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二月革命

1848年、フランスの七月王政が普通選挙の実現などを拒否したことに対して、市民が蜂起し王政を終わらせた革命。ベルリンとウィーンの三月革命、さらにヨーロッパ各地の民族運動へと飛び火し、ウィーン体制を終わらせた1848年革命の契機となった。フランスでは第二共和政の臨時政府が成立、初めて労働者の社会主義者も参加したが、まもなくブルジョワ支持の穏健共和派との内部対立が始まり、労働者の要求は否定され、労働者の6月蜂起は鎮圧された。年末の大統領選挙ではルイ=ナポレオンが当選、そのもとで共和政は後退する。議会と対立した大統領は、1851年にクーデタで権力を握り、共和政は終わり、ナポレオン3世の第二帝政へと移行する。この過程で、産業資本家と労働者階級の階級的対立を軸とする社会対立の時代となった。

二月革命の概略

 19世紀前半のフランス七月王政は「市民王」とも言われたルイ=フリップのもとで産業革命がすすみ、広範に中産階級的なブルジョワと賃金労働者も生まれていたが、首相のギゾーの「選挙権が欲しければ金持ちになり給え」というセリフで明らかなように、限られた特権階級だけの政権になってしまっていた。広い市民層の中に普通選挙の要求を掲げた選挙法改正運動が強まる中、集会を禁止されたため改革宴会という形で運動を続けたが、政府は宴会禁止令をだして、それも取り締まろうとした。1848年2月、激昂したパリの市民、労働者が蜂起して、ルイ=フィリップを退位に追い込み、七月王政を倒し、共和政を宣言、臨時政府が成立した。
二月革命の党派 二月革命を実行し、第二共和政を実現し臨時政府に参加した人びとには、穏健共和派・急進共和派・社会主義者など、さまざまな党派があった。その色分けはおよそ次のようになる(さまざまな見解と党派名の表記法があるのでここではその一例。人物は高校の世界史で知っておいた方がよいと思われるものに限った。あくまで二月革命の理解の一助として示しているに過ぎない。)
  • 広くまとめればブルジョワ共和派=中間派
    • 穏健共和派 ブルジョワ(中間層、知識人層)の支持する(ジロンド派的。ラマルティーヌカヴェニャックら)。
    • 急進共和派 小市民的ブルジョワ(商店主、手工業者)の支持。完全な共和政の実施、民主主義的な改革を求める(ジャコバン派的。ルドリュ=ロランなど)。
  • 広くまとめれば王党派=保守派、右翼
    • 正統王朝派 ブルボン王家をあくまで正統とする(レジティミスト。大地主、復古王政を支えユルトラといわれた超王党派の残党。ファルーら)。
    • オルレアン派 オルレアン家の王位を認め、立憲君主政を支持する穏健な王党派(フイヤン派的。七月王政を支えたオルレアニスト。上層ブルジョワ。ティエールなど)。
  • 広くまとめれば労働者支持派=改革派、左翼
    • 社会主義派 労働者保護政策の実現をめざす。ルイ=ブランら。
    • 急進派 革命によって理想的な共産社会をめざす。ブランキなど。
  • ボナパルティスト 1848年後半から登場。ルイ=ナポレオンを支持する。フランス革命の理念を肯定し王政には反対。ナポレオン時代のフランス帝国の再現を期待。
 フランス革命以来の党派の系譜を引くものもあったが、新しい党派としては労働者の解放や権利保護を掲げる社会主義者や、共産主義社会を革命で実現しようとする共産主義者などが登場した。
革命を動かした市民 二月革命ではこれらの党派は必ずしも主導的ではなかった。二月革命の最大の特色は、節々の重要な動きが党派ではなく、パリ市民の直接的大衆行動(蜂起)によって動かされたことだった。そのため、各党派は常に市民の人気を気にしなければならなかった。またかつてのフランス革命の時代と異なる点の一つは、普通選挙が実現(途中で後退するが)したため、選挙結果がただちに政権を左右するようになったことだった。そのため1848年の1年のあいだに各党派は同盟、離反、対立を繰り返した。その点が二月革命の理解を難しくしているが、大筋としては二月革命を契機にフランスは、かつての貴族階級対ブルジョワジーという対立ではなく、ブルジョワジー対労働者階級の対立という新たな階級対立の時代に入たと考えて良い。同時に二月革命は労働者階級が初めて革命に加わったものの、初めて明確に弾圧された最初の革命であったと言うこともできる。(このような階級史観の見方は古いと批判されるところであるが、大筋としては間違えていないと考えている。)
二月革命の結末 当面の主導権はブルジョワの支持する穏健共和派が握ったが、急進共和派や社会主義者との内部対立がすぐに始まり、4月の普通選挙で穏健共和派が勝ち、王党派が復活、急進共和派・社会主義者が後退したことから、労働者保護政策である国立作業場が閉鎖されたことで6月暴動が起こった。暴動は鎮圧され、議会は王党派が結束した秩序党が主導権を握る。年末の大統領選挙ではナポレオンの甥のルイ=ナポレオンが当選、翌年クーデタで議会を解散させて権力を集中、52年2月に帝政を開始した。つまり二月革命は王制を打倒したが、その混乱から第二帝政を登場させ、共和政は後退し、産業資本家と労働者階級の階級的対立を軸とする社会対立の時代となったことを示している。

