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カリブ海政策

帝国主義のもと、19世紀末から強まったアメリカが隣接するキューバなどカリブ海域支配をめざす政策。棍棒外交と言われた強硬姿勢から、宣教師外交などに変化しながら1930年代まで続いた。第二次世界大戦後もその尾を引いていたが、1959年のキューバ革命で断たれた。アメリカはその後もこの地域への影響力を維持しようとした。

 カリブ海域を支配し、自己の内海化をめざすアメリカ帝国主義政策。南北戦争開始後、1861年にフランスがメキシコに進出したのに対抗してそれを排除したのに始まり、80年代にパン=アメリカ主義を掲げてその動きを強め、1889年に第1回パン=アメリカ会議を開催してその主導権を得た。
 1898年にはマッキンリー大統領がキューバ独立に介入してスペインと戦った米西戦争を起こした。その戦争に圧勝したアメリカはコロンブス以来のスペインの西インド諸島支配を終わらせた。1901年には事実上保護国化する条項を含むプラット条項を認めさせた。そのうえで1902年キューバ共和国は独立した。
 カリブ海政策はマッキンリー大統領の次のセオドア=ローズヴェルト大統領の外交政策として明確になり、パナマ運河の建設(1904~14年)と運河地帯の領有などが行われた。

「ローズヴェルト=コロラリー(系論)」

 1903年、アメリカはパナマ運河地帯の領有権を獲得し、軍事的にも経済的にも巨大な利益をラテンアメリカ地域に期待した。そのためにはこの地域の安全を確保する必要があった。1904年12月、セオドア=ローズヴェルト大統領は年次教書で
「・・・合衆国が望んでいるのは、近隣諸国が安定し秩序を保ち繁栄することである。・・・しかし、社会秩序が全般的に弛緩し、そのため犯罪や無力状態が慢性的に発生する場合には・・・・西半球では、モンロー主義を堅持する合衆国が・・・国際警察力の行使を強いられることになろう。」
と述べた。モンロー主義を拡大解釈する形で出されたこの声明は「ローズヴェルト=コロラリー(系論)」と呼ばれ、20世紀のアメリカの西半球政策の基底をなすことになる。<西崎文子『アメリカ外交とは何か -歴史のなかの自画像』2004 岩波新書 p.72-74>

アメリカのカリブ海政策の推移

棍棒外交からドル外交へ このような力を背景としたセオドア=ローズヴェルト大統領のカリブ海政策は、「棍棒外交」と言われるが、次の第27代大統領タフト(在任1909~1913)の外交政策は、海外投資の拡大によって政治的な影響をおよぼそうとしたので、ドル外交と(資本の投下を中心とした支配強化)言われた。
宣教師外交から善隣外交へ 次のウィルソン大統領宣教師外交と言われる。これは、アメリカの民主主義の理念をラテンアメリカに広め、定着させることによって安定をもたらそうという使命感を、かつてのイエズス会の宣教師の使命感になぞらえて表現したものであったが、実際には、1915年のハイチへの海兵隊派遣による軍政開始のように、軍事力による「アメリカの喉元」カリブ海を支配することがその本質であった。またウィルソンはメキシコ革命にも干渉、ラテンアメリカに対するアメリカの影響力強化に努めている。
 これらのラテンアメリカ地域へのアメリカの干渉政策は、1933年のF=ローズヴェルト大統領の善隣外交への転換まで続く。 → アメリカの外交政策

キューバ危機とその後

 第二次世界大戦後、共産主義の浸透がアメリカにとって大きな脅威となり、それを防止するために1948年米州機構(OAS)を組織し、中南米各国の親米政権を支援した。ところが、カストロらによってキューバ革命が行われて親米政権が倒され、危機は現実のものとなった。ケネディ進歩のための同盟を結成してキューバ孤立化を図ったが、1962年、ソ連がキューバにミサイル基地を設けたことからキューバ危機となった。
 さらに1980年代にはレーガン大統領は、ニカラグアエルサルバドルグレナダに立て続けに干渉した。その結果、ラテンアメリカ諸国の反米感情が強まり、かえってアメリカ離れが進んでいる。
 カストロの率いる社会主義キューバとは、アメリカは1961年に国交を断絶した。アメリカはその後も長くキューバ敵視政策を続けたが、オバマ政権は2016年、ようやく国交を回復、同年12月にはカストロもが死去し、長い対立の時代は終結した。
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