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共和党

アメリカ合衆国で、1854年、奴隷制反対論者が結成した政党。1860年、リンカンが大統領に当選、南北戦争を指導し奴隷解放を実現した。その後、20世紀初頭までほぼ政権を担当し、次第に大資本の利益と結んで帝国主義的となった。世界恐慌が起こって1933年に民主党に譲り、戦中と戦後しばらくは政権から離れたが、50年代以降は保守政党として民主党と交互に政権を担当している。

 Republican Party  アメリカ合衆国において南北の対立が深まる中、1854年、カンザス・ネブラスカ法の成立を見て、奴隷制反対論者が結集し、フィラデルフィアで結成大会を開催して成立した政党。黒人奴隷制の拡大に反対すること、連邦の土地を貧しい農民に自営農地として与えること、関税率を引き上げ製造業者の利益を守ること、などを掲げた。
 結党時の共和党は、中央集権的な連邦政府の強化を基本的には支持すると同時に、経済の発展は自助精神をもつ個人による自由競争が必要という個人主義を理念としていた。政策としては黒人奴隷制反対(拡大阻止)、保護貿易主義などを掲げた。基盤は当初は北部のホイッグ党支持から共和党に転じた産業資本家層(製造業者)であったが、特に南北戦争後は南部に進出し、次第に民主党支持から転じた農民層と、解放された黒人に支持を広げた。 → アメリカの政党政治
注意 現在の共和党との違い 現在のアメリカの二大政党の一つとしての共和党は、民主党のリベラルに対して保守色の強い政党とされている。しかし結党当時はそれ以前の政権政党であった民主党が黒人奴隷制維持の保守派であり、共和党は全くの革新政党、しかも北部だけを基盤とする地域政党と出発している。民主党と共和党の関係とそれぞれの性格は、この後のアメリカの歴史で大きく変化するので注意すること。党名が同じだからと言って政策や理念も同じとは限らないので固定的に捉えてはならない。両党とも理念(イデオロギー)政党ではなく、その時時の選挙に勝つための組織(集票マシーン)である、というのがアメリカ政党史の特徴である。
★主な共和党の大統領(就任年)

共和党(1) 共和党の結党

1854年、民主党多数のアメリカ議会がカンザス・ネブラスカ法を可決したことに対し、奴隷制反対論者が共和党を結成した。北部産業資本家の支持を受け、奴隷制拡大反対を掲げ、1860年、リンカンが大統領に当選、反発した南部諸州が分離し、南北戦争となった。南北戦争を勝利に導き、戦後は南部にも支持を広げた。

共和党の結党

(引用)下院がカンザス・ネブラスカ法案を取り上げたちょうどその日の午前に、数名の下院議員が会議を開き、「奴隷制勢力」を抑制するためには、奴隷制拡大計画に真向から反対する政党の結成以外に途がないということに意見の一致をみたのである。ほぼ頃を同じくして、ウィスコンシン州のリポンで大衆集会が開かれ、もしも同法案が通過した場合には、奴隷問題に対処するためリパブリカン党と呼ばれるべき新組織を結成しなければならないという決議が採択された。<ビアード『アメリカ政党史』p.91>
 1854年ごろ、アメリカ合衆国では、民主党にもホイッグ党(アメリカ)にも解党の兆候があり、政党の全般的再編への動きが起こっていた。1854年の春から夏にかけて東北部諸州でカンザス=ネブラスカ法案に対する非難が激しくなり、1854年7月6日、ミシガン州のジャクソンで共和党の州大会が開かれ、同州の全公職選挙に対する共和党の候補が指名された。正式には、1856年6月、フィラデルフィアで初の全国大会が開催され、準州(テリトリー)で奴隷制を禁ずるのは連邦議会の権利であり義務であると宣言した政綱が採択され、ジョン=フリーモントが大統領候補に指名された。その年の大統領選挙では当選した民主党ブキャナンが選挙人296のうち174であったのに対し、フリーモントは114を獲得(ホイッグ党のフィルモアは8)した。<数字はビアード『同上書』p.250 付録>
 続く4年間に共和党は奴隷制排除とともに自営農地(ホームステッド)法の制定と保護関税を主張、北部の農民層や職人層に訴えるとともに、旧フェデラリスト党からホイッグ党に流れた北東部製造業者にも支持を広げた。
注意 共和党という政党名 アメリカの歴史学者ビアードは、1854年に発足した共和党を、1800年のジェファソンのリパブリカン党、1831年にクレイが票集めに踏襲した名称リパブリカン党(ナショナル=リパブリカン党とも称した)を踏襲した、「第三次共和党(リパブリカンズ)」と云っている。しかし、これらの政党は名称を踏襲しただけで、人脈としてつながっているわけではないので、全く別物と理解するのが正しい。 → リパブリカン党の項を参照

