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カストロ

1959年、バティスタ独裁政権を倒し、社会主義をめざすキューバ革命を指導した。ソ連と提携したことに危機感を持ったアメリカが経済封鎖を行いキューバ危機となる。その後も独自の自主独立路線を採り、国際政治にも大きな影響を与えた。アメリカとの国交回復直後の2016年11月に死去した。

 Fidel Castro 1929~2016 キューバの革命運動家で、1959年にバティスタ独裁政権を倒し、キューバ革命を成功させ、アメリカののどもとで社会主義国家の建設を開始した。1962年にはソ連のミサイル基地建設を機にキューバ危機が起こった。その後もラテン=アメリカ地域の革命運動に影響を及ぼし続け、1976年以降は国家評議会議長(国家元首)となり、2008年に退任するまで指導的役割を果たした。

権力奪取まで

カストロとゲバラ
カストロとゲバラ
 フィデル=カストロは1926年生まれ、ハバナ大学法学部で学び弁護士となる。1953年7月26日、26歳のカストロは、弟のラウルらとカーニバルの人混みに紛れてモンカダ兵舎を襲撃、バティスタ政権に対する蜂起の狼煙を上げた。この蜂起は失敗しカストロらは捕らえられたが、この日は以後の革命の出発点とされ、以後の運動のは「7月26日運動」といわる。カストロは恩赦でメキシコに渡り、そこでゲバラと知り合う。1956年11月25日、82人の同士と「グランマ号」でキューバに上陸、仲間が12名に減るほど政府軍との戦闘で敗れ、以後はシエラ=マエストラ山中でゲリラ戦を続けた。ゲリラ戦を挑みながら農民の中に支持を広げ、ついに59年1月1日に首都ハバナを占領、バティスタ政権を倒し権力を奪取した。

Episode 「歴史は私に無罪を宣告するであろう」

 1953年の「モンカダ襲撃」に失敗し、捕らえられたカストロは、精神錯乱状態にあるとされて、病院に隔離され、非公開の裁判にかけられた。その裁判でカストロは蜂起の正当性を力強く訴えた。その言葉は獄中からレモン汁で記した秘密の文書で外部にもたらされ、出版されて人びとに強い衝撃を与えた。その一節には次のような文が見える。
(引用)・われわれが依拠するのは、毎日のパンを誠実に稼ぎたいと思っている七〇万人の失業者、みすぼらしい小屋に住み、一年の内四ヶ月働き、子供たちと貧しさをともにしながら、残りの日を飢え、1インチの耕す土地も持たない農業労働者である。
・農村の子供の90%が裸足の足から入ってくる寄生虫にやられている。上流社会は一人の子供が誘拐されたり、殺されたりするのを聞いて同情を寄せるが、何千という子供が施設のないため苦痛にもだえながら死んでいく大量殺人に対して犯罪に近い無関心さである。
・私は被告の無罪釈放を求めない。……私を断罪せよ。それは問題ではない。歴史は私に無罪を宣告するであろう。<宮本信生『カストロ』1996 中公新書 p.24-25>

キューバ革命に着手

 1959年1月に政権を奪取し、キューバ革命に着手した。大統領・首相にはリベラル派が任命され、カストロ自身は軍の総司令官となったが、事実上の権力を集中させていた。5月、まず農業改革法を制定し、農業協同組合を発足させて土地と農民の解放をはかりった。アメリカ企業の所有する農地を接収したことでアメリカが反発し、両国関係が悪化した。60年3月、アイゼンハウアー政権は、キューバからの砂糖の輸入を制限し、さらにキューバ向けの石油の精製を拒否した。アメリカとの対立が決定的となり、10月にはキューバ革命政府は銀行などを含む外国企業を国有化した。またアメリカに輸出できなくなった砂糖はソ連が買い取ることを表明、ソ連との関係が急速に親密となった。

