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カルボナリ/炭焼党

ウィーン体制下のイタリアで、自由と憲法制定を求めて組織された秘密結社。1820~21年、ナポリとトリノで決起、立憲革命を成功させたが、いずれもオーストリア軍の介入で弾圧された。

イタリアの自由主義運動

カルボナリ

逮捕されたカルボナリ
欧州統一教科書より

 ウィーン体制のもとで、北部をオーストリアに支配され、民族もいくつもの国に分断されていたイタリアで興った、市民的自由を求める自由主義と、憲法制定を実現して国民国家の形成をめざすナショナリズムの運動を進めた秘密結社がカルボナリである。カルボナリとは「炭焼き人」の意味。その組織はカルボネリーア(炭焼党)ともいわれる。

カルボナリ

 その起源は不明だが、1809年頃、南イタリア・カラブリア山中でフランス支配に反対して形成されたといわれ、もとはフリーメーソンの一分派であったとも見られている、神秘的・宗教的性格の強い結社であった。集会所を山林中の炭焼き小屋に偽装し、賤業とされた炭焼き人と称することで現在秩序への反発を主張した。秘密結社であるので、入社には神秘的な儀式を行い、メンバーは大親方・親方・徒弟といった中世的ギルドを継承し、非公然であった。ナポリを本拠として1816年頃には約6万の党員を有したというが、実態はかならずしも明らかではない。カルボナリというと「炭焼き人」という意味から、貧しい民衆が決起したイメージでとらえられがちだが、その主体は、ブルジョワジー、あるいは地主層と言える社会の上層の人びとであった。そのことは、上掲の当時の絵を見ても、逮捕されたカルボナリが立派な服装をした紳士であことからも見て取ることができる。

カルボネリーア

 藤澤房俊氏の『「イタリア」誕生の物語』では「カルボネリーア」(組織名。単数がカルボナリ)を次ぎのように説明している。以下その要約。
  • ナポレオン支配期のイタリアですでに存在していた秘密結社のなかで、ウィーン体制時代に最も組織を拡大したのがカルボネリーアであった。ナポレオンの部将ミュラを国王としたイタリアで誕生したカルボネリーアは反ナポレオンを掲げたので厳しい取り締まりを受けることもなく、合法的な範囲で立憲君主政体を求めるようなった。
  • 王政復古期にイタリア全土に広がった。その組織名は炭焼きに由来し、炭を販売する店を意味する「ヴァンデッタ」が地方組織、炭焼き小屋を意味する「バラッカ」は集会場所、狼を意味する「ルーポ」は戦うべき圧政者などの隠語が使われた。
  • フリーメーソン※の影響もあって秘密結社固有の言語や神秘的な入会儀式をともなっていた。その思想は、立憲主義の枠の中で外国支配を拒否し、民族的独立を望んだが、イタリア統一を明確に掲げてはいない。参加者は共和主義者や立憲君主国の連邦制を主張するものなど多様な立場を含んでいた。
  • 急速に参加者を増やした要因には、掲げた民族と憲法という二つの要求がわかりやすかったことがあげられる。加入者は最大で30万から64万2千人とする数字もある。その多くは南部イタリアであった。
  • 指導的役割を果たしたのはナポレオン戦争に徴兵されて参加したもと兵士であった。その他、政治的・経済的な不満を持つ大学生、弁護士、商人、職人らで、富裕者も含まれていた。
※フリーメーソンとは 18世紀にイギリスで生まれた結社で、博愛、自由、平等を掲げ、一定の社会的立場のある人びとが入会した。もとは石工の組合であったとされたところから、組織の単位を石工小屋を意味するロッジと称し、組織的を拡大、フランス革命期にヨーロッパ全域に広がった。入会の儀式が秘密なので、秘密結社としてされているが、巷間いわれているような陰謀をめぐらす団体ではない(らしい)。イギリス、フランスでは多くの政治家や実業家が加入し、現在も続いている。