リンカンと南北戦争

 1860年11月の大統領選挙で、共和党はイリノイ州出身のリンカンを立てて当選させ、初めて政権を握った。リンカンが当選できたのは、民主党が奴隷制とするか自由州とするかを準州の住民の委ねるべきであるという意見と、連邦議会には準州の奴隷制を制限する権限はないとする強硬派、奴隷制には触れない政綱を掲げた保守派に分裂、それぞれが候補者を立てたためであった。リンカンは選挙人では303のうち、180を獲得、総得票数でも第一位になったが、反対派三派の合計282万に対して、186万にとどまった。しかし、黒人奴隷制が最大の争点となった大統領選挙で、拡大反対論者のリンカンが当選したことは、南部諸州の奴隷制維持拡大派はアメリカ合衆国からの離脱を次々と決議し、ついにアメリカ連合国を成立させた。共和党リンカン政権は連合国家の分裂は認められないとしてアメリカ連合国を認めず、ついに 1861年、南北戦争が勃発、合衆国は深刻な内戦を経験することとなった。
戦後の混乱 1863年1月1日には奴隷解放宣言が出され、65年4月に南北戦争は北軍、つまり共和党の勝利に終わった。しかし直後にリンカン大統領が暗殺され、副大統領ジョンソンが昇格すると、戦後の南部の処遇をめぐって大きな混乱が生じた。南部の処遇については連邦議会の共和党は白人ブランター層の復権を認めず人種平等を実現すべきであるという主張が多数であったが、リンカンに代わって大統領となったジョンソンはもともと南部出身の州権論者であったので、プランター層に一定の条件で復権を認め、南部諸州の復帰を進めようとした。大統領の妥協的な姿勢に反発した議会は1867年に「再建法」を制定、南部諸州を再び軍事占領下に置き、南部の黒人への選挙権付与を実行した。大統領がそれに抵抗すると、1868年に議会はアメリカ合衆国で初めて大統領を弾劾裁判にかける事態となった。混乱を恐れた一部の共和党員の反対があり大統領弾劾裁判は行われなかったものの議会主導の南部再建が進んだ。<岡山裕『アメリカの政党政治』2020 中公新書 p.91-95>

「再建」の時代を主導

 南北戦争後の「再建」(Reconstruction)の時代(1866~77年)とその後の20世紀初頭まで、共和党政権は続いた。この間共和党は、保護関税政策、銀行制度と通貨制度の整備、通商の拡大(帝国主義の先取り)などのフェデラリスト的な政策を主体とする政策に転換していった。その支持勢力は北部の巨大産業資本家と西部の農民層に加えて、南部に対しては軍政を布くことによってかつての民主党の支持基盤であった南部プランター層を没落させ(『風と共に去りぬ』の時代)、白人協力者と新たに選挙権を得た黒人の熱烈な支持をうけて勢力を浸透させた。こうして南北戦争前は北部の地域政党に過ぎなかった共和党が、全国政党へと成長し、連邦政府の政治においても優越の時代が20世紀初頭まで続くこととなる。
(引用)南北戦争および再建の時期以来、共和党は強い愛国心によって、戦時関税の下に繁栄した製造業者の支持によって、鉄道と新企業の発展とともに果敢な躍進を狙う資本家の後援によって、また自営農地法を始めとする多くの便益供与を感謝する農民によって強化され、有力な政党としての地歩を固めることになる。共和党はすべての重要な公職を占め、連邦の立法・行政・司法の三部門を支配し、民主党は反逆の烙印を押され弱体化していたので、共和党は国家の運命をかつての民主党以上に左右するにいたったのである。<ビアード/斉藤眞・有賀貞訳『アメリカ政党史』UP選書 p.100>

民主党の変質と復活

 一方、民主党は南北戦争前に分裂し、戦争によって解党的打撃を受けた。その支持基盤であった南部プランターは南北戦争の結果急速に没落し、西部の農民層は共和党支持に変わるとともにアメリカの工業化の急激な成長によって急増した労働者層に比べて、その相対的な重みを急激に失った。民主党は政党として存続するためには大胆にその政策を農業中心から工業中心に転換させなければならなかったが、その新たな受け皿となったのが共和党支持層から疎外されていた東部の労働者層や、急速に増加してきた移民であった。
共和党の分裂 1868年の大統領選挙では共和党は南北戦争の英雄グラントをかつぎ、当選させた(在任1869~77)。しかしこの政権の下で政治家や公務員による汚職が横行し、政治不信を招いた。その原因はスポイルズ=システム(猟官制)にあると主張する党内改革派は、グラントを支持せず、リベラル・パブリカン党という第三党を結成した。次の1872年の選挙では民主党がそれと連携したが、国民的支持を集めることは出来ず、グラントが再選された。
 1870年代は北部主導で工業化が進む中で財閥が形成され、彼らは自己に有利な政策を実現するために共和党・民主党いずれか都合のよい方を金銭的に支援したため、政治の腐敗を生まれ、批判されるようになった。小説家のマーク・トウェインらが「金ぴか時代」と揶揄したのはこの時代だった。
1877年の妥協 勢力が伯仲するようになった両党は、1876年の大統領選挙で共和党のヘイズと民主党のティルデンが争い、共和党は僅差で敗れた。共和党は一般投票の集計に不正があったとして疑義をはさんだ。両党のボスが秘密裏に談合し、ヘイズを大統領とする代わりに南部諸州の連合軍を撤退させるという妥協を成立させた。こうして1877年にヘイズは大統領となったが、これによって「再建」の時代は終わり、南部はふたたび民主党の牙城となり、黒人差別が復活することになる。

