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アメリカの南北対立

アメリカ合衆国の独立後、1820年代から次第に明確になった、北部と南部の産業構造の近いからくる対立。1865年に南北戦争へとつながった。その後も工業化が進んだ北部と綿花プランテーションを基盤とした南部の違いが続いたが、第二次世界大戦後はその違いは徐々に希薄になっている。

アメリカの南北対立

 アメリカ合衆国は、東海岸の13植民地の独立から始まり、次第に西部に領土を拡張していった。その過程で、北部と南部では、その産業のあり方などから、顕著な違いが明らかになっていった。
 アメリカ合衆国憲法では中央政府として連邦政府がつくられたが、北部は連邦政府の権限を拡大し統一を強め、統一された経済制度のもとで国内需要を高めるため、連邦主義の立場が優勢であった。それに対して、南部の諸州は、連邦政府の権限を制限し、州の主権を守ろうとする州権主義を主張した(反連邦派)。
 貿易政策では、北部はイギリス製工業製品との競争から国内産業を守るため、保護貿易(イギリス工業製品に高関税をかける)を主張し、南部は主産物の綿花の輸出を増やすため自由貿易を主張した。
 → 南北戦争

北部

自立した北部の経済

 独立後、アメリカ北部では、造船や製材、皮革、海運業、漁業、穀物栽培を中心とする農業や商業など、さまざまな産業が興隆していた。これらの産業は、ある意味でイギリスと競合していた。もともとアメリカは、工業製品を主にイギリスから輸入していた。世界に先駆けて産業革命を経験し、世界の工場と呼ばれたイギリスは、安価な工業製品を生産できたからである。
 ところが19世紀初め、ヨーロッパでナポレオン戦争が始まり、イギリスはロシア、プロイセンなどとともにフランスと戦争状態となり、ナポレオンが大陸封鎖令を出してイギリスを海上封鎖したのに対抗して、イギリスもヨーロッパを海上封鎖するという措置に出た。そのためヨーロッパとの貿易を遮断されたアメリカは、イギリスとの間でアメリカ=イギリス戦争(1812年戦争)が勃発した。このためイギリスから工業製品が入ってこなくなったので、ニューイングランドや中部植民地を中心に繊維、製材、造船と云った工業が発達し、流通や金融も発展した。1820~30年、北部では交通網が整備され、空前の開発ブームとなった。そのような北部の事情から、北部の主として産業資本家は、貿易政策では自国工業生産の保護のために保護貿易を主張した。
 さらに19世紀前半から半ばには、人口の都市への集中によって安価な労働力が増え、経済の多様化も進み、イギリスとの貿易に依存しない、比較的自立した工業発展をすることができた。そして、黒人奴隷を解放して労働力の供給源とし、彼らが自由に商品を消費することによって国内市場の拡大すると考え、黒人奴隷制には反対を主張した。

Episode ヤンキーの意味

 日本では“ヤンキー”というとアメリカ人のことと思っている人が多い。最近では不良っぽい男の子のことをさす俗語として定着した。しかしそれらはいずれも本来のヤンキーの意味からずれている。ヤンキー Yankee は南北戦争の時に南部を荒らし廻った北軍のならず者に対して、南部人が軽蔑をこめて言ったもので、アメリカ北部人のことだ。さらにその源流は北部のニューイングランド植民地に入植した人々のことを指す言葉だった。
(引用)ちなみに、この初期のニューイングランド移住者をさす「ヤンキー」という言葉は、17世紀後半に、北アメリカで国籍不明の「キャプテン・ヤンキー」という海賊が現れたことに始まり、次第にそれが「ニューイングランドの人」という意味で使われるようになったものだ。当時、英国人がニューイングランドの人々を田舎者呼ばわりして用いた言葉なのである。「ニューイングランドの田舎者」という“Yankee Doodle”の歌では、「ヤンキーは町にくりだした/子馬に乗って/帽子につけた羽飾り/ヤンキーはそれを<マカロニ>と言う」とヤンキーの無知を嘲笑っている。田舎者・貧乏・下品などのニュアンスをこめて、南部人もニューイングランド人を指して使っていた。<ジェームス・バーダマン『ふたつのアメリカ史』2003 東京書籍 p.22>
 アメリカ南部のミシシッピー出身で、現在早稲田大学で英文学を教えているハーダマン教授は、30年ほど前の来日したての頃、日本人の若者から“ヤンキー、ゴーホーム!”と罵声を浴びせられ、南部出身の自分がヤンキーと言われたことにビックリした、と述べている。ヤンキーとはアメリカ人のすべてを言うわけではなく、北部人、しかもその中のニューイングランド人を意味する、もともとは田舎者などを意味する蔑称なのです。もっとも愛称としてニューヨークの野球チームの名称になっているのはみな知っているでしょうね。日本でどうして不良っぽい若者をヤンキーというようになったのかわからないが、南部人からみた北部人のイメージから似ていないこともない、とバーダマン教授は言っています。<バーダマン『前掲書』あとがき> → 南北戦争の項を参照

