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キューバ(1) スペイン人の支配の始まり

西インド諸島最大の島。コロンブスが到達以来、スペイン領となる。その植民地支配の砂糖とタバコのプランテーション経営のもとでインディオは減少、黒人奴隷が導入される。19世紀末に独立運動が活発化するとアメリカが介入、1902年に独立を達成したが事実上のアメリカによる支配が続いた。1959年、親米バチスタ政権がカストロの指導する革命で倒され、社会主義国となる。米ソ冷戦下の1962年にはキューバ危機が起こった。アメリカによる経済封鎖は2015年まで続き、同年のアメリカ大統領オバマの方針転換により国交を回復した。翌16年11月、カストロが死去した。

 スペインのイサベル女王が派遣したコロンブスは第1回航海の途次、1492年10月27日にキューバ島に上陸した。当初この地がマルコ=ポーロの伝えるジパングの地ではないかと考えたようだが、金などの財宝は得られなかった。さらに第2回航海で1494年にこの地が島であることを確認した。スペイン人の入植は1511年から始まり、次々と島は征服され、インディオは苛酷な労働に曝され、人口を激減させ、黒人奴隷が導入されて砂糖などのプランテーションの島となっていった。 → キューバの独立  キューバ革命  キューバ危機  現代のキューバ  アメリカとの国交回復

スペインの支配

 16世紀の初め、キリスト教宣教師のラス=カサス『インディアスの破壊についての簡潔な報告』で次のように述べている。
(引用)ある時、ある大きな村から、インディオたちは多くの食料や贈物を携えて、われわれを10レグワも先に出迎えてくれた。村へ着くと、インディオたちはたくさんの魚や食料、それに、彼らが差し出せるものはすべてわれわれに与えてくれた。ところが、突然、悪魔がキリスト教徒たちに乗り移り、彼らは私の目の前で、何ひとつしかるべき動機も原因もないまま、われわれの前に座っていた男女、子供合わせて総勢約3000人以上を短剣で突き刺した。その場で、私はかつて人が見たことも想像したこともないような残虐な行為を目撃したのである。・・・・この島に住んでいたインディオたちは、エスパニョーラ島のインディオたちと同じように、全員奴隷にされ、数々の災禍を蒙った。仲間たちがなす術なく死んだり、殺されたりするのを目にして、ほかのインディオたちは山へ逃げたり、絶望の余り自ら首をくくって命を絶ったりしはじめた。・・・島には、300人のインディオを分配された官吏がいたが、僅か3ヶ月のうちに、そのうち270人が鉱山労働で死んでしまい、生き残ったのは全体の10分の1に当たる30人にすぎなかった。・・・その後、キリスト教徒たちは山中に身をひそめたインディオたちを狩り出しにいくことになった。彼らは甚だしい害をインディオたちに加え、結局、キューバ島を荒廃させ、全滅させてしまった。われわれが最後にその島を見てから余り月日はたっていないが、荒れはててひっそりと静まりかえった島を見ると、非常に胸が痛み、深い同情の念がこみ上げてくるのである。<ラス=カサス『インディアスの破壊についての簡潔な報告』染田秀藤訳 岩波文庫 1976 p.40-44>
 ここで告発されているのは、スペインがラテンアメリカ植民地で当初に採用したエンコミエンダ制の実態であった。

キューバ(2) キューバ独立

19世紀後半、スペイン植民地から米西戦争を機として1902年独立した。しかしアメリカによる実質的支配を受けた。

 19世紀の初頭にスペインの植民地であったラテンアメリカの独立が続いたが、カリブ海最大の島キューバはプエルトリコとともに、植民地として残されていた。しかし、1860年代から激しい独立運動が開始された。