共和党(2) 帝国主義政策の推進

19世紀後半のアメリカでは共和党と民主党が対抗する二大政党の時代となったが、共和党は産業革命の進行に応じて工業重視の保護関税策を主張し、一時期を除きほぼ政権を担当した。その間、大資本が成長、マッキンリー、T=ルーズヴェルトは帝国主義政策を推進した。

民主党との二大政党時代

 アメリカ合衆国の1865~77年の「再建」の時代に南部諸州の復帰が進んでいくなかで、民主党は北部に新しい支持基盤を獲得するとともに南部でも党勢を回復し、共和党を脅かすようになった。それでも共和党はヘイズ(在任1877~81)の後もガーフィールド(在任1881 スポイルズ=システムで役職を得られなかった男に暗殺された)→アーサー(在任1881~85)と政権を維持したが、次第に東部大都市の富裕層の支持に依存する傾向が強まった。このころから共和党は「大いなる老政党 Grand Old Party」略してGOPといわれるようになった(現在でもメディアではよく使われている)。民主党は東部の都市の労働者層と南部の白人を明確な支持層となっていった。<岡山裕『アメリカの政党政治』2020 中公新書 p.103>
 1884年と92年の大統領選挙では共和党に対する批判票を集めた民主党が僅差で勝ち、クリーブランドが大統領となった。しかし、いずれも1期でおわり、共和党のハリソン(在任1889~93)、マッキンリー(在任1897~1901)がそれぞれ民主党政権に代わって共和党政権を復活させた。
 アメリカ合衆国は、1880年代になると、共和党と民主党の政策的対立はほとんどなくなってゆき、従来の共和党は高関税=保護主義、民主党は低関税=自由貿易という違いも不明瞭になっていった。1880年代の「アメリカの政党は選挙に勝つための組織であって、政策実現のための組織ではなくなっている」とも言われている。<上記『アメリカ政党史』斉藤眞の補論 p.104>
 共和党と民主党がほぼ同じような政策を掲げるようになり、いずれも富裕層の代弁者という正確な強くなったことで、19世紀末からアメリカでも「第三党」結成の動きが出てきた。禁酒主義者(禁酒党)、ロシア革命の影響を受けた労働者政党(社会党など)、急進的な農民政党などがあらわれ、1892年人民党に結集し、第三政党として二大政党に脅威を与えて始めた。しかし、全国での選挙人選挙という大統領選挙のシステムでは、二大政党の優位を崩すことは困難で、人民党の活動も間もなく行き詰まった。労働組合もアメリカ労働総同盟(AFL)が結成されたが、政党活動には否定的で、二大政党に政策を競わせる方策を採った。

アメリカ帝国主義の推進

この間、アメリカの産業革命が進行して、急速に工業化が進むとともに大企業への資本が集中して独占資本が成長し、さらに並行して西部開拓が進んでフロンティアの消滅の時期を迎え、共和党は農業よりも工業の重視、国内産業保護のための保護関税政策、海外領土の獲得などを掲げて政権政党として国民の支持をえるようになっていった。
 特にマッキンリーセオドア=ローズヴェルトの時代(1897~1909)は、アメリカ帝国主義が進展し、米西戦争ハワイ併合などによって、フィリピンやグアムなどの太平洋地域と、パナマやキューバなど西インド諸島への勢力拡大が図られた。中国大陸進出では出遅れたため、門戸開放宣言などで介入を強めた。

革新主義の台頭

 19世紀末期から20世紀初頭には従来の自由放任(レッセフェール)による資本主義の発展は、貧富の差の拡大や独占資本の横暴など、その矛盾も明らかとなってきた。その中で、特に都市の中産階級の中に、従来の共和党・民主党による二大政党制に対する不満が強まり、革新的な気運が高まると、共和党・民主党それぞれの内部にそれを受けて革新主義(Progressivizm)の潮流を生み出した。議会が資本の独占の行き過ぎを制限するための一連の反トラスト法を制定したのはその現れであった。
T=ローズヴェルト、革新党結成 共和党では、1901~09年に大統領を務めたセオドア=ローズヴェルトは、外交政策では棍棒外交と言われた帝国主義的なカリブ海政策を展開したが、国内政策では次第に革新主義に同調するようになった。1908年の選挙では後継のタフトに譲り出馬しなかったが、タフトが革新主義から離れたとみるや、1912年の大統領選挙では共和党から脱退して「革新党」を結成して立候補した。T=ローズヴェルトは人気があったので革新党は第三党として二大政党を破る可能性も出てきた。しかし、この年の選挙は共和党のタフト、革新党のT=ローズヴェルト、民主党のウィルソンの三つ巴の選挙となり、共和党支持者の票がタフトとT=ローズヴェルトに分散した結果、ウィルソンが当選し20年ぶりに政権についた。革新党は間もなく衰え、第三党の試みは失敗に終わった。

共和党(3) 1920年代

共和党が革新主義の台頭によって分裂したため、民主党のウィルソンが大統領となり、共和党は下野した。しかし議会では多数を占め、伝統的な孤立主義に立って国際連盟加入などの提案を拒否した。大戦後は「平常への回帰」を主張して政権に復帰、1920年代の繁栄の時代を迎えた。しかし1929年の大恐慌に対して無策であったことから1933年に下野し、それ以後は第二次世界大戦後のアイゼンハウアーまで長い野党時代を経ることとなった。