南部

イギリスに依存した南部の経済

 19世紀、イギリスの繊維産業を支える原材料として、綿花が重要視された。温暖な南部は綿花の栽培に適していたため、1820年代以降、南部の内陸部では綿花生産が広がり、綿花栽培に特化したプランテーションによるモノカルチャー経済構造が支配的となった。アメリカ南部の綿花生産量が増大すると、それを支えるために、多くの黒人奴隷制が必要となり、その数も1790年には70万人だったものが、1860年には400万人へと、6倍近くに増えていた。
(引用)アメリカ南部からイギリスの綿織物工業に供給された原料の綿花は、その75%を占めていた。イギリスにとって綿花生産地の南部派不可欠の存在であり、アメリカ南部にとってもイギリスとの貿易がその経済を支えるもっとも重要な柱だった。そのため、南部のプランターは、貿易政策では自由貿易を主張した。
 たとえばこの時期、綿花栽培地域は、時間とともに次第に南西部へ移動していったが、イギリスの金融資本家は、南部のプランターに対して、耕作地の移動や移動先での土地開墾などのために、資金調達や信用貸しを行った。また、イギリスのジェントリーや貴族に憧れていた南部の大プランターは、イギリスから高価な調度品や奢侈品を輸入し、子息をイギリスに留学させるために、彼らから融資や協力を受けることも多かった。<杉田米行『知っておきたいアメリカ意外史』2010 集英社文庫 p.33>
 しかし、綿花の大量生産は、その価格の下落をもたらす。すると大プランターはさらに増産しようと耕地を拡大しようとする。その労働力としての黒人奴隷と、資金提供先としてのイギリス金融資本への依存度がますます強くなるという結果をもたらした。
 南部はまさに「綿花王国(コットンキングダム)」であったが、他に砂糖(ルイジアナ)、米(サウスカロライナ、ジョージア)、タバコ(ケンタッキー、テネシー)も重要な農産物であった。
南部諸州の地域差 南北戦争前の南部15州は旧南部(オールドサウス)と云われるが、それにも地域差がある。
高南部(アッパーサウス)7州 デラウェア、メリーランド、ヴァージニア、ノースカロライナ、ケンタッキー、テネシー、ミズーリ(奴隷州であるが、奴隷人口は少ない)
低南部(ロアサウス)8州 サウスカロライナ、ジョージア、アラバマ、ミシシッピー、ルイジアナ、アーカンソー、フロリダ、テキサス(奴隷人口がいずれも40%を越える。)
 低南部のうち、サウスカロライナ、ジョージア、アラバマ、ミシシッピー、ルイジアナの5州を「深南部(ディープサウス)」といい、綿花栽培の中心地帯で「コットンベルト」ともいわれる。南北戦争の南部を牽引した諸州である。  → アメリカ連合国  南北戦争

