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保護貿易主義/保護関税政策

自国の産業を保護するため外国からの輸入品に高関税を掛けたり数量制限をする貿易政策。自由貿易主義と対立する。

 外国との貿易に際して、自国の産業を保護するために、輸入品に対して高率の関税を賦課したり、数量制限などを設ける政策。主権国家形成期の絶対王政諸国が採った重商主義政策が保護貿易主義の最初の形態である。

イギリスの自由貿易主義

 イギリスは特許会社である東インド会社に貿易を独占させるなど典型的な重商主義を展開していたが、イギリス革命・産業革命を経ることによって、産業の発展には保護主義はかえって有害であると説くアダム=スミスリカードらの自由貿易主義が台頭し、次第に政策を転換していった。
 イギリスでは19世紀前半には地主保護のために穀物法が制定されたが、それらの保護主義は、1846年の穀物法廃止、49年の航海法の廃止など一連の自由主義改革によって、保護貿易主義は後退した。こうしてイギリスは自由貿易主義を率先して拡大し、フランスもナポレオン3世の時代に英仏通商条約を締結して自由貿易主義に転換した。

リストの保護貿易主義

 工業化に立ち後れたドイツであったが、1834年1月、に発足したドイツ関税同盟で域内の関税を廃止し、対外的な統一関税を設定して経済の一体化を図った。ドイツの経済学者リストは後進工業国においては保護貿易が必要であると主張し、保護貿易主義を理論づけした。その学説はアダム=スミスらの古典派経済学に対して、各国の歴史的背景の違いを重視したので歴史学派経済学と言われた。  ドイツは1840年代に鉄道建設を中心に重工業部門での産業革命を開始、ビスマルクによって主導されたプロイセンによって国家統一を遂げ、1871年にドイツ帝国を成立させたことで工業化が進むと、自由貿易政策に転じた。

経済恐慌と保護貿易

 19世紀のヨーロッパの資本主義経済は、海外に多くの植民地を獲得した列強において急速に成長したが、1870年代に、初めて「不況」を体験することになった。それは1873年5月のウィーンでの株式の暴落から始まった「大不況」であり、これは後に、最初の世界的恐慌であったと分析されるようになった。この大不況によって中小企業は倒産して大企業に合併されるという、資本の独占と集中が行われ、19世紀末の帝国主義の段階へと移行していくが、その過程で資本主義列強の中には自国産業を守るために保護貿易政策に転じる者も現れた。その代表がドイツ帝国のビスマルクであり、1879年保護関税法(ドイツ)を制定している。ドイツ帝国は保護関税のもとで重工業を中心とした産業化を達成したが、其の鄭国主義的世界政策は、イギリス、フランスと衝突し、第一次世界大戦の要因となっていく。

アメリカの保護貿易主義

 イギリスから独立したアメリカ合衆国も、特に工業地帯である北部はイギリス製品からアメリカ産業を守るため保護関税政策を主張し、共和党の政策となった。アメリカは1861年に起こった南北戦争で北部が勝利してから、保護主義を採るようになり、アメリカの外交政策の孤立主義とあいまって、アメリカの基本姿勢として維持された。一方民主党は自由貿易主義を採り、政権を取った1910年代にはそれを実現した。

世界恐慌と保護貿易の隆盛

 アメリカでは、1920年代の共和党時代の経済繁栄の行き過ぎから1929年に株価の大暴落が起こった。ここから世界恐慌が始まると、フーヴァー政権はスムート=ホーリー法という高関税を認める立法を行い、保護主義を明確にした。それに対抗して世界各国は保護主義に急速に傾き、また植民地や勢力圏を有する強国はそれらの地域を囲い込んでブロック経済をつくりあげた。共和党に代わって成立したフランクリン=ローズヴェルト民主党政権は保護主義を転換させ、互恵通商方式をとろうとした。しかし、イギリスは大戦間の1932年には保護関税法(イギリス)を制定して保護貿易主義に転じ、自治領産品以外にはいずれも高率の輸入税を課した。さらに1932年のオタワ連邦経済会議によってイギリス帝国特恵関税政策に拡大され、スターリング=ブロックといわれるイギリス通貨ポンドを基軸通貨とするブロック経済圏を構築した。

第二次大戦後から現在まで

 このような世界恐慌後のブロック経済が、第二次世界大戦の要因の一つとなったことを反省し、戦後の国際社会はアメリカの互恵通商主義を発展させ、1948年1月に「関税と貿易に関する一般協定=GATT」を発効させ、自由貿易の原則を打ち出した。こうして第二次世界大戦後には保護貿易主義の克服が課題とされたが、戦後のアジアアフリカの民族独立の潮流の中で、南北格差の問題が明らかになり、新興国のあらたな貿易保護の動きが出てきた。さらにアメリカ主導の世界経済の枠組みが崩れ、日本やドイツの急成長から、多極化が進み、また、1980年代末の社会主義圏の崩壊は、世界経済のグローバリズムを一段と推し進めた。この間、ウルグアイ=ラウンドなどの多角的交渉が進められ、各国間の貿易摩擦の解消にあたってきた。さらに中国が改革開放に転じて世界の経済大国として登場してきた。このように20世紀末から21世紀にかけて、戦後の世界経済の枠組みは大きく変動し、GATTは世界貿易機関(WTO)に改変されるなど、対応に迫られている。現在、グローバリズムや新自由主義の横行に対して、抵抗する枠組みとして保護貿易主義の復権の提唱も現れている。
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