二月革命の世界史的意義

1848年革命 ウィーン体制の崩壊へ フランスに共和政を復活させた二月革命は、ただちにベルリンとウィーンに飛び火して三月革命を勃発させ、ヨーロッパ全土に及ぶ1848年革命の口火となった。フランスで王政が倒され、ドイツで国家統一の動きが生まれ、オーストリアでウィーン体制の代名詞であったメッテルニヒが退陣したこと、その他、とくにオーストリアやロシアに抑圧されていたイタリア、ハンガリー、ボヘミア、ポーランドなどで一斉に独立の動きが強まり、一時的にでもそれが実現して諸国民の春といわれる変革が起こり、その結果、ナポレオン没落後のヨーロッパの保守反動体制であるウィーン体制は崩壊した。
 なお、二月に起こったので日本では二月革命と言うが、フランスでは「1848年のフランス革命」と言われる。また、ロシア革命での1917年ロシア暦2月の革命も二月革命(新暦では三月革命)といっている。



二月革命の経緯

パリのバリケード 1848年2月13日、改革派は政府の禁をおかして22日にパリ十二区で改革宴会を開催することを決定。……当日朝パリの労働者・学生が続々集結し、マルセイエーズとA=デュマのはやらせたという「ジロンド党員の歌」を唱いながらデモ行進、コンコルド広場からブルボン宮殿に向かい議会に示威運動を行い、バリケードを築いた。
キャプシーヌ街の惨劇 翌23日、国民衛兵の大半が民衆に共鳴して革命側に付いた。国王ルイ=フィリップはやむなく首相ギゾーを罷免してモレに組閣を命じた。夜9時頃、サン=タントワヌ街で組織されたデモ隊は、赤旗をなびかせ、外務省のあるキャプシーヌ街に向けて行進を開始した。この時が労働者が赤旗を掲げた最初だとも言われている。デモ隊がキャプシーヌ街に進んでいったところ、守備にあたっていた正規軍が突如一斉射撃を加えた。この衝突で50名ほどが死亡、多くが傷を負った。激高したデモ隊は、血まみれになった若い女性の死体を松明でかざしながら、「復讐だ!武器をとれ!」と叫びながらなおも進んだ。正規軍部隊はひるんで後退した。この衝突は、パリの民衆を革命側に引き寄せる決定的な転機となった。
国王一家の逃亡 24日、モレ首相は組閣を断念して辞任すると国王はティエールに組閣を命じ、ビュジョー元帥に市民蜂起の鎮圧に当たらせようとしたが、ティエールはリヨン暴動の、ビュジョーはトランスノナンの虐殺の張本人であったのでかえって民衆は激昂、民衆は武装してテュイルリー宮を襲撃した。宮殿前のシャトー=ドーの衛兵が民衆を阻止している間、国王ルイ=フィリップとその一家はからくも脱出することができたが、まもなく宮殿は民衆の手に落ち、七月王政は終わりを告げた。
臨時政府の成立 ブルジョワの支持する穏健共和派と労働者の支持する急進共和派(社会主義派も含む)は王政を倒すという共通目的では一致することができ、二月革命は成功した。ブルジョア共和派(ラマルティーヌら)は『ナショナル』、急進共和派(ルイ=ブランら)は『レフォルム』という新聞を発行し、それぞれ革命後の政権を構想した。議会ではこの段階では君主制支持であったユーゴーなどの立憲君主制派もあったが、多数で否決され、臨時政府設立が決定される。臨時政府にはラマルティーヌとルイ=ブランがともに参加し、その夜遅く、共和政を宣言した。
 二月革命によって第二共和政が成立し、臨時政府が発足した。次の課題は共和政政府の樹立と共和政憲法を制定することにあった。しかし、早くもその両派の対立が表面化した。