アメリカとの闘い

 当時ソ連は、平和共存路線を採っていたので、当初はキューバ支援に積極的であったわけではなかったが、1960年5月にソ連領内でアメリカの偵察機U2型機が撃墜されるという事件が起こり、米ソ関係が一気に悪化し、それがキューバとの軍事的提携の契機となった。同年9月、国連総会に出席するためにニューヨークに渡ったカストロは、高級ホテルで法外な費用を請求されたためやむなくハーレムの安宿に移り、そのホテルにフルシチョフの訪問を受け、友好関係を結んだ。国連での演説が終わるとアメリカはキューバの航空機を差し押さえたため、帰国できなくなったカストロは、ソ連提供のイリューシン18で帰国、ハバナには15万の民衆がカストロの帰国を歓迎した。カストロは出迎えた民衆に、「米国は冷たい敵意のある国である。ニューヨークは迫害の都市である」と述べた。<宮本信生『カストロ』1996 中公新書 p.49>

Episode 国連の演説最長記録

(引用)(1960年9月の国連総会)それはたしかにこれまでで最も記憶に残る総会での風景だった。戦闘服に身を固めたキューバ人が、フルシチョフの長い演説の中で彼らの革命に言及がある度に取り乱したように騒々しく歓声を上げた。ソ連の指導者自身も景気付けに大声を張り上げてマクミラン(イギリス首相)の演説を黙らせようとしたが、それに失敗すると片方の靴を脱ぎ、ドンドンと机を叩いて泰然としたイギリスの首相を妨害しようとしたのである。・・・そしてカストロ本人も演壇に立つと忘れがたい印象を残すことになった。「できるだけ短く終わらせるつもりだ」と聴衆に保証した後、彼はアメリカ帝国主義の罪悪に関して4時間半にもわたり長口舌をふるったのである。これは国連での最長記録である。・・・<ジョン=L=ギャディス『歴史としての冷戦』2004 赤木完爾/斉藤祐介訳 慶応義塾大学出版会 p.297>

アメリカのキューバ侵攻作戦

 1960年3月、アメリカ大統領アイゼンハウアーは国家安全保障会議において、CIA長官のアレン=ダレスの構想した「キューバで別な政府に権力を与える」ためのゲリラか活動の拠点を造ることを許可した。その計画に基づきグアテマラに基地を設け、亡命キューバ人を主とする戦闘人員の訓練を開始した。同年末のアメリカ大統領選挙では、民主党のケネディ候補は、アイゼンハウアーの対キューバ政策は生ぬるいと言って批判した。
ヒロン湾事件 1961年1月、大統領に就任したケネディは、キューバ侵攻作戦を実行に移し、まず上陸作戦を可能にするため、4月16日、キューバの数箇所の空港を爆撃した。アメリカは、爆撃機はキューバ空軍の標識を付けており、パイロットはカストロに反旗を翻したキューバ兵であると主張した。17日にはキューバ西部のカリブ海に面したヒロン湾に、上陸用舟艇で1500名の兵員が上陸した。ただちにキューバ民兵が応戦、カストロ自身もソ連製戦車に乗って現場に急行、水際での阻止をめざした。侵攻部隊がわずかでも拠点を確保し、そこで暫定政権を樹立して国際的承認を求めれば、アメリカがそれに応える形で本格的な軍隊を派遣してくる口実にされることを阻止しなければなあなかったからだ。激しい戦闘は3日間続き、キューバ側の勝利に終わった。侵攻側は1189名の捕虜、107名の死者を出し、キューバ側は161名の死者を出した。
(引用)このヒロン湾の闘いによってキューバ国民はカストロの背後にさらに団結を強化する一方で、社会主義への道を決定的なものにした。他方米国はその大国主義的傲慢さを内外に露呈するとともに、正義なき戦いに敗北することによってその対キューバ観は感情的なものとなり、今日に至っている。この敗北は現在もなお米国がキューバに対して理性的になり得ない最大の要因である。<宮本信生『カストロ』1996 中公新書 p.55>