民主党ウィルソン政権

 1912年の大統領選挙で共和党が分裂したことによって漁夫の利を占めたのが民主党ウィルソンであった。ウィルソンは革新主義と同じように大資本の規制を唱え、「新しい自由」を掲げてかろうじて当選した。ウィルソン政権は第一次世界大戦に直面すると、当初は伝統的外交政策として孤立主義をかかげて参戦を避けていたが、戦争の長期化、ロシア革命での社会主義政権の出現などの国際情勢の激動を受けアメリカの第一次世界大戦参戦に踏みきり、大戦後の世界秩序の再建のために十四カ条を提唱した。その一環として国際連盟の創設が第一次世界大戦後に実現し、アメリカは国際政治で主導的な役割を果たすようになった。
共和党の孤立主義 しかし、当時議会の多数を占めていた共和党は国際連盟不参加を議決した。国際連盟の加盟はアメリカにとって、ヨーロッパの戦争にふたたび巻き込まれる恐れを強め、加盟することによってアメリカの富が外国の紛争解決のために使われることになる、というのが共和党の反対理由であった。このように共和党は伝統的な孤立主義の立場から、ウィルソンの理想主義に反対したと言うことができる。 → アメリカの外交政策

1920年代、共和党の時代

 第一次大戦後、1920年の大統領選挙では、共和党のハーディングは、「平常(ノーマルシー)への回帰」を唱え、ウィルソン政権の政策を、過度な企業活動の制限、アメリカ産業にとって不利な植民地縮小策として批判し、外交では国際連盟への加盟拒否を主張し、民主党のコックス候補を圧倒的な差で破った。1920年代のアメリカは共和党の大統領が三代続いた。
ハーディング・クーリッジ・フーヴァー ハーディング(在任1921-23)は企業の活動を復活させることに重点を置いたが、その過程で汚職事件などの腐敗が表面化し、人気を落とした。ハーディングが急逝したのを受けて副大統領から昇格し、ついで1924年の選挙で選出されたクーリッジ(在任1923-29)は「平常への回帰」をさらに押し進めた。彼は「アメリカの進歩の推進力は工業である」と力説し、同時にマッキンリーの膨張政策を再現した。クーリッジ大統領のもとで商務長官を務めたフーヴァー(在任1929-33)は、自由放任による資本主義の繁栄という理念を信奉し、事実、この三代の大統領の時期の1920年代は、「アメリカの繁栄」の時代が実現した。
1920年代のアメリカ アメリカ合衆国の戦間期は、経済繁栄とともに、1920年の女性参政権の実現にみられるように民主主義の一定の発展があった。また資本主義の大量生産・大量消費大衆文化を開化させたが、その反面で禁酒法が施行されるなどキリスト教的な価値観が復活し、WASPといわれる人々の優越意識が強まった。また、日本からの移民などの急増は、アメリカの労働市場を脅かすとされ、移民法も制定された。共和党はそのような時代に政権与党として存在したが、次第にライバル政党民主党だけでなく、当時ようやく台頭してきたアメリカ社会党やアメリカ共産党の労働者政党にも脅かされるようになっていった。
共和党の協調外交  アメリカ合衆国は国際連盟には加盟しなかったものの、イギリスを抜いて世界一位の工業生産力を持つ大国として、国際社会で責任を負わなければならない時代となっていた。第一次世界大戦後の国際秩序であるヴェルサイユ体制によって、戦勝国イギリス・フランスと敗戦国ドイツの溝はさらに深くする恐れがあったが、共和党のクーリッジ政権のもとで財政顧問を務めた銀行家ドーズはドイツ賠償問題を解決に導くドーズ案を作成し、同じく外務大臣のケロッグは、不戦条約の締結に尽力し、協調外交の成果を上げた。ドーズとケロッグの二人はいずれもノーベル平和賞を受賞している。
ワシントン体制  第一次世界大戦後の世界の不安定要素と見られたものにはヨーロッパにおけるファシズムの台頭と共に、新たに登場した社会主義国であるソヴィエト連邦の勢力拡張と、アジアで急速に台頭した日本の軍事力・経済力であった。共和党ハーディング政権下のアメリカは、国際連盟では果たすことのできない中国・太平洋地域における日本の台頭を抑える目的から、ワシントン会議を召集、ワシントン海軍軍備制限条約を成立させ、九カ国条約で中国の、四カ国条約で太平洋の権益を守ろうとした。ここで成立したアメリカ主導のアジア・太平洋地域の国際秩序がワシントン体制であった。このように共和党政権は、単純に孤立主義を維持したのではなく、自己の権益にかかわる問題に対しては積極的に「国際協調」を図ろうとしていた。
世界恐慌による政権交代 しかし、1929年に起こった世界恐慌に対して、フーヴァーは一時的な不況という見方しかできず、30年にはスムート=ホーレー法によって高関税政策をとり、諸外国もそれに倣ったため貿易はさらに衰退し、31年にはフーヴァー=モラトリアムでドイツの賠償金と戦債の1年間の支払い猶予を打ち出したが効果はなかった。不景気はさらに深刻になり、失業者が増大、ついに「フーヴァー村」といわれる失業者のバラック村が出現するなど、対策が後手となり、1932年の大統領選挙で民主党のフランクリン=ローズヴェルトに敗れることとなった。

