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日本の開国

アメリカはペリーを派遣して、江戸幕府の鎖国政策の放棄を要求、軍事的圧力のもとに1854年、日米和親条約を締結して開国を実現させた。日本ではそれを機に幕府支配が動揺し、明治維新に向かう。

 アメリカ合衆国が1853年、ペリー艦隊を日本に派遣したのは、ホイッグ党フィルモア大統領の時である。ペリーはフィルモアの国書を持参して江戸幕府に迫り、翌1854年日米和親条約を締結し開国を実現させた。 → アメリカの外交政策

ペリー来航の背景

 アメリカがペリー艦隊を日本に派遣した理由の一つには、北太平洋の捕鯨業にとって日本に補給用の港を確保する必要があった。また、当時、クリミア戦争の最中であり、イギリス、フランス、ロシアには東アジア進出の余裕がなく、日本との交渉はアメリカが主導権を握った。

日米和親条約(神奈川条約)

 1854年3月、ペリーと江戸幕府の間で神奈川宿近くの横浜村で調印されたので神奈川条約ともいう。現在、横浜港にその記念碑がある。内容は、下田・箱館の二港の開港、漂流民の救助、必需品の供給、最恵国待遇条項など。この条約で日本は開国することとなったが、アメリカ船の入港はまだ二港に限定され、通商規定も含まれていなかった。そのため、この条約の規定により伊豆の下田に領事として着任したハリスは江戸での通商条約の交渉に当たることとなる。なお、幕府は同様の条約を、イギリス、ロシア、オランダとの間で締結した。 → 日露和親条約

日本をめぐる英仏の対立

 開国後は下田に初代総領事ハリスが着任し、1858年日米修好通商条約の締結となり、貿易が開始される。しかしまもなく南北戦争が勃発したため、アメリカは後退し、幕末から明治にかけてはイギリス(公使パークス)とフランス(公使レオン=ロッシュ)の力が強く及んでくる。特にイギリスは自由貿易主義による世界市場の拡大に積極的であり、保護貿易体制である鎖国政策の廃棄を江戸幕府に強く迫った。
日米修好通商条約 1858年7月、アメリカ総領事ハリスと江戸幕府大老井伊直弼の間で交渉され締結された日米修好通商条約は、神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港、江戸・大坂の開市、外国人居留地の設置、領事裁判権、自由貿易の原則などであった。領事裁判権により治外法権を認めたことになり、自由貿易とは言いながら協定関税とされたため関税自主権を喪失する不平等条約であった。

日本開国の意義

 日本が開国したことは、日本が世界経済に巻き込まれることとなっただけでなく、資本主義の経済圏(世界市場)が地球を一周したことになり、世界史的な意義があることであった。1858年のエンゲルス宛マルクスの書簡には次のような一節がある。
(引用)ブルジョア社会の固有の任務は、世界市場及びその基礎の上に立つ生産を作り出すことである。世界は円形であるから、このことはカリフォルニア並びにオーストラリアの植民地化と支那並びに日本の開放によって結末に至ってきたと考えられる。<羽仁五郎『明治維新史研究』1956 p.94>
 → 世界の一体化
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