参考 文学上の二月革命

 フローベール『感情教育』(1869)<生島遼一訳 上下 岩波文庫>は、この二月革命からルイ=ナポレオンのクーデター事件までのパリを舞台とした小説で、これらの事件が生々しく再現されている。

臨時政府

1848年の二月革命で成立した共和政府。穏健なブルジョワ共和派を中心に急進共和派、労働者代表の社会主義者も参加したが、次第に内部対立が激しくなり、国立作業所閉鎖を機に労働者代表は排除され、6月暴動が起こった。

 1848年2月24日、その夜遅く、共和政が宣言され、第二共和政が発足した。臨時政府の11閣僚の内、7名はブルジョア共和派(機関紙『ナショナル』。ラマルティーヌら)、2名は急進共和派(機関紙『レフォルム』。フロコン、ルドリュ=ロランは小市民)、2名は労働者代表(アルベール、ルイ=ブラン)という構成であった。
赤旗か三色旗か  武装をまだ解かない労働者は、二月革命の最前線に掲げられた赤旗を、新たなフランスの国旗とすることを臨時政府に要求した。しかしラマルティーヌは雄弁をもってその要求を拒否、フランスの栄光と権威を象徴する三色旗を国旗として制定することを主張した。労働者の要求は退けられ、三色旗がフランスの国旗として正式に採用された。ラマルティーヌに代表される「秩序」と「財産」を守ることが国家の使命であるというブルジョワ民主主義が勝利を占めたかたちとなった。
二月革命の成果 「自由の木」  政府内部に激しい対立を含みながら、臨時政府は4月に第二共和政憲法制定のための男性普通選挙を約束しただけでなく、3月には植民地の黒人奴隷制を廃止(奴隷主には1人60フランを賠償した)など改革を推進し、成果を上げた。3月20日には、シャン=ド=マルスに数千人の市民が集まり、三色旗をくくりつけた「自由の木」の植樹が行われた。「自由の木」は国王専制政治を倒したパリ市民と労働者の団結の象徴であり、当時はカトリック教会の司祭もこの木をおごそかに聖別するなど、融和の象徴でもあった。しかしその蜜月は長続きしなかった。
男子普通選挙の実施  3月5日、臨時政府は憲法制定国民議会の招集のために、男子普通選挙を実施することを布告した。これは6ヶ月以上同一市町村に居住する21歳以上のすべての男性に投票権を与えるものであり、これによって有権者は七月王政下の25万からいっきょに900万人に増加した。女性は除かれているが、財産による差別のない「普通選挙」が実現し、市民の政治参加がルール化されたことは画期的なことであった。なお、フランスで女性参政権が認められたのはなんと第二次世界大戦後である。この四月普通選挙が実施され、投票率84%で880名が当選した。男性普通選挙は急進的共和派、社会主義派に有利と考えられていたが、両派の当選は100名に過ぎないという皮肉な結果となった。ルイ=ブランも落選してしまった。これは、急進改革派を「赤い妖怪」と恐れる地方の有産農民層がパリの過激な運動を冷ややかに見ていたためであった。また国立作業所設置などの公共事業のために課税を強化したことが農民層が臨時政府内の社会主義派に反対した理由だった。
 5月に憲法制定国民議会が成立したため臨時政府は解散し、あらたに内閣として5名からなる「執行委員会」を任命した。5名のうち4名はラマルティーヌらブルジョワ共和派(穏健派)で、労働者の要求に理解のある急進共和派はルドリュ=ロランただ一人となった。

