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アルジェリア

地中海に面した北アフリカのマグリブ地方から内陸のサハラ砂漠にかけての広大な地域。ローマ帝国・ビザンツ帝国の支配下に入った後、7世紀にイスラーム圏となる。15世紀からはオスマン帝国領となり、1830年にフランスが進出、その植民地となる。第二次世界大戦後、激しい独立戦争を戦い、1962年に独立した。

アルジェリア GoogleMap

アルジェリアはアフリカ北岸、地中海岸のアルジェなどの港町を含む北部の温暖な地中海性気候と、内陸部のサハラ砂漠の砂漠気候とに大きく区分される。
 地中海に面したマグリブ地方の一部であり、西のモロッコと東のチュニジアにはさまれている。他のマグリブ地方と同じようにベルベル人の居住地であったが、海岸部にフェニキア人の植民市が建設され、カルタゴの支配を受けた後、ローマの保護国となったが、ヌミディア王国はローマ帝国に対する抵抗を続け、ユグルタ戦争で滅ぼされた。ローマ帝国デは属州アフリカに編入された。
 その後、ローマ帝国の衰退に伴い、ゲルマン民族の大移動がこの地に及び、イベリア半島からヴァンダル人が移動してきて、彼らは東隣のチュニジアを中心に王国を建設した。その後、ビザンツ帝国領を経て、7世紀にイスラームの西方征服が進み、幾つかのイスラーム王朝が交代し、15世紀からはオスマン帝国領となった。
 1830年のフランスのアルジェリア出兵以来、その植民地となり、地中海の対岸のフランスとの関係が強まる。第二次世界大戦後に民族独立運動が激しく展開され、民族解放戦線(FLN)が激しいテロを展開、1954年からのアルジェリア戦争をへて1962年に独立した。独立後はFNL政権は社会主義化を目指したが、長期政権化するとともに民衆の反発が強まり、イスラーム過激派の台頭などもあって混乱が続いた。
・ページ内の見だしリスト

アルジェリア(1) イスラーム王朝時代

アルジェリアのイスラーム王朝

 中心都市アルジェはフェニキア人の町の近くの島(アラビア語でアルジャジーラ)に新たな都市として建設されたもの。ウマイヤ朝はチュニジアに建設したカイラワーンを拠点にマグリブを支配し、さらにモロッコからイベリア半島に進出したが、次のアッバース朝は都のバグダードから遠く離れたマグリブの統治に不熱心で、8世紀にはいくつかの地方政権が分立した。それ以降のアルジェリアのイスラーム政権の興亡は次のようなものである。
  • ルスタム朝 777年、アルジェリア北西部のターハルトを中心にしたハワーリジュ派の一派、イバード派が建てた王朝。シーア派のモロッコのイドリース朝、スンナ派のチュニジアのアグラブ朝と対立した。チュニジアに興ったファーティマ朝によって902年に滅ぼされた。ファーティマ朝が本拠をエジプトに移してからは、アルジェリアにはベルベル人の小君主国が分立した。
  • ムラービト朝ムワッヒド朝 11世紀にには、モロッコのベルベル人遊牧民が起こしたムラービト朝の勢力が及び、ついで12世紀には同じくベルベル人のムワッヒド朝の支配を受けた。
  • ザイヤーン朝 ムワッヒド朝の衰退後、アルジェリアのトレムセンを都として1236年に建国された。遊牧ベルベル人の一派、アブド=アルワード族のザイヤーン家がスルタンの地位を占めたのでアブド=アルワード朝ともいう。モロッコのマリーン朝と、チュニジアのハフス朝はさまれて政治的には不安定であったが、トレムセンはサハラ交易の中心地の一つとして栄えた。

オスマン帝国領

 15世紀以降、東方からはオスマン帝国が迫ってきて、1554/55年にザイヤーン朝は滅亡し、オスマン帝国領となった。オスマン帝国領の領土の最も西に位置することとなった。