共和党(4) 第二次世界大戦と共和党

ニューディール期と第二次世界大戦中は、共和党は明確な対抗策を出せないまま、ローズヴェルトの4選を許した。この間、共和党は民主党のリベラル、革新というイメージに対し、保守として存在にシフトせざるを得なくなっていった。戦後は冷戦が深刻化する中、53年にアイゼンハウアー政権が成立、ようやく共和党は政権を奪回した。

「ニューディール連合」と共和党

 民主党フランクリン=ローズヴェルトは四期(1933-45)にわたって大統領を務め、幅広い国民的支持を受けて、ニューディール政策政策を実施して不況克服を試みた。さらに第二次世界大戦の戦争指導では、枢軸国に対する連合国の闘いを勝利に導き、国際連合の設立に盡力して戦後の国際政治の枠組みを作った。
 1933年から民主党政権が続くうちに、民主党はかつての南部農民の党という性格を全く転換させ、都市の中間層を基盤として大資本の横暴と戦い、富の分配や社会保障などに熱心に取り組むようになり、この過程で支持基盤を都市部の中産層から低所得層の労働者、黒人、農民に広げ、「ニューディール連合(またはローズヴェルト連合)」と呼ばれる強固な体制を築いていった。対外政策では、帝国主義には抑制的で、民族独立を容認するという「革新的な」政党というイメージができあった。
 それに対して共和党は、政策面では民主党よりは大企業擁護の姿勢が強く、アメリカの膨張を推進する他、既得権の擁護とむすびつく「保守的な」政党とみられるようになった。しかし、共和党は政策面で民主党との明確な違いを打ち出すことはできず、「大統領の多選批判」を繰り返すのみであったため、国民の支持を得ることはできなかった。F=ローズヴェルトは4選を果たし、大戦末期の1945年4月に任期途中で死去し、副大統領トルーマンが昇格して、戦争は終結を迎えた。
マッカーシズム 戦後は、議会では多数派であった共和党はタフト・ハートレー法を成立させるなど、トルーマンのフェアディールの足を引っ張っていたが、さらに東西冷戦が激化し、朝鮮戦争が勃発すると、共産主義に対する恐怖心を煽り、より強い姿勢を望む世論の支持を受けて、1952年2月、共和党右派のマッカーシーが中心となってマッカーシズムといわれる「赤狩り」が始まった。マッカーシーは当初、民主党政権下の国務省の中に共産党員が潜んでいたために、中国での共産党政権の成立を許し、朝鮮での危機を招いたのだ、という根拠の薄弱な告発から始まり、共和党主流も当初は同調したが、その追究が国防省や陸軍に及ぶようになると、次第にマッカーシーを煙たがるようになり、1954年12月に共和党も賛成して上院でマッカーサー非難決議が可決されて、終息した。

アイゼンハウアー大統領

 1952年の大統領選挙では共和党は第二次世界大戦の英雄であった軍人アイゼンハウアー(在任1953-61)を候補に立てた。アイゼンハウアーは「アイ・アム・アイク」というセリフで庶民的な愛嬌があり、変化を望む国民の期待を受けて当選、1953年1月に就任して共和党政権を復活させた。アイゼンハウアーは就任から間もない1953年7月に朝鮮休戦協定に調印、アメリカは明るさを取り戻し、50年代のアメリカの繁栄の時代が始まった。
 この間、アメリカの二大政党である共和党と民主党の政策の違いはますます希薄になり、内政においては細部の差はあれニューディール的な政策を採らざるを得ず、外交政策でも冷戦の中で西側世界のリーダーを務めるという基本姿勢は揺るがせようがなかった。しかし、共和党・民主党それぞれが内部に主流派と反主流派の対立を含んでおり、それぞれがどれだけ強力なリーダーシップで党をまとめるか、まとめきった方が大統領選挙で勝利するという傾向が続いた。 → 冷戦期のアメリカ
スプートニク=ショック 繁栄を謳歌していた1950年代にアメリカに、冷や水を浴びせたのが、1957年のソ連による人工衛星スプートニクの打ち上げ成功であった。東西冷戦下の米ソ両大国の核兵器開発競争は熾烈となり、東西ドイツや朝鮮半島、中東など、両勢力がにらみ合っている地域の緊張はますます高まっていった。国内では大企業と軍が核開発・宇宙開発で結びつき、巨大な力を持つようになる恐れが出てきた。アイゼンハウアー自身が退任演説で軍産複合体の抑制の必要を力説するほどとなっていた。

共和党(5) ベトナム戦争期

戦後の東西冷戦が深刻になる中、共和党・民主党の外交政策には大きな違いは無く、民主党ジョンソンから共和党ニクソンと続いてベトナム戦争が押し進められた。しかし、ベトナム戦争は長期化し、国内に激しい反戦運動が生まれ、同時に黒人問題など社会問題が深刻となると、それへの対応で共和党は保守色を強め、民主党はリベラル色を強めていった。またアメリカ経済も深刻な状態となり、ろこからの脱却の方向をめぐって、共和党は「小さな政府」を志向し、民主党政権の政策を「大きな政府」と批判するようになった。