南部農村の変貌

 南北戦争に際して奴隷解放が実現し、制度のとしての黒人奴隷制はなくなった。しかし解放された黒人は、経済的な自立をはかる土地が与えられることもなかったので、その多くは綿花プランテーションに留まりシェアクロッパー(分益小作人)となっていった。法的には平等になったにもかかわらず、貧富の差は解消されなかったことは、南部における黒人差別の問題を生み出す背景となった。白人人種差別主義者がクー=クラックス=クランを組織して黒人を襲撃するなどの事態も起こるようになった。
 シェアクロッパーによる綿花プランテーション経営という南部農村の形態は、その後も長く続いたが、1920年代のアメリカ資本主義の繁栄の時代になると、南部農村は取り残され、貧困がますますひろがり、さらに1929年の世界恐慌によって深刻になった。
 1933年から民主党フランクリン=ローズヴェルト大統領によるニューディールが始まり、農業振興策とともに南部にとって需要な意味のあるテネシー川流域開発が始まった。この事業によって、耕地の河川浸食が防止され、森林開発が進み、また雇用が創出されて南部経済には大きな効果が生まれた。しかし、ニューディール政策は農業の集約化と機械の導入を進めたので、企業的大農場にとって有利であり、小農民の救済を意図していたのではないので、それまでのシェアクロッパーに依存していたような小農園はこれを機に姿を消していった。この流れは第二次世界大戦後も続いたので、1970年代までに南部農業は大きく姿を変え、農業従業者人口は激減し、機械化された企業的大農園が主流となるという大きなは変貌を遂げた。
 また1950年代からようやく公民権運動が盛んになって、政府を動かすことによって徐々にではあるが、黒人差別の解消に向かっているが、21世紀になった現在も完全に問題が解決された状況には至っていない。

南部から見たアメリカ

 しかし、現在の南部は工業化が進み、むしろアメリカにおける技術革新の多くが南部でうまれるなどの変化が起こっており、少なくとも「工業の盛んな進んだ北部」に対して「農業を中心とした遅れた南部」という見方はアメリカの中では無くなっている。私たちの中にも残っている古い南部観は改めなければならなくなっているようだ。現在では南部を「サンベルト・サウス」と呼ぶことも多くなっている。
 現在、早稲田大学のアメリカ文学を講じている教授のジェームス=バーダマン氏は、南部のミシシッピ出身で、自らが育った南部から見たアメリカの歴史と現代の南部について『ふたつのアメリカ史』で丁寧に説明している。北部から見がちな私たちのアメリカに対する認識のゆがみを修整してくれる。<ジェームス・バーダマン『ふたつのアメリカ史』2003 東京書籍>

北部と南部、民主党と共和党

 バーダマン氏の著作を、世界史の理解に沿って要約すると、次のようになるのではないだろうか。
 南北戦争から1920年代ごろまでは、アメリカ北部は工業が発達しているので起業家や勤労者中心で政治的には共和党支持、そして共和党は奴隷制度の拡大反対などを唱えた政党から産業資本家の利益を代表する政党へとその性格を明確にしていった。それに対して、南部は綿花プランテーションの白人経営者が黒人奴隷制維持を主張する民主党の支持者、そして民主党は徐々に北部にも支持を伸ばし、労働者層にも支持者を延ばしていった。そのような色分けであったものが、世界恐慌・ニューディール政策・第二次世界大戦後の黒人公民権運動の進展などの激変を経たことによって大きく変化している。北部工業地帯は繁栄の時代が終わり取り残されており、不満を持つ白人労働者層は民主党を離れて共和党支持に変わり、南部では農村中心だった時代は過去のことで、今や豊かな資源と温暖な気候に恵まれて人口も増え、技術革新が進んでおり、中間層・黒人層はリベラルな民主党を支持するようになっている、と大まかに言える。もとよりこのようなくくりは細部で食い違いがあると思われるが、アメリカの北部と南部の違い、民主党と共和党の変化、などを考える際の固定的な見方を脱するためにも押さえておくべきことと思われる。<2022/10/22記>