社会主義宣言

 カストロはアメリカ軍がキューバ侵攻を企て、空爆を加えた翌日の1961年4月16日に開催された犠牲者追悼集会で「われわれは米国の面前で社会主義革命を達成し、この銃でその社会主義を防衛する」として、初めて社会主義宣言を発表した。こうしてキューバ革命は、独裁政治を倒して社会正義を実現しようというカストロの初期の動機から、社会主義社会建設という方向性に転換、あるいは成長していった。さらに同年12月のテレビインタビューで「私はマルクス・レーニン主義者でり、死ぬまでそうあり続けるであろう」と高言した。
カストロとキューバ共産党  カストロは蜂起当時、共産党員ではなかった。社会正義と平等社会の実現という理想主義者、潜在的社会主義者ではあったが、共産主義とは一線を画していた。キューバ共産党はすでに存在していたが、カストロの蜂起の主体ではなかった(カストロの弟ラウルは共産党員であった)。共産党はカストロの蜂起の途中から協力を申し出たが、カストロは慎重に対応した。カストロも当初は必ずしも社会主義を標榜するものではなかったので、4月、アメリカはカストロの勝利が独裁政治を倒し民主化をすすめるものとに歓迎してカストロを招待した。渡米したカストロはニクソン副大統領に面会し、「自分は共産主義者ではない」と表明した。1961年からカストロは革命の推進には統一戦線が必要であると認識し、自分の運動基盤である「6月26日運動」にキューバ共産党や革新グループを吸収していくことを目指すようになったが、それが一気に進んだのが、同年4月のアメリカCIAに支援された亡命キューバ人が反革命を目指してキューバに上陸し、キューバ革命軍に撃退された「ヒロン湾事件」であった。
 カストロが旧共産党を吸収して新しい共産党を結党したのは1965年であり、それも諸事情のため、第一回共産党大会が開催されたのは遅れて1975年のことであった。

キューバ危機

 1962年にはキューバを巡ってアメリカとソ連が核戦争一歩前までくるというキューバ危機が起こった。ソ連のフルシチョフ政権がキューバにミサイル基地を建設したことを知ったアメリカのケネディ大統領はキューバを海上封鎖し、両陣営は一触即発のにらみ合いに入り、東西冷戦期間中の最大の危機となった。この62年10月の「キューバ危機」は、第三次世界大戦、しかも核戦争の勃発につながるとして世界中に大きな不安を与えたが、両首脳の妥協が成立、直接衝突は回避され、ソ連はミサイルを撤去した。

ソ連との関係悪化

 この両首脳の妥協は、カストロには知らされていなかった。カストロはフルシチョフの勝手な妥協はキューバを見捨てることだとして激怒し、しばらくソ連との関係は冷え込んだ。そのころ中ソ対立が表面化していたため、中国との関係が強くなった。しかしソ連との経済的結びつきを無視することができず、フルシチョフ失脚後には両国関係は修復され、1968年のチェコ事件ではソ連を支持した。

非同盟主義

 アメリカとにらみ合いながらソ連・中国とも一線を画す独自路線を採るカストロは、70年代から「プロレタリア国際主義」を標榜し、アジア・アフリカ・ラテンアメリカの第三世界、非同盟諸国のリーダーとして積極的に動いた。1979年にはハバナで非同盟諸国首脳会議を主催している。カストロのプロレタリア国際主義はその同志であるゲバラの世界革命論に影響されたものであった。
アンゴラ左派政権支援 アフリカ諸国への支援は特に積極的であったが、その中でアンゴラの社会主義系民族運動への支援は多数のキューバ兵を派遣、武器を提供して徹底して行われた。アンゴラは1975年にポルトガルから独立したが左派と右派の激しい内戦となり、それに南に隣接する南アフリカが軍事介入し混迷していたが、キューバの支援によって左派は持ちこたえ、2002年にようやく停戦が成立した。