砂糖とタバコ

 キューバはハイチに代わってサトウキビの栽培とそれを原料とした砂糖の産地として重要となり、現地生まれのスペイン人入植者(クリオーリョ)による大規模な砂糖プランテーションが経営され、労働力として黒人奴隷が多数輸入されていた。19世紀半ばにはキューバの砂糖は世界の生産量の4分の1をしめるまでになっていた。またキューバはタバコの原産地の一つであったが、19世紀からその世界的需要の増加に伴い、葉巻の生産地として急成長した。

砂糖モノカルチャー化の進行

 1880年に黒人奴隷制は南北アメリカでは最も遅く廃止されたが、その後は周辺諸島や中国からの出稼ぎ労働者が増加し、キューバ人の人種的混淆がさらに進んだ。また、サトウキビ畑は島全体に広がり、穀物その他の農産物が栽培されなくなったため食料は輸入に依存するようになった。またサトウキビ畑の労働は、収穫期の4~5ヶ月に限定され、それ以外の半年以上は無収入となるため、農業労働者の貧困ははなはだしかった。そのような農業労働者の犠牲の上に生み出されたキューバの安価な砂糖は、世界市場の四分の一をしめるまでになったが、「砂糖モノカルチャー」はアメリカ資本と、それに結びついた一部の富裕層に利益を独占され、多くの労働者が貧困にあえぐ構造が出来上がった。

独立運動

 砂糖プランテーション経営者のクリオーリョたちは本国スペインからの独立をめざし、1868年に武装蜂起したが奴隷制の継続か廃止かをめぐって経営者間の意見が分かれ、運動は崩壊した。ついで、1895年、キューバ独立の父と言われるホセ=マルティの指導する独立運動が起こった。

アメリカ=スペイン戦争

 キューバの独立運動の最中の1898年4月にハバナ港でアメリカ軍艦メイン号が爆破されるというメイン号事件が起こった。アメリカ合衆国国内でスペインに対する非難がわき上がり、それをきっかけにアメリカ=スペイン戦争(米西戦争)が起こった。アメリカ軍は4ヶ月でスペイン軍を駆逐し、講和条約であるパリ条約によりによってスペインはキューバの独立を認めた。

事実上、アメリカの保護国となる

 しかしアメリカはキューバを文明化するという口実で1899年から軍事占領し、衛生・教育・交通などの整備を行って資本投資の基盤を造り、経済的な関係を強めた。セオドア=ローズヴェルト大統領カリブ海政策を進め、キューバに強要して憲法の中にプラット条項を加えさせ、事実上アメリカの保護国とした上で、1902年5月に独立を認めた。プラット条項ではアメリカ政府のキューバに対する介入する権利と、アメリカ海軍の基地に必要な土地を売却または貸与することを規定していた。それにもとづいて1903年に締結された互恵通商条約で、キューバ島にグアンタナモ基地が設けられ、現在も存続している。

独裁政権下の対米従属と腐敗

 キューバは米西戦争の結果、1902年にキューバ共和国として独立したが、アメリカ資本の支配する砂糖のモノカルチャーに依存する度合いが強まった。1924年以来、マチャド将軍が大統領の独裁政治のもとで汚職、暴力的支配、ネポティズム(縁故政治)が続き、さらに政治と経済のアメリカ従属が強まっていった。砂糖やフルーツをアメリカ資本に独占されていたキューバでは1930年代の世界恐慌で大打撃を受けた。1933年に民族主義を掲げてた学生や市民のストライキが起こってマチャド政権が倒れ、替わったグラウ政権がプラット条項を含む憲法を破棄すると、アメリカは圧力をかけ、軍部のバティスタを動かして親米政権を樹立させた。善隣外交を掲げるフランクリン=ローズヴェルトは翌34年にプラット条項の破棄を承認する条約を締結し、バティスタ政権を守った。

キューバ(3) キューバ革命

親米バティスタ政権が1959年、カストロらによって倒され、社会主義政権成立、キューバ革命が始まる。アメリカはキューバ産の砂糖輸入禁止に踏みきりって関係が悪化、1962年に米ソの核戦争勃発の危機となった。危機は回避されたが、アメリカの経済制裁が続く中、カストロ政権は存続している。

