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ブルシェンシャフト/ドイツ学生同盟

1817年、ウィーン体制下のドイツで学生が中心になって起こした自由と統一を目指す自由主義・国民主義の運動。メッテルニヒによって弾圧された。

 ウィーン体制下のドイツで起こった、自由主義ナショナリズムの結びついた運動を起こした学生組織。ブルシェンシャフトはドイツ学生同盟のことであり、その運動は学生組合運動ともいう。
 ブルシェンシャフトは1815年6月、ドイツ主義の体操家ヤーンを精神的指導者として、ナポレオン戦争の戦場帰りの学生を中心にイエナ大学に生まれた新しい学生組合であった。まだ「決闘の美風」を残し、ユダヤ教徒を排斥したが、祖国としてはただ一つドイツがあるのみとして、「名誉・自由・祖国」をスローガンとし、黒・赤・金(解放戦争の一義勇軍団の軍服の配色に由来する)を旗印にした。この運動は、中部ドイツのイエナから南北ドイツの諸大学に広まった。<以下、主に旧版『世界各国史・ドイツ史』1977 山川出版社 p.246-249 による>

ブルシェンシャフトの蜂起

 1817年10月、宗教改革300年祭とライプツィヒの戦勝記念祭を兼ねた祝祭を11大学500人の学生を集め、ルターゆかりの古城ヴァルトブルク城で開催した。その夜、一部の急進派の学生が反動的書物や法規を焚書したことが各国政府を驚愕させた。1819年3月過激派の一学生が、当時ロシアのスパイと目されて学生の憎悪の的となっていた劇作家コッツェブーを暗殺する事件が起き、それを口実にメッテルニヒは本格的な弾圧を決意する。
ブルシェンシャフト(学生組合)の結成 ドイツの学生生活は、それまでは郷土的な結合である学生組合(ランツマンシャフト)に支配されており、その実態は下級生いびりと酒、そして決闘の刃傷沙汰であった。しかしナポレオンとのライプツィヒの戦いなどの解放戦争に参加し、狭い郷土を越えた「祖国」ドイツのために戦ううちに、そのような学生組織は時代おくれに思われるようになった。そんなとき、1815年6月体操家ヤーンを精神的指導者として、戦場帰りの学生を中心にイエナ大学に新しい学生組合ブルシェンシャフトが創立された。彼らは自分たちの祖国としてただ一つのドイツあるのみ、としてスローガンは「名誉、自由、祖国」とし、旗印に黒・赤・金の三色旗を掲げた。
宗教改革三百年祭 ドイツ諸大学の“リベラル派”の学生や一部の教授たち約500人は、1817年10月、中部ドイツのヴァルトブルク城で集会を開いた。それは宗教改革者マルティン=ルターが新約聖書をその原語(コイネー・ギリシア語)から母語のドイツ語訳を完成させた場所として知られていた。学生と教授たちはこの記念大会の席上で、黒色・赤色・金色からなる三色旗を掲げながら、自由ドイツ、統一ドイツの実現を強く訴えた。学生たちは中世の古衣装を身に着け、剣を捧げて練り歩いた。祝祭を終えた夜、一部の学生はプロイセン軍の兵士服、オーストリア軍の指揮棒などとともに警察の法令集やナポレオン法典などの書物(の名を書いた紙束)を火に投じ焚書の儀式を行った。この学生組合の行動に驚愕したメッテルニヒは「ジャコバン主義」として禁圧を命じた。そんな中に起こった学生による劇作家コツェブー暗殺は、メッテルニヒに全面的弾圧の口実を与えた。<上記『世界各国史・ドイツ史旧版』および、マイ/小杉剋次訳『50のドラマで知るドイツの歴史』2013 ミネルヴァ書房 p169 による>

カールスバート決議

 オーストリアの宰相メッテルニヒドイツ連邦内の自由主義ナショナリズムを抑え込むために、1819年、カールスバートに連邦の主要国の大臣会議を招集し、・いっさいの学生団体は禁止、・大学への監督官の常駐、・出版物の検閲、などの言論統制と大学への監視強化を要請した。これはカールスバートの決議と言われ、9月20日にドイツ連邦議会で採択された。これによって、ドイツのブルシェンシャフト(学生同盟)運動は厳しく弾圧されることとなり、衰退を余儀なくされた。なお、カールスバートはボヘミア(現在のチェコ)にある有名な温泉保養地。
統一ドイツ国旗

現在のドイツ国旗

ブルシェンシャフト蜂起の性格 ブルフェンシャフトに参加した学生は、自由を掲げながら、反フランス、反ナポレオンとともに反ユダヤの意識もあった。共通するのは「祖国の統一」への情熱、いわゆるナショナリズムであった。メッテルニヒのウィーン体制のもとではそれは危険な思想として弾圧の対象となった。しかし、彼らが掲げた黒・赤・金の三色旗(はじめは解放戦争の時にある部隊で用いられたという)がドイツ統一のシンボルとされ、現在の統一ドイツでも使われていることを考えれば、ドイツ統一の最初の一歩だったと評価することもできる。

ウィーン体制の動揺と崩壊

 メッテルニヒがカールスバート決議を成立させたのは、ドイツだけでなく、全ヨーロッパでウィーン反動体制に対する自由主義、ナショナリズムの運動が高揚しつつあったことへの対応であった。このあと、1820年にイタリアではカルボナリ(炭焼党)は北イタリアをオーストリア支配から解放し、イタリアの統一を求めて蜂起した。オーストリアは武力でその反乱を鎮圧した。同年、ブルボン王朝支配下のスペインではスペイン立憲革命が起こった。1825年には保守反動勢力の中心勢力とみなされヨーロッパの憲兵と言われていたロシアでデカブリストの反乱が起こった。オーストリアは領内のポーランド人やハンガリー人の独立運動も抱えており、自由主義・ナショナリズムの高揚には神経をとがらさざるを得なかった。事実、1830年にフランスで七月革命が起きるとその影響が広がり、ポーランドの反乱ドイツの反乱イタリアの反乱が相次いで起きている。
 メッテルニヒの権力はさらに40年代まで続いたが、ついに1848年革命がヨーロッパ各地で勃発、フランスの二月革命がウィーンにも飛び火し、ウィーン三月革命が勃発してメッテルニヒはついに失脚することとなった。
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書籍案内

マンフレッド・マイ
/小杉剋次訳
『50のドラマで知る
ドイツの歴史』
2013 ミネルヴァ書房