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非同盟諸国首脳会議

1961年、ティトーらの提唱でベオグラードで第1回が開催された、非同盟主義をかかげる諸国の国際会議。東西冷戦の両陣営に加わらず、米ソ二大国を牽制する意義があった。冷戦解消後も、数回開催されている。

 インドのネルー首相が提唱した非同盟主義の理念にもとづき、ユーゴスラヴィアのティトー大統領、エジプトのナセル大統領の三者が、56年7月、ユーゴスラヴィアのプリオニ島で会談して意見が一致し、非同盟外交政策を採る国の首脳会議を開催することを決めた。インドネシアのスカルノ大統領も提唱に加わった。1961年9月1日に第1回がユーゴスラヴィアの首都ベオグラードで開催され、第三世界の諸国の結集をはかった。
 すでに1955年にアジア=アフリカ会議(バンドン会議)が開催されていたが、意見の違いから第2回開催は行われていなかった。イギリスの植民地であったインドとエジプトの両首脳に加え、社会主義国でありながらソ連と一線を画して独自路線を採っていたユーゴスラヴィアの首脳が協力し合うことで、二大国の覇権主義に対抗しようとするものであった。当時米ソ両国は平和共存路線が行き詰まり、61年にはアメリカがキューバと断交、8月にはベルリンの壁が構築されるなどの危機を迎えていた。
 1961年9月1日から6日まで、ベオグラードで開かれた第1回非同盟諸国首脳会議は25ヵ国の代表が参加した。代表も皇帝や国王から大統領、首脳、外相など多彩であった。会議では、ネルーは「いかに平和を実現するか」を論じ、ガーナのエンクルマは「植民地主義反対、帝国主義反対」を強調し、対立する場面もあったが、最終的には米ソ両国に対し戦争の危機の回避を強く訴える宣言文を決議した。米ソ両国も第三勢力の動きを無視できなくなる。

現在も続く非同盟諸国首脳会議

 非同盟外交政策は、1962年に中印国境紛争が起こり、インドのネルー自身が米ソに軍事援助を要請したために崩れてしまったが、非同盟諸国首脳会議そのものは、その後も不定期に何度か開催されている。
  • 1973年 第4回アルジェ会議 アルジェリアの首都アルジェで開催され、75ヵ国が参加し、国連加盟国の過半数を超えた。石油危機の始まりにあたり、参加した産油国などの発展途上国から資源ナショナリズムの声が強く出された。スリランカ首相バンダラナイケ(女性)は、「発展途上国の資源に依存している先進諸国の方が途上国より豊かなのは不合理ではないか」と発言した。その結果、非同盟諸国の「経済協力行動綱領」がはじめて採択された。
  • 1976年 第5回コロンボ会議 スリランカの首都コロンボで開催され、85ヵ国が参加した。バンダラナイケ首相が議長を務め、経済協力行動綱領の手直しなどが議論され、途上国の原料戦略が再確認され、途上国間の貿易特恵制度の導入などが決議された。
  • 1979年 第6回ハバナ会議 加盟国は92ヵ国、3組織に上り、オブザーバー、ゲスト国を併せて120ヵ国に上った。キューバのカストロ、ユーゴのティトーの他、アサド・シリア大統領、フセイン・ヨルダン国王、サダム=フセイン・イラク大統領、ファン=バン=ドン・ベトナム首相、ラーマン・バングラデシュ大統領、アラファト・PLO議長、ヴァルトハイム国連事務総長らが参加した。会議はカストロがアメリカ帝国主義を厳しく非難し、ソ連寄りの姿勢を強く示したのに対し、ティトーらは本来の非同盟主義の維持を主張し、歩調が乱れた。最終宣言では妥協が成立したが、ティトーも年老い、リーダーシップはカストロが採る場面が多くなり、以後の非同盟運動は低調になっていった。
  • 2006年 第14回ハバナ会議 9月15日から2日間、キューバの首都ハバナでが開催され、115ヵ国が参加、国連のアナン事務総長もオブザーバー参加した。会議では病気療養中のキューバのカストロ首相が演説するかどうか注目されていたが、弟のラウル氏が代理で登場した。イランのアフマディネジャド、ベネズエラのチャベスなど反米を鮮明にしている首脳が参加、特にチャベス大統領は「アメリカ帝国主義とは友人になれない。新自由主義は失敗した。」と激しい口調でアメリカを非難した。

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