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革新主義/進歩主義/革新党

19世紀末から顕著になったアメリカ合衆国の一つの政治潮流。資本主義の矛盾を資本の独占を抑えるなどで是正しようとするもので、共和党大統領セオドア=ローズヴェルトが提唱した。革新党を結成したT=ローズヴェルトは1912年大統領選挙で彼は革新党候補として出馬したが、民主党ウィルソンに敗れ、党も衰退した。

 1860年代にアメリカの産業革命が進行し、工業化が急速に進む中、共和党政権によって高関税=保護貿易政策に守られ、アメリカの資本主義は自由放任(レッセフェール)の原理の中で激しい競争を展開した。その結果、19世紀末までに独占資本は高度に集中を遂げ、ロックフェラーカーネギーモーガンなどによる寡頭支配が形成された。それは一方で激しい貧富の格差を生み出し、労働者や農民の疎外感を強めていった。

革新主義の潮流

 19世紀末のアメリカで、そのような現状の打破をめざす運動として起こったのが革新主義(プログレッシヴィズム、Progressivism =進歩主義とも言う)の潮流であった。それは全国的な規模で、都市の中産階層を中心にあらゆる階層が加わり、19世紀的な自由放任主義から脱却して、政府の権限を高め、帝国主義段階に入った資本主義社会を国家が強く統制すべきであると主張した。
 具体的には、その政策は反トラスト法などの独占の制限と抑制、労働者の保護、上院の直接選挙(上院議員はそれまで州議会で選出することになっていたが、1913年からは憲法修正17条で、国民が直接選出できるようになった)、税制・関税の改革など多岐にわたり、禁酒法の制定なども含まれていた。また、その主張は民衆の声を代弁するところから、ポピュリズムの側面も強いと言われることもある。

革新党

 セオドア=ローズヴェルトは、共和党選出の大統領として二期(1901~1909)つとめ、自ら帝国主義政策を推進し、特に外交ではカリブ海への棍棒外交日露戦争の講和仲介など積極的に動いたが、国内政治では在任中からトラスト規制や労働者保護、所得税・相続税の増税、企業監督の強化などポピュリスト的政策を打ち出しており、資本家層からは不信の目で見られていた。1908年の選挙では彼は長期政権を自ら嫌って出馬せず、後継者の共和党タフトが当選した。しかしタフト大統領のもとで保守派が巻き返しを図り、革新主義が後退したのをみると、T=ローズヴェルトはその支持者とともに共和党を飛びだし、1912年、革新主義を掲げて「革新党」を結成した。
 革新党(Progressive Party 進歩党とも訳す)は「公正な政策」(スクエアーディール)と称して税制改革、大企業の規制強化、婦人投票権・最低賃金制の実現などを綱領に掲げた。革新党は、既成二大政党は「腐敗せる特権階級の道具」となり果てている、「腐敗せる実業界と腐敗せる政界との忌わしい同盟の打破こそ今日の政治家の第一の急務である」と宣言した。<ビアード/斉藤眞・有賀貞訳『アメリカ政党史』UP選書 p.130>
 1912年の大統領選挙は、革新党のT=ローズヴェルトに対して共和党は継続して現職タフトを立候補させ、民主党ウィルソンを建てたので三つ巴となり、革新党が勝てば初めて二大政党によるたらい回しがおわるかもしれない、という選挙となった。民主党ウィルソンは「大銀行家・大製造家・豪商・鉄道会社や汽船会社の支配者」を「特権権力」として排除する「新しい自由」をうたい、革新党と近い政策を掲げていた。選挙は共和党支持者が分裂したのに対して、ウィルソンは民主党の保守的な勢力を抑えて一本化に成功したため、T=ローズヴェルトの革新党は敗れてしまった。第一次世界大戦中の1916年の大統領選挙では、T=ローズヴェルトは候補者となることを辞退し、革新党はやむなく共和党候補(ヒューズ)に投票したが、やはりウィルソンの再選を許した。
 革新党は大統領選挙では敗れたものの、連邦議会と州議会にも幅広く候補者を立てており、ウィスコンシン州ではラ=フォレットが1900年に州知事に当選、革新主義政策で成果を上げ、1906年からは3期連続で上院議員に選出されている。他にも下院で10名を当選させるなど、第三党として一定の存在となっている。民主党のウィルソン大統領時代の議会での革新主義的な改革にも一定の貢献をした。しかし、1916年の大統領選挙でT=ローズヴェルトが出馬を断ってからは革新党は解体に向かい、多くは共和党に戻っていった。<岡山裕『アメリカの政党政治』2020 中公新書 p.124> → アメリカの政党政治
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