ベトナム戦争の時代

 1960年の大統領選挙では、民主党ケネディがその若さと、テレビ討論でのさわやかな弁舌でニクソンを破り、大統領就任後はキューバ危機の回避や国内政治での公民権法案の作成など、国民的な人気を高め、63年に暗殺されるとその悲劇性から民主党は広く支持を集め、後継者ジョンソンは64年に公民権法を成立させた。
 戦後の共和党は、民主党に比べて、主流派・反主流派の対立が激しかった。おおよそ人種間の平等や人権を重視する穏健な保守派と、人種融和には否定的でキリスト教的な価値観を重視し、進化論や人工中絶、同性婚などに反対する超保守派が対立し、主導権を争っている。また中道派とされる多くの共和党員は世論の動向を見ながら動き、左右のどちらが主導権を握るかの鍵となっている。次第に民主党との違いを明確にすべきだという動きが強まっていった。
共和党の右旋回 ケネディ-ジョンソンの民主党政権の下での黒人差別撤廃の急速な進展は、南部の保守派に強い危機感を抱かせた。「共和党はここで、南部白人の動揺を察知して“南部戦略”を打ち出した。南北戦争以来、南部で黒人の権利を擁護してきた共和党は、ここで180度戦略を転換したのである。」<杉田米行『知っておきたいアメリカ意外史』2010 集英社新書 p.94>
 1964年の大統領選挙で共和党の指名を勝ち取ったのは超保守派・反共産主義者として知られたゴールドウォーターだった。ゴールドウォーターは「法と秩序の回復」を掲げ、黒人差別撤廃に歯止めをかけ、共産圏に対する核攻撃も辞さない強硬姿勢をあらわにして主張を展開した。しかし、ニューディール型の富の分配の継続を掲げる現職の民主党ジョンソンに大敗した。
 民主党はこのころまでにニューディール政策と黒人公民権運動への理解によって南部黒人の支持を取り込みつつあった。逆に南部の白人は南北戦争時代から民主党支持が多かったが、その中の保守派は民主党の変化に不満を持つようになっていた。そこで共和党は1960年代から南部の白人保守層の取り込みmを図るようになった。こしてこの時期に「リンカンの党」として北部白人を支持者とする政党であった共和党が、南部白人保守層に軸足を移すことになった。<ジェームス・バーダマン『ふたつのアメリカ史』2003 東京書籍 p.199-201> → アメリカの南北対立
ベトナム戦争 民主党ジョンソン政権が1965年に本格化させたベトナム戦争は、東南アジアの共産化を阻止するということを大義名分として掲げたものの、政権の思惑をよそに長期化し、ますますエスカレートしていった。民主党政権がこのような覇権主義的な軍事行動に深入りしていったことは、民主党内のリベラル派や、特に学生に強い反発を生みだしベトナム反戦運動が活発になっていった。1968年、ベトコンのテト攻勢が始まってアメリカ軍の形勢不利が伝えられる中、キング牧師暗殺と民主党のホープと目されたロバート=ケネディ(ケネディ大統領の実弟)が暗殺され、世界的な学生運動(スチューデントパワー)がアメリカでも激化し、ジョンソン大統領は自ら再選を辞退した。

ニクソン大統領

 1968年の大統領選挙では共和党ニクソンが当選し、共和党政権を復活させた。しかし、ニクソン政権はベトナム戦争の収束に苦慮し、ニクソン=ドクトリンで各国に防衛の肩代わりを求め、軍事費の削減を図った。また71年には金とドルの交換停止を宣言、ニクソン=ショックといわれる世界経済の転換を図った。その外交を担当したキッシンジャーの活躍で中国とソ連を訪問して東西冷戦の緩和に大きな風穴を開け、再選後の73年にはベトナム戦争の停戦を実現した。しかし、ウォーターゲート事件のスキャンダルが発覚し、74年8月にアメリカ大統領の中で唯一、死亡でなく任期途中に辞任した。次の大統領には副大統領のフォードが昇格した。フォードは独自の成果が乏しいまま、76年の選挙では民主党のカーターの当選を許した。
民主党カーター政権 1975年にサイゴンが陥落し、アメリカの仕掛けたベトナム戦争は完全に失敗して収束した。70年代後半のアメリカはその後遺症から脱却を模索する時代であった。この間の政権を担当した民主党カーターは経済の復興をめざしたが、世界経済ではEC(ヨーロッパ共同体)と日本が台頭し、アメリカの力の低下は明白となっていた。外交ではカーターは人権外交を掲げたが、イラン革命ソ連のアフガニスタン撤退という事態を乗り切ることは困難であったため、国内に共和党保守派の強硬路線に期待する状況が現れ、それが1980年の共和党レーガンの当選をもたらした。