第二共和政の動揺

1848年4月選挙で社会主義派が後退、ブルジョワ共和派が国立作業場の閉鎖に踏み切ったため、反発した労働者がパリで六月蜂起を起こした。その鎮圧に活躍した軍人カヴェニャックが穏健共和派に押されて実権を握る。11月に公布された共和国憲法に基づいて実施された大統領選挙でルイ=ナポレオンが当選、次第に権力を集中させ、第二帝政への道を開いた。

二月革命での内部矛盾

 臨時政府のなかの急進共和派、社会主義派は、労働者の救済を図るために国立作業場を設置した。これは工場ではなく、土木作業場といったもので、失業対策のために設けられたものであった。しかし、作業場に収容された人には、実際の仕事がなくとも国費で給与が支払われていたため、厖大な支出が続き、次第に財政を圧迫していった。あわせて当時、全ヨーロッパでのジャガイモ飢饉の影響による不況で、国家財政は危機に瀕することとなった。臨時政府部内では、国立作業場の閉鎖の主張が大勢を占め、4月の選挙によって社会主義派が後退したことによって、5月に成立した執行委員会(政府)でその閉鎖が決定された。
六月蜂起 政府が国立作業場を閉鎖したことに対して労働者と社会主義派は強く反発した。1848年6月、労働者は六月蜂起を起こしパリ中にバリケードを築いた。議会は軍人のカヴェニャックに全権を付与、彼は戒厳令を布き、労働者のバリケードを砲撃して鎮圧、労働者・社会主義者を多数殺害した。ルイ=ブランはイギリスに亡命し、実権は鎮圧を指揮した軍人カヴェニャックに移った。フランス革命を上まわる規模の市街戦となった六月蜂起は、世界史上、最初の労働者の武装蜂起とも言われるているが、同時に初めてブルジョワ側の軍隊によって鎮圧された戦いとなった。
議会の右傾化 六月蜂起は鎮圧されたが、労働者が武装蜂起したのは最初のことだったので、社会の保守層、上層部に大きな危機感を抱かせた。第二共和政のもとでバラバラだった右派、王党派は、反共和政・反労働者階級で一致する必要を自覚し、ブルボン王朝を正統としてその復活を主張する正統王朝派(レジティミスト)・七月王政のオルレアン家の復活を策するオルレアン派(オルレアニスト)の両派が合同、さらにカトリック勢力も加わって「秩序党」という党派を結成し、選挙を通じて議会の右派として大きな勢力をもつようになっていった。

共和国憲法と大統領選挙

フランス1848年

1848年1年間のフランスの政権交代を戯画化した絵。右からルイ=フィリップ → ラマルティーヌ → カヴェニャック → ルイ=ナポレオン。いずれもルイ=ナポレオンの登場の露払いに過ぎなかったというわけである。