アルジェリア(2) フランスの植民地支配

1830年にフランスの侵略を受け、植民地される。フランス人入植者の支配が続いたが、第二次世界大戦後に激しい独立運動が始まる。

フランスのアルジェリア出兵

 1830年、フランス復古王政シャルル10世アルジェリア出兵を強行、占領した。シャルル10世は王政に対する民衆の不満をそらすために海外派兵を実行した人気を得ようとした。フランス国内ではまもなく七月革命が勃発し、シャルル10世の復古王政は倒され、ルイ=フィリップによる七月王政が成立したが、新政府もアルジェリアから撤退せず植民地支配を継続した。
アブド=アルカーディルの反乱 1832年、フランスの植民地支配に立ち上がったのが、アラブ人首長アブド=アルカーディルであった。アブド=アルカーディルは粘り強く戦ったが、1847年についに捕らえられ、晩年はフランスに協力的となったため、アルジェリアの抵抗運動は衰えた。

フランスによる植民地支配

フランス人入植者 アルジェリアは地中海を挟んだフランスの対岸に位置し、多くのフランス人が入植者として移住し、現地のアラブ人やベルベル人を低賃金で雇って大農園などを経営し、コロンといわれたその子孫たちは富裕層を形成した。首都アルジェの中心部はフランス人居住区でパリ風の高級店舗が並び、郊外には「カスバ」といわれる貧民窟が広がるという格差が大きくなっていった。
 フランスでは翌1848年に二月革命が起こり、共和政国家となったが、植民地解放の声は国内からは起こらなかった。次に登場したナポレオン3世の第二帝政では、アルジェリアはフランス帝国を支える植民地として重視され、植民地支配は強化された。その状況は第二帝政が1870年に倒れて第三共和政になっても変わらず、第二次世界大戦の時期まで続いた。

Episode 『異邦人』と『ペスト』

 フランスの作家アルベール=カミュ(1913-1960)の代表作とされる『異邦人』は1942年に発表され、アルジェを舞台としている。また1947年の『ペスト』もアルジェリアのオランを舞台としている。カミュは“不条理”の中の人間の孤独を描き、戦後の日本にも強い影響を受けた作家であるが、彼自身もアルジェリアで生まれたフランス人コロンだった。しかし父親は貧しい労働者であり、第一次世界大戦で戦死、カミュは苦学してアルジェ大学を卒業した。アルジェリアで作家活動に入り、第二次世界大戦ではレジスタンスに加わった。共産党にも加わったことがあったが革命には曖昧な態度をとり、親友のサルトルとは論争となった。『異邦人』『ペスト』などが世界的に読まれ、1957年にはノーベル文学賞を受賞したが、1960年交通事故で急死した。その晩年、アルジェリア独立運動が激化したが、カミュはフランス人とアラブ人は融和できると考え、独立には消極的だったといわれる。

アルジェリア(3) アルジェリアの独立運動

1830年以来のフランス植民地支配に対し、第二次世界大戦後に激しい独立運動が始まる。民族解放戦線が結成されアルジェリア戦争が激化する中、ド=ゴールが登場してアルジェリア問題の解決にあたり、1962年に独立が認められた。

アルジェリアの戦い

 第二次世界大戦後の1948年、ベン=ベラを指導者として民族解放戦線(FLN)が結成され、1954年11月1日に武装蜂起し、アルジェリア戦争が始まった。フランス人入植者は「フランス人のアルジェリア」と唱えて、当局もアラブ人の独立運動を厳しく弾圧し、双方のテロが繰り返された。そのあたりのテロの応酬は映画『アルジェの戦い』でドキュメンタリ・タッチで描かれている。

フランス人入植者の反乱

 フランス政府がアルジェリア問題に苦慮して次第に独立承認に傾くと、現地のフランス人入植者は強く反発、1958年5月には現地フランス軍が反乱を起こした。現地反乱軍をコントロールできなくなったフランスの第四共和政政府が倒れると、植民地支配の危機を救う人物として第二次世界大戦の救国の英雄ド=ゴールが国民の輿望を担って復活した。