共和党(6) 1980年代以降の共和党

共和党は1981年から1992年までの12年間、レーガン(2期)とブッシュ(父)(1期)が政権を握った。次は民主党クリントン2期(93~2000)、共和党ブッシュ(子)2期(2001~08)、民主党オバマ2期(2009~2016)と8年間ずつで交替した。傾向として戦後のアメリカでは共和党は保守、民主党はリベラルと見られているが、この間もアメリカ国民は二大政党に交互に政権を担当させるというバランスを取ったと言うことができる。

レーガンからブッシュ親子へ

 ベトナム戦争敗北後のアメリカ合衆国の低迷を打開する期待感から、1981年から共和党レーガン政権(在任1981~89年)が始まった。レーガンはニューディール以来続いた民主党政府による経済介入や税と社会保障による富の再分配機能を否定して、新自由主義の経済への転換を図るとともに、「強いアメリカ」を再現することでアメリカ国民の自信の回復を図ろうとした。
レーガノミクス この間の共和党は政権はレーガン政権に見られるように、経済政策においては政府はあまり介入せず、規制緩和を進めて企業活動の自由と競争を重視した。財政においては「小さな政府」を志向して支出を抑え、減税を実現しようとした。そのため社会福祉予算を削減し、自助努力を求めた。地球温暖化防止などの環境対策も、企業活動にマイナスであるとして積極的でなかった。このようなレーガノミクスと言われた経済・財政政策は、70年代に台頭した新自由主義の理論に負うところが大きい。
「強いアメリカ」への回帰 外交においては、レーガンの「強いアメリカ」への回帰は、ネオコン(新保守主義)といわれた官僚を重用し、戦略防衛構想などの軍拡を進めた。レーガンはソ連を「悪の帝国」とよび、新冷戦と言われる新たな対立をもたらした。レーガンはカリブ海域にも伝統的な強権外交を復活させた。
双子の赤字 しかし、レーガン政権の時代に市場原理に委ねる新自由主義経済政策がとられた結果、次第に貧富の差が拡大し、税収の減少にもかかわらず軍備を増強させたため財政赤字が膨らみ、貿易赤字も増えたため「双子の赤字」といわれるようになり、1987年には先進国との間で プラザ合意によってアメリカ経済を救済するためのドル安(円高)誘導が図られた。
ブッシュ政権へ この間、ソ連を中心とした東欧社会主義陣営でも経済の停滞と政治の硬直化という問題に直面しており、ソ連にゴルバチョフ政権が出現してペレストロイカが始まった。その動きは一気に89年の東欧革命による東欧社会主義圏の消滅を受け、東西冷戦の解消へと進み、レーガンを継承した共和党ブッシュ(父)とゴルバチョフとの間で冷戦の終結された。さらに1991年にはソ連の解体し、米ソ二大国の対峙する図式は終焉した。

冷戦終結後の共和党

冷戦終結後、アメリカは唯一の軍事大国として世界に強い影響力をもつこととなったが、同時に世界では民族対立や宗教的対立など地域紛争が多発するようになった。共和党政権中枢は保守派(タカ派)である新保守主義(ネオコン)派が主導し、イラクのフセインがクウェートに侵攻するとブッシュ政権は湾岸戦争に踏み切った。国連決議ではなく、アメリカが主導する多国籍軍による軍事行動は、同時にアメリカがテロとの戦争に巻き込まれていく要因となり、ブッシュ(子)政権下で2001年の9.11同時多発テロアフガニスタン攻撃イラク戦争、イスラム国(IS)の台頭という中東問題にかかわる混迷が続いた。2000年代にはアメリカが国際協力よりも、唯一の軍事大国として単独行動主義(ユニラテラリズム)をとる事が目立つようになっていった。
共和党=保守イメージの確定 かつて奴隷解放を実現したリンカンの共和党は、今や人種問題には熱心でなく、黒人やヒスパニック、アジア系など非白人の増加にあからさまに不快を表明し、移民の排除を掲げるようになった。また、80年代以降、世界的な価値観の変動はアメリカでも深刻な対立を生みだしており、共和党保守派はキリスト教原理主義の立場からイスラム教徒や同性愛者などのマイノリティーに拒絶反応を隠さず、妊娠中絶や同性婚には強く反対している。さらに、度重なる銃乱射事件で犠牲者が出ている現実から、民主党政権は銃規制を打ち出しているが、共和党保守派は武器携帯は憲法に保障されている独立した個人の自己防衛として必要であると、規制に反対している。
 総じてこれらの主張は、現在の共和党は保守的性格の面が目立っている。民主党は社会保障や少数者の保護などの点で革新政党と見られがちであるが、アメリカの二大政党はいずれも資本主義の枠内にあり、イデオロギー的な保守と革新の違いではなく、その時時の選挙に有利な政策を競うという、選挙によって政権を獲得するための「集票マシーン」的な存在になってしまっている。大企業の利益代表とはみなされないていない民主党も、大企業の献金によって活動が支えられているのが実態であった。
民主党攻撃の変化 冷戦の終結ソ連の崩壊後の90年代になると、共和党は共産主義攻撃という従来の立ち位置を変えざるを得なくなり、そのころから民主党との違いを、反リベラルという姿勢に転換させた。1995年から下院議長を務めた共和党のギングリッチ議員は、クリントン民主党政権のスキャンダル追及に熱心に取り組み、クリントン大統領とその妻のヒラリー=クリントン弁護士を庶民からかけ離れたエスタブリッシュメント(特権階級といった意味合い)であると非難、さらにはその黒幕にはディープ=ステートが存在するなどの陰謀説を吹聴し、後のトランプ政権にも影響を与えた。
ティーパーティ運動 2009年ごろから、オバマ民主党政権の医療制度改革(オバマケア)などによる財政支出と、その財源としての増税策を「大きな政府」を志向するものとして批判し、アメリカ独立前のボストン茶会事件になぞらえた「ティーパーティ運動」と称する運動が活発になった。共和党はその動きに乗じて、オバマ政権下で行われた2010年の中間選挙で大躍進し、上院・下院とも多数を占めている。