バティスタ独裁政権

 バティスタ政権は1940年代も続き、長期政権は独裁化し、アメリカ資本と結びついて利益を独占し、国民生活が犠牲となっていった。そのような、アメリカ資本に従属したバティスタ独裁政治に対する不満は次第に強まり、1954年からカストロの率いる反バティスタ政権のゲリラ活動が始まった。

カストロのキューバ革命

 1959年1月1日にバティスタが国外に逃亡、カストロに指導されたキューバ革命が始まった。カストロは、民族主義と社会正義の実現をかかげて武装蜂起を指導したのであって、必ずしも社会主義を掲げていたわけではなかったが、弟のラウル=カストロや、アルゼンチン出身のゲバラら社会主義者の影響が強まり、次第に路線を転換させていった。
社会主義革命宣言 アメリカも当初は、キューバの独裁政権が倒されたことを歓迎したが、カストロ政権がアメリカ資本の砂糖精製工場やサトウキビ農園を接収して国有化したことを受け、その社会主義化を警戒し、米州機構から除名し、1961年には中央情報局(CIA)が亡命キューバ人を扇動してキューバに上陸させ、反革命軍事行動をとらせたが、失敗した。カストロはアメリカの介入に反発して、反アメリカの姿勢を明確にして社会主義革命であることをかかげ社会主義宣言を行った。アメリカははラテンアメリカの米州機構加盟国に進歩のための同盟と称する経済援助を強め、キューバ孤立化を図った。

キューバ危機

 キューバ革命の成功によって、ラテンアメリカ最初の社会主義国家を出現したことは、アメリカにとってそののどにナイフを突きつけられたような恐怖感を抱かせた。アメリカのケネディ政権は革命転覆をねらったが失敗し、砂糖の輸入と石油の輸出を停止してキューバ経済に対する締め付けを強化した。それに対してカストロは、ソ連への傾斜を強め、またソ連のフルシチョフはアメリカののど元を抑えるための絶好の機会ととらえた。両者の利害が一致して、ソ連は秘密裏にキューバでのミサイル基地建設を開始した。
 アメリカは偵察機によってソ連のミサイルがキューバに配備されたことを知り、海上封鎖を実行してソ連にその撤去を迫った。それが1962年のキューバ危機である。この危機は一応回避されたが、その後もアメリカによる経済封鎖は続き、キューバの砂糖の対米輸出が止まったため、その経済は大きな打撃を受けたが、カストロの強力な指導力のもとに現在まで社会主義体制を維持している。

Episode ヘミングウェーとキューバ

 20世紀アメリカの人気作家、アーネスト=ヘミングウェーはスペイン内戦を新聞記者として取材し、幾つかの作品を書いた。その後、1939年にキューバに渡り20年ほど首都ハバナで暮らした。『老人と海』を書いた彼の別荘は郊外の高台にあり、今はヘミングウェー博物館として公開されている。
(引用)文豪には、「別の顔」があった。第二次世界大戦中、米国のためスパイ活動をしていたのである。駐キューバ米国大使館と協力して「クルック・ファクトリー(ならず者工場)」という名のスパイ団を組織し、ナチスドイツのスパイを探した。かと思えば、愛艇「ピラール号」に、バズーカ砲を積み込んだ。漁とみせかけ、ナチスの潜水艦などが近づくと攻撃するためだった。
 さらに近年になって、ソ連の情報機関NKVD(KGBの前身)にも協力していたことが、元KGB幹部の暴露でわかった。文豪のコードネーム(暗号名)は「アルゴ」だった。<朝日新聞 2015.4.18 風欄 アメリカ総局長山脇岳志氏の署名記事>
 アメリカのヘミングウェー研究者は「ソ連のイデオロギーに賛成したのではなく、反ファシズムのための協力」だったと見ており、スパイとしての成果はゼロだったという。
 ヘミングウェーは、カストロらがキューバ革命を達成した翌年の1960年、ハバナを去った。なぜ離れたかは、米中央情報局(CIA)の元幹部は社会主義政権によって資産を国有化されることを恐れたから、と言っているが、ハバナのヘミングウェー博物館館長のアダ・ローサさんは「彼はキューバ革命に好感を持っていた。出版前の草稿も残したままだった。再び戻ってくるつもりだったのは間違いない」と反論している。躁鬱にも苦しんだ文豪は翌年、自ら命を絶つ。愛する二つの国(アメリカとキューバ)が敵同士になることで、彼の人生をさらに難しくしたのは確かだろう。<朝日新聞 同上記事による>