ド=ゴールのアルジェリア政策

 しかしド=ゴールは大統領に当選し強力な権限を与えられると一転して態度を変え、「アルジェリア人のアルジェリア」を実現させる方向をとった。ド=ゴールは現地軍の反乱を抑え、1960年にはアルジェリアの独立の可否を国民投票にかけ、賛成多数の支持を受けて解放戦線(FLN)との交渉を開始し、62年7月エヴィアン協定を締結、独立戦争の和平を実現させた。協定に基づいてアルジェリアで住民投票が行われ、独立賛成が圧勝して、同年アルジェリア民主人民共和国が成立した。
 1960年にド=ゴールがアルジェリアの独立を容認することに転じたことは、多のアフリカの民族独立運動に大きな影響を与え、一気に独立の気運が高まり、イギリスなどもそれに押される形で次々とアフリカ諸国の独立が実現し、アフリカの年と言われることとなる。

アルジェリア(4) アルジェリア民主人民共和国

1962年、アルジェリア戦争に勝利して、フランスから独立した。しかし体制化したFLNは次第に強権的となって民衆が離反、イスラーム原理主義が台頭して1990年代に激しい内戦となる。2000年代に内戦は収束したが政治的不安定はなおも続いている。

 フランスの植民地であったアルジェリアが、アルジェリア戦争に勝利して1962年7月3日に、独立を達成、9月に制憲議会はアルジェリア民主人民共和国の成立を宣言した。大統領には翌年、民族解放戦線(FLN)の指導者で釈放されたベン=ベラを選出した。ベン=ベラは社会主義の建設を掲げ、民族解放戦線の一党制のもとで次第に独裁的に権力を集中した。ベン=ベラは外交面では非同盟主義をかかげ、65年には第2回アジア=アフリカ会議がアルジェで開催される予定であったが、クーデターのため中止となった。

ベン=ベラ政権、クーデタで倒れる

 ベン=ベラ政権は国民解放軍にその権力を支えられ、また独立の英雄として国民的支持も強かったが、次第に独断専行的となり、またその国内の現状を無視した国際主義が次第に政府内部の反対を強めて孤立するようになり、1965年6月18日に国防相ブーメディエン大佐がクーデターを決行しベン=ベラ政権を倒した。ブーメディエン政権下でも社会主義建設が進められ、農地改革が進められ、撤退したフランス人入植者の残した企業を国有化、さらに石油資源を背景に工業化を進めた。しかし、軍、政治、官僚を抑えるFLN体制が長期化すると、次第に腐敗してて国民の支持を失い、1980年代末にはイスラーム救国戦線(FIS)などのイスラーム原理主義運動が台頭した。

イスラーム原理主義の台頭と内戦

 民族解放戦線(FLN)政権の長期化で不満が高まる中、1991年の選挙ではイスラーム原理主義勢力であるイスラーム救国戦線(FIS)が圧勝した。しかし直後の1992年に軍によるクーデタがおき、選挙結果は事実上無効になった。イスラーム原理主義運動は武装テロを繰り返し、治安は極度に悪化し、国家非常事態が宣言され、約10年にわたる内戦に突入した。

内戦の終結

 1995年にようやく複数候補による大統領選挙が実施され、ゼルーアル大統領が選出され、民主化のプロセスが開始された。ゼルーアル政権の下でテロ対策、治安回復が進められ、次第に鎮静化した。1999年に選出されたFLN出身のブーテフリカ大統領は国際社会への復帰を目指し、積極的に治安回復と外交攻勢を進めた。2001年9.11でも明確にテロ非難、アメリカ支持を打ち出し、テロ国家のイメージ払拭につとめた。

自由化の抑圧

 しかしブーテフリカ政権は長期政権下を目指して憲法改正によって大統領任期を延長し、2011年、隣のチュニジアから始まった「アラブの春」の民主化運動の波及を警戒して反政府言論を弾圧を続けた。さらに2014年の選挙で再選され、長期政権が続いたが、ようやく2019年に辞任し引退した。その後選挙による大統領が選出されたが、同じくFLN所属であるので体制は変わっていない。
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