カルボナリの蜂起

 1820年1月に起こったスペイン立憲革命に刺激されて、オーストリア支配からの解放を掲げて1820年7月、ナポリ王国のカルボナリが決起、国王も憲法を認めて、立憲革命が成功した。ついで1821年3月、北イタリアのピエモンテではサルデーニャ王国での憲法制定を要求して決起した。しかし、いずれもブルジョア革命としては早熟で、オーストリアのメッテルニヒによる軍事介入によってくずされてしまった。カルボナリの蜂起は弾圧されたが、19世紀前半を通じて展開され、1860年に一応の達成を見るイタリアの統一をめざす運動(いわゆるリソルジメント)の第一歩となる運動であった。次の運動の主体となる青年イタリアを組織したマッツィーニもカルボナリの隊員から出発した。
ナポリでの立憲革命 ナポレオン没落によってナポリ王国にはスペイン=ブルボン家のフェルディナンド1世が復位し、シチリア王位も兼ねて「両シチリア王国」と称していた。1820年7月、その都ナポリで、カルボナリが決起、下級将校も参加した。「憲法と自由」を掲げた革命は流血もなく成功し、国王は彼らの求める憲法に如何なる修正も加えず発布した。その憲法は1812年、スペインで制定された「カディス憲法」であり、一時廃止されていたが、1820年春にスペイン立憲革命が起こり、国王が復活を約束したものであった。ナポリの憲法はカディス憲法をまったくそのままイタリア語に翻訳したものだった。  この憲法に基づいて議会選挙が実施され、ナポリ側では74人の議員中貴族は2名で圧倒的多数がブルジョワ階級であった。シチリア島ではナポリ政府を辞する議員は5名で、残り24名は分離独立を主張する人びとだった。
 このナポリ立憲革命に対して、ウィーン体制側では10月にトロッパウで会議を開き、オーストリアのメッテルニヒは革命を認めず軍事介入を決定した。両シチリア国王フェルディナンド1世も憲法は自らの意志に反して強制されたものであるとして、オーストリア軍の派遣を要請した。オーストリア軍は1821年3月に侵攻を開始、ナポリの立憲政府軍を打破してナポリに入城した。その結果革命政府は倒れ、多くのカルボナリは亡命した。
トリノでの立憲革命 サルデーニャ王国に属するピエモンテのトリノでは1821年3月初頭に、国王ヴィットリオ=エマヌエーレ1世の保守主義に反発していた自由主義貴族たちが、ナポリのカルボナリが弾圧されたことを見て、軍隊の一部を巻き込んで決起した。ピエモンテのカルボナリは、憲法の制定とロンバルド=ヴェネト王国のオーストリアからの解放を掲げた。蜂起は成功し、国王は退位して臨時政府が組織され、新国王は憲法を承認した。しかし、新国王はオーストリア軍に支援を要請して臨時政府軍を破り、トリノの革命は鎮圧されてしまった。<藤澤房俊『「イタリア」誕生の物語』2012 講談社選書メチエ p.69-76>
カルボナリの蜂起の意味 ウィーン会議からわずか5年後に、イタリアの南のナポリと北のトリノでカルボナリが蜂起し、立憲革命が起こったことは、いずれもオーストリア軍の直接介入で鎮圧されたとはいえ、ヨーロッパの君主制国家にとって、ウィーン体制の危機として衝撃を与えた。それによって自由主義、民族主義に対する弾圧は一掃激しくなるが、10年の後の1830年にパリで七月革命が起こり、イタリアでは1831年に中部諸国で革命運動が再燃してイタリアの反乱といわれが、それもオーストリア軍の介入で鎮圧された。
 これらの蜂起がいずれも弾圧されて終わったことから、カルボナリの残党であるマッツィーニらは、秘密結社による運動の限界を自覚し、より組織的で公然とした団体として「青年イタリア」を結成し、そのもとで明確なイタリア統一運動(リソルジメント)を推進していく。
カルボナリの評価 1820~21年にはナポリ、ピエモンテのカルボナリ以外のフェデラーティなど秘密結社も蜂起したが、いずれも国王の要請によるオーストリアの武力干渉によってあっけなく圧殺されてしまった。その理由として考えられるのは、これらの秘密結社は専制政治にたいする反発という点では一致していたが、その主体はブルジョワジーであり、民衆の支持を得られなかった(得ようとしなかった)こと、また専制政治打倒後の国家は共和政なのか、立憲君主政なのかなどプログラムが明確でなかったこと、などが考えられる。

参考 イタリアのブルジョワジー

(引用)(トリノとピエモンテの)両革命において、民衆の革命に対する冷淡な態度が目立った。ことに人口の大多数を占める農民たちは、ブルジョワジーが政治権力をにぎっていくことに反感をしめしさえした。近代産業の発達の遅れたイタリアでは、ブルジョワジーが産業資本家であるよりも、地主的な性格を強くもっていた。不在地主的市民的土地所有の広汎な普及は、中世都市国家時代以来のイタリアの特徴であるが、啓蒙専制君主政期の改革に続いて、フランス―ナポレオン支配期にいっそう推進された土地制度の近代化の過程に、さらに封建領主地や公共地の私有権が多くブルジョワの手に渡り、地主としてのかれらに対する耕作農民の反発を強めていた。そして、土地を求めるかれらの要求にこたえるすべを知らなかった革命政権は、反革命の攻勢に対してかれらを味方に惹きつけることができなかったのである。多分にブルジョワ的なカルボネリーアやフェデラーティの党員たちも、その点の自覚や認識に欠けていた。かれらは専制への反発には熱心でも、民主的な社会の建設に関する積極的なプログラムはもち合わせておらず、彼らの要求に基づき革命後制定と決まった1812のスペイン憲法についても、それが一院制議会からなる非常に民主的な憲法であるということ以上の知識を持つものはすくなかったといわれる。<森田鉄郎『イタリア民族革命の使徒―マッツィーニ』1983 清水新書 p.45>

Episode スパゲッティ・カルボナーラ

 日本の家庭や食堂で見かけるスパゲティ・カルボナーラは、ホワイトソースがべっとりと絡まった代物だが、本場のイタリアンとはまったく違うそうだ。カルボナーラは、カルボナリと同じ語源で、まさに「炭」のこと。だからスパゲティ・カルボナーラとは「炭のように真っ黒なスパゲティ」ということ。といってもイカスミのことではなく、黒胡椒をたっぷりかけるので真っ黒になるからだそうだ。ホワイトソースはまったくつかわず、卵黄を麺に絡め、黒胡椒をかけて食べるのが本場のスパゲティ・カルボナーラ。日本では子どもの食べ物だが、本場イタリアでは子どもは食べない。専ら黒胡椒の香りを楽しむ大人のスパゲティであるらしい。
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藤沢房俊
『「イタリア」誕生の物語』
2012 講談社選書メチエ