トランプの登場

 2012年の大統領選挙ではオバマ人気を崩すことはできなかったが、2016年の大統領選挙では大方の予想を裏切って共和党トランプがオバマ政権の後継であるヒラリー=クリントンを破った(一般投票ではクリントン票が多かったが選挙人選挙でトランプが多数を占めた)のは、二大政党間の交替というルーティンから言えば不思議ではなく、オバマ→ヒラリーへの「体制化したリベラル」に対するアメリカ国民の「健全」とは言わないまでも、然るべき審判なのかもしれない。しかし、「怪物」トランプはTPP撤退、移民排除、オバマケアの廃止、銃規制の緩和、温暖化防止のためのパリ協定からの離脱など強引にすすめ、外交面での核軍縮の逆行、親ロシア、反中国路線、唐突な北朝鮮との友好への転換など、国連軽視の新孤立主義を深めた。

2020年大統領選挙

 2020年11月3日に実施された大統領選挙では現職の共和党トランプ(得票率46.8%)は民主党の前副大統領バイデン(得票率51.3%)に敗れた。しかしトランプは、選挙が不正に行われたとして開票の妨害などを支持者に呼びかけるという騒動となった。トランプ陣営の主張は郵便投票が不正に行われたとか、集計用機器が(中国とつながりのある)業者によって操作されたとか、大量のトランプ票が廃棄されたなどというものであったが、いずれも証拠がなく結局、連邦最高裁も不正は認められないと認定した。12月の選挙人選挙でもバイデンの勝利が確定し、2021年1月6日、ワシントンの議会上院でその認証が行われた。なおも数名の共和党議員が選挙の不正を理由にバイデンの当選を否認したが、その途中に、議場外でトランプ大統領の「議場に向かおう!」呼びかけで集まっていた数千人の支持者の一部が議事堂になだれ込むという事態となった。彼ら熱狂的なトランプ支持者は議会内で暴れ回り、警備当局によって数名が射殺され、警備側も一人が死んだ。このため議事は中断され、夕方再開されてからは共和党議員もバイデン非承認をとりやめ、最終的に議長を務めた副大統領ペンスがバイデンの当選、次期大統領就任を認めて終了した。
トランプ支持者の議会乱入 トランプ大統領は支持者の議場乱入に対して「家に帰ろう」と呼びかけたが、彼らを非難することはなかった。この議場乱入事件は大きな衝撃を持って迎えられ、議員の中ではトランプ大統領罷免の動議が検討され、共和党議員にも弾劾に同調する者も出た。トランプはすでに大統領ではなくなっていたので弾劾は行われなかったが、議会制民主主義の根幹である選挙システムに対する疑義がこれほどの抗議行動を生み、さらに議場が暴徒に荒らされて審議が中断するという事態はアメリカだけでなく世界に衝撃を与えた。
 議場が荒らされた例は、アメリカでは1812年の米英戦争でイギリス軍がワシントンに侵攻したとき以来であるが、自国民の乱入は初めてである。また、アメリカの大統領選挙では1876年の共和党ヘイズ、2000年のブッシュ(子)などの問題の残ったケースもあり、その複雑な仕組みが不正疑惑を生む素地となっている。8日すぎの調査では、共和党議員の中の約半数がトランプ支持者の行為は民主主義の脅威ではなく当然だ、としているという。共和党議員にとって地元の支持者の中のトランプ信奉者をなおも無視できないと考えているものも多いことを示している。
 しかし、共和党にとって今回の事件は大きな痛手になることは確かであろう。直前に行われたジョージア州下院議員選挙では2名とも民主党に奪還され、上院の勢力分布は50-50と拮抗した。2017年以来、トランプに乗っ取られた形となった共和党は、今後どうなるのか予測は困難だが、大きな曲がり角を迎えた。<2021/1/10記>  Newsweek Japan 2021/1/9 記事 現地ルポ  National Geographic News 2021/1/12 記事

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書籍案内

C.A.ビアード
/斉藤眞・有賀貞訳
『アメリカ政党史』
1968 UP選書

ビアードは戦前のアメリカ憲法制定史の大家。この書は1928年までがビアードの原書の訳、それ以後1967年までを斉藤眞氏が加筆したもの。著述は古いが、アメリカ政党史を概観するには好適。


杉田米行
『知っておきたい
アメリカ意外史』
2010 集英社新書

第2章に二大政党の政策が逆転した経緯の説明があり、参考になる。


岡山裕
『アメリカの政党政治』
2020 中公新書