ルイ=ナポレオンの大統領当選 憲法制定国民議会は11月4日に第二共和政憲法を採択した。人民主権・三権分立・一院制・大統領制を採用し、男子普通選挙を定めていた。この憲法に基づき、同1848年年12月に最初の大統領選挙が実施されると、カヴェニャック、ラマルティーヌらと並んで、亡命先のイギリスから帰国したナポレオンの甥、ルイ=ナポレオンが立候補した。多くはカヴェニャックの圧勝を予想していたが、その結果はルイ=ナポレオンが553万票(74.2%)で圧勝、カヴェニャックは145万票、ルドリュ=ロランは37万票、ラマルティーヌは3万票にも届かなかった。
 ルイ=ナポレオンは、若い頃イタリアでカルボナリに参加したり、またサン=シモンの影響を受けて社会改良論を発表したり、開明的な人物と見られていた。革命や労働者蜂起で動揺が続いたフランス社会に、民衆の立場に立った強力な指導者として期待され、何よりもナポレオンの甥であることが、1840年にナポレオンの遺体がセントヘレナからパリに移されて正式に埋葬され、国民的英雄が帰還したとして歓迎されたことなどのタイミングもあり、急速に支持を集めた結果であった。
共和主義者なき共和政 大統領となったルイ=ナポレオンは、当初は共和政に忠実な姿勢を示したが、実際には共和派を排除し、右派のメンバーからなる内閣を発足させた。その実態は「共和主義者なき共和政」といわれるものだった。翌年5月に立法議会選挙が行われると、右派の秩序党が450議席(750議席中)の53%で過半数を占め、穏健共和派は12%と惨敗、左派(この時は急進共和派と社会主義者が合同し山岳党―モンタニャールと称した)は35%と健闘し、議会は中道派が壊滅し、左右分極化が進む結果となった。
イタリア派兵問題 ルイ=ナポレオンは国民の直接選挙で大統領に選ばれたが、初めは議会内に与党はなかった。その選挙でカトリック勢力の支持を受けていたが、まずその姿勢が試される機会が外交問題でもちあがった。イタリアでは1848年革命の一環として、オーストリアからの北イタリア解放の戦いが始まったが、それが鎮圧された後、1849年にローマでも革命が起こり、ローマ共和国が成立し、ローマ教皇ピウス9世が亡命するという事態となった。国内でカトリックの支持を受けていたルイ=ナポレオンはピウス9世のローマ復帰を助けるためフランス軍をローマに派遣した。フランス軍はマッツィーニガリバルディの抵抗を排除してローマ共和国を倒すことに成功した。これ以後もルイ=ナポレオンはイタリア問題に深くかかわりこととなる。この時のフランス軍の派遣に対して、議会の左派山岳党は憲法違反だとして反対し、パリでデモ行進から蜂起に図ったが、民衆の支持がなく鎮圧されてしまい、指導したルドリュ=ロランはイギリスに亡命、山岳党は壊滅した。こうして議会は右派の秩序党が単独で動かせるようになった。
議会と大統領の対立 議会で多数派である秩序党は、大統領ルイ=ナポレオンを無視する形で、次々と反動的な立法を行った。それは集会の禁止、出版印刷税の復活などの言論統制、ストライキの禁止、ファルー法(それまで世俗化が進められてきた初等学校教育をカトリック教会が行うことを可能にする法律)、そして選挙法の改悪(選挙資格の定住条件を6ヶ月から3年に増やすなど)を強行した。このような議会に対して距離を置いた大統領は、民衆が議会から離れ、彼自身にその支持があつまるのを待ったが、憲法の規定では1852年3月には退任し、再選されないことになっていた。権力を維持するには憲法を改正し、議会から実権を奪って、叔父のナポレオンのように皇帝になるしかないと決意し、密かにクーデターの計画を練り上げていった。議会の秩序党は大統領ルイ=ナポレオンをただの飾りで、無能な人間と考えていたので無警戒だった。
ルイ=ナポレオンのクーデタ 1851年12月2日、軍隊を掌握したルイ=ナポレオンは議会を解散させ、パリに戒厳令を布き、秩序党のティエールなど中心人物を逮捕した。パリ市民の抵抗はなく、1851年のクーデタは成功した。年末の12月21日に国民投票を実施、投票率83%、賛成92%という圧倒的支持でクーデタは承認され、翌1852年12月2日にはナポレオン3世として即位して第二共和政は終わり、第二帝政へと移行する。
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フローベール/生島遼一訳
『感情教育』上
岩波文庫

谷川稔他
『世界の歴史』22
1999 中央公論新社