キューバ(4) 現代のキューバ

1959年にキューバ革命を成功させ、権力を掌握したカストロは1962年のキューバ危機を乗り切り、アメリカの経済封鎖という中で社会主義国家建設を進めた。独自の社会主義路線が順調に進む中、1989年の冷戦終結はキューバにも転換の気運をもたらし、2015年、アメリカとの国交を回復した。

カストロの長期政権


キューバの国旗
 1961年1月のアメリカとの国交断絶、アメリカによる経済封鎖はその後も継続され、砂糖生産を基本としたキューバ経済の危機が続いたが、カストロは独裁的な権力を集中させて社会主義体制の具体化を進めた。外交ではソ連との提携を強めると共に、中南米諸国の革命支援を積極的に行ったが、1967年にはボリビアに潜入したチェ=ゲバラが戦死し、革命の輸出は成功しなかった。
 1976年から国家評議会議長(国家元首)となったカストロは、第三世界のリーダーとして非同盟諸国首脳会議を主催するなど、反米姿勢を弛めなかった。対するアメリカはレーガン政権が1982年にキューバを「テロ支援国家」と指定して対決姿勢を強めた。
 1989年の冷戦終結後、キューバ=アメリカ関係に変化の兆しが現れ、クリントン政権下で経済制裁の一部解除などがなされたが、ブッシュ政権はキューバを「テロ支援国家」として関係改善に否定的な姿勢に戻った。
 フィデル=カストロは高齢化が進み、2008年に国家評議会議長を退き、弟のラウル=カストロが就任した。ラウル=カストロは社会主義を堅持しながら、部分的な市場経済の導入に踏み切るなど、体制転換の兆しが現れた。

NewS アメリカ・キューバの国交回復

 アメリカ大統領オバマ民主党政権は、キューバとの関係改善を外交方針のひとつに掲げた。その背景にはアメリカの若い世代に、キューバに対する敵対心が既に無いこと、経済的関係の回復を期待する声が強まっていることがあった。カナダを介して水面下の交渉を進め、2015年4月にパナマで開催された米州首脳会議でオバマとラウル=カストロの会談が実現、両国の関係改善は一気に進んだ。この「キューバの雪どけ」には、仲介にカナダと共にローマ教皇フランシスコが働いたと言われている。
 アメリカ合衆国オバマ政権は2015年4月に「テロ支援国家」指定を解除し、7月には両国が大使館を設置し、1961年から54年ぶりに両国は国交を回復した。そして翌16年3月にオバマはキューバを訪問した。フィデル=カストロはアメリカとの国交回復を見きわめた形で、同年11月25日に90歳で死去した。
両国間の不安定要素 しかし、同年末にアメリカ大統領に当選したドナルド=トランプは、キューバとの国交回復には強い疑念を抱いているとして、その見直しを表明している。アメリカ側には、キューバの社会主義体制を人権抑圧と見て非難する勢力が強く、亡命キューバ人も高齢化が進んだとはいえ、依然として反カストロ政権のロビー活動を続けている。また、キューバが強く求めているグアンタナモ基地撤去もまだ実現していない。両国間には不安定要素がいくつか存在しており、今後も目をはなすことはできない。
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ノートの参照
第14章2節 ウ.ラテンアメリカ諸国の従属と抵抗