようになった。メキシコ領であったテキサスにはアメリカ人が入植して、1836年に一方的にテキサス共和国の独立を宣言、さらに1845年、アメリカはテキサス共和国を併合した。メキシコが抗議すると、アメリカ合衆国はメキシコを挑発し、メキシコ側が先に領土を侵犯したと口実をもうけてメキシコ本土への侵攻を開始し、1846年5月、アメリカ=メキシコ戦争(米墨戦争)となった。
 アメリカで戦争を望んだのは、西部・南部のプランター、大地主階級の膨張主義者であったが、道議無き侵略戦争に反対する国内世論(若きリンカンなどは議会で反対した)があったが、民主党のポーク大統領は出兵に踏み切った。メキシコ側は共和政に移行していたが保守派と改革派が対立、同時にフランスの干渉、インディオの反乱、ユカタン半島のマヤ族の分離運動などがあって、かつて独立戦争でスペイン軍と戦ったサンタ=アナが大統領に復帰したが、全面的な抵抗を組織できなかった。

メキシコの敗北と領土縮小

メキシコの領土縮小
 アメリカの陸軍はニューメキシコとカリフォルニアを制圧し、海軍は海兵隊をベラクルスに上陸させ、首都メキシコ=シティまで攻め込んで攻撃した。メキシコ=シティでは六人の少年兵の英雄的な戦いがあったが、アメリカ軍の近代装備の前に敗北し、1847年9月14日、アメリカ軍が占領、星条旗が首都に掲げられた。
 翌1848年2月3日、両国は講和条約「グアダルーペ=イダルゴ条約」を締結、メキシコはカリフォルニアニュー=メキシコの領土約240万平方kmを、1500万ドルでアメリカに譲渡し、両国国境はリオ=グランデ川とされた。→ 1848年革命
 さらにメキシコのサンタ=アナ大統領は、1853年にアメリカとガスデン協定を結び、国境地帯のラ=メシージャ地域を700万ペソで売却した。こうして一連の領土喪失により、メキシコの国土は建国時の約半分の約200万平方kmに減少した。

Episode 「天国に最も遠く、米国に最も近い国」

 メキシコ国民は、このアメリカ=メキシコ戦争での、アメリカの不当な侵略と、それによる国土の喪失を当然忘れていない。メキシコ=シティで侵略軍と戦った六人の「英雄少年兵」の記念碑はチャプルテペック公園に作られ、毎年記念日には大統領が献花している。また、グアダルーペ=イダルゴ条約の締結された日は屈辱の日として記憶されている。
(引用)「天国に最も遠く、米国に最も近い国」という名言は戦争の後の両国関係を物語ったものである。ポルフェリオ=ディアスが言ったという両国の地政学的位置を示す言葉だった。現在でも、メキシコ国民がアメリカ合衆国に対して、一種独特の嫌米感情を抱く背景には、この時期の両国の戦争とその結果として生じた領土喪失が尾を引いている。<大垣貴志郎『物語メキシコの歴史』2008 中公新書 p.111>

戦後のアメリカとメキシコ

 アメリカが獲得したカリフォルニアで金鉱が発見され、ゴールド=ラッシュが始まり、アメリカ合衆国の西漸運動は頂点に達し、さらに太平洋方面へと進出を始める。この19世紀前半のアメリカ合衆国のめざましい領土膨張は、同時に新たな対立を国内にもたらした。それは、新しく国土に加えられた地に州が建設されたとき、それを自由州とすべきか奴隷州とすべきか、という建国以来の黒人奴隷制問題が先鋭化していくと言うことであった。そして米墨戦争終結後、わずか13年で南北戦争が起こることとなる。
 メキシコ国民は、このままでは全土をアメリカに吸収されてしまうのではないかという危機感を強めた。政治が混乱する中、1853年には自由主義者が決起して大統領サンタ=アナを退陣に追いこむ「アユトラ事変」が起こり、さらに55年からフアレスら自由主義勢力と保守派の内戦であるレフォルマ戦争が興り、フアレスが権力を掌握する。苦悩はなお20世紀始めのメキシコ革命まで続く。

Episode ペリーとリンカン

 このアメリカ=メキシコ戦争で、海軍のベラクルス上陸作戦を指揮したのが、5年後に日本に派遣され日本の開国を強要したペリー提督であった。また、多くのアメリカ国民は勝利に喝采を送り、国中が勝利で沸き返ったが、このようなやり方を「防衛と言いながら実は侵略で、憲法違反だ」と議会で指摘した人物がいた。この勇気ある下院議員が若き日のリンカンであった。そのため彼はアメリカ国民の人気を失ってしまった。<伊藤千尋『反米大陸』2007 集英社新書 p.48-49>

リンカンの戦争反対論

 アメリカ=メキシコ戦争(米墨戦争)の開戦に際して、民主党のポーク大統領は、「メキシコ自身が侵略者となり武装してわが国土に侵入し、わが市民の血を流すに至った」ことをその理由とした。リンカンは下院議員に当選したての38歳、ホイッグ党議員として大統領への質問に立ち、メキシコ軍の攻撃があった「地点(スポット)」がアメリカの国土であり、血を流したのがアメリカ国民であるという確証はあるか、と質問した。戦闘があった地点は、アメリカとメキシコの係争中の土地であり、血を流したのは市民でなく軍人だったという疑惑があった。リンカンの主張は、大統領がそれに明確に答えない限り、メキシコとの戦争は「これを始める必要がないものであって、大統領がこれを始めたのは憲法に反する」と主張した。その演説(48年1月12日)の一節には次のような言葉がある。
(引用)大統領に、十分に、公正に、率直に答えていただきたい。事実を挙げて、議論ではなしに答えていただきたい。ワシントン(引用者注、初代大統領)の席に坐っているのだということを忘れずに、ワシントンが答えたであろうように答えていただきたい。国家に対し、また全能の神に対し、いい抜けは許されず、またできるものでもないのですから、大統領もいい抜けや曖昧な言をろうしないでいただきたい。<高木八束・斉藤光訳『リンカーン演説集』岩波文庫 p.28>
 アメリカ=メキシコ戦争でリンカンが問うたことは政権に対する単なる攻撃ではなく、「国策決定の根底に事実の歪曲、虚偽の介在は許すべからず」という良心の叫びであった。<『同上書』解説 p.158>
 リンカンの質問と意見はしかし、無視された。むしろ、正当な戦争にケチを付ける非愛国者だという評判が立ち、リンカンの基盤のイリノイ州でもその人気は急落、リンカンは次期選挙には出馬できなかった。

 現代の戦争においても、例えばアメリカのベトナム戦争、イラク戦争、日本の満州事変など、事実が曖昧のまま、あるいは隠されたまま、戦争に突入している。そして戦争だけでなく、様々な政治の場面でも為政者が「事実」をごまかし、あるいはねじまげて「議論」し、「大義」や「正論」をかざして反対論をおさえ、多数で物事を決めていくことがおこなわれている。・・・ところで遠い異国の地で日本の自衛隊が「戦闘」でも「衝突」でも、巻き込まれて発砲し、死者が出たとき、はたして「事実」を確認することができのでしょうか。170年前のアメリカと同じ事が起きないようにするためにも世界史を学び、リンカンの良心にを忘れないようにしたいと思います。(2016.10.29記)