長期政権

 アメリカの経済封鎖は依然として継続しているキューバは、ソ連や第三世界との関係を良好にしておく必要があった。しかしその後、カストロ政権にとって、友好国ソ連の崩壊、国内経済の停滞など多くの試練が続いている。キューバ人の亡命も続いている。しかし、カストロは依然としてカストロヒゲといわれるヒゲと戦闘服で世界の注目をあび、現在に至るまで社会主義指導者として活動を続けている。さすがに近年は健康状態が危ぶまれており、最近も階段を踏み外したり、入院したりという状態である。2006年9月にはハバナで非同盟諸国首脳会議が開催され、病院からメッセージを送っている。現在は事実上引退し、実務は弟のラウル=カストロが取り仕切っている。

カストロ政権は何故倒れないか

 社会主義国ソ連が崩壊し、東欧諸国もすべて社会主義政権は姿を消し、中国は共産党政権が続くが経済は完全に資本主義化した。しかしキューバは、最近は経済の自由化を進めてはいるが、社会主義の旗印は降ろしておらず、カストロ政権は現在も続いている。社会主義国崩壊のドミノ倒しはキューバには及ばなかった。それは何故か。1980年代に外交官としてキューバで生活した宮本信生さんは、こう分析している。
  • ノーメンクラトゥーラの不在 ノーメンクラトゥーラとはソ連で存在した特権的共産党官僚。キューバでは平等主義が徹底され、官僚の不正は厳しく処分されている。またカストロ兄弟も常に軍服を着用し、住居も通常のものと変わらない。実生活は至って倹素である。
  • カストロのカリスマ性 カストロは国民の要望を敏感に把握し、巧妙で的確な演説で国民を指導してきた。小国でありながら大国と対等に渡り合ってきた。経済危機が続いても、徹底した医療や教育の平等を享受できるのはカストロの存在を抜きにしては実現しなかった。
  • 反共感情の不在と反米感情 キューバ危機後の一時期を除き、ソ連に対する悪感情はキューバでは育たなかった。それに対して、今もキューバを経済的、軍事的に敵視し、グアンタナモ基地を占拠しているアメリカに対する反発は消えていない。
  • 地政学上、体制上の要因 砂糖は現在も外貨獲得の有力な手段であるが、かつてのような依存度ではなくなっている。砂糖以外の農産物、畜産品の増産が進み、観光、医療、バイオテクノロジーなどの産業も盛んになっている。何よりも亜熱帯のキューバにおいては飢えと寒さによる恐怖は存在しない。人権擁護を標榜する反体制派が存在するか、彼らのほとんどが活動の拠点をアメリカに置いていて、キューバでは共産党の一党独裁が末端まで行き届いている。
<以上、宮本信生『カストロ』1996 中公新書 p.176-182>
 カストロ政権に対する不満が無いわけではない。しかし民主主義と平等主義が保障され、経済政策では自由度を増しながら社会民主主義の節度をまもっていくという国家運営は続いていくだろう。

引退・アメリカとの国交回復・死去

 2008年、カストロは国家評議会議長を退いて表舞台から退き、弟のラウル=カストロが就任した。ラウル=カストロはキューバ革命に兄と共に参加した、古参の革命家であり、社会主義を堅持する一方、現実的な柔軟姿勢も持ち、部分的な市場経済の導入に踏み切り、アメリカとの関係改善にも取り組んだ。
 アメリカ側にも民主党クリントン政権で芽生えたキューバとの和解は、共和党レーガン時代に「テロ支援国家」指定などで後退したが、民主党オバマ政権の登場によって劇的に動いた。2014年から始まった水面下の交渉により、2015年にはアメリカ・キューバは1961年から54年ぶりに国交を回復、両国関係は大きく転換した。そのような変化を待っていたかのように、2016年11月、カストロは90歳の生涯を閉じた。
 同年末のアメリカ大統領選挙では共和党政権が復活、翌年1月に発足したトランプ政権はキューバとの国交回復を見直すことを表明、トランプ政権はカストロ社会主義政権での人権抑圧がなおもキューバで続いているという見方をしている。しかし、冷戦時代とは大きく現実は動いており、ふたたびアメリカ・キューバがにらみ合うことは両国国民にとって益がないことは明らかだ。 → 現代のキューバ
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ノートの参照
第16章3節 ア.アフリカ諸国の独立
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宮本信生
『カストロ』
1996 中公新書