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ブロック経済

世界恐慌に直面した帝国主義諸国がとった自衛策。有力国が自由貿易から保護貿易に転じ、それぞれが市場・原料供給地などを囲い込む閉鎖的な経済圏を設けた。その利害の対立が第二次世界大戦の要因となった。

 1929年の世界恐慌に見舞われた帝国主義各国は連鎖的な輸出不振に陥った。各国はまず各国通貨の平価を切り下げ(平価とは各国の貨幣の価値基準のことで、通常は1単位の金含有量で表される)を行って輸出を増やそうとした。この平価切り下げ競争によって為替相場は激動して、貿易はかえってますます減少した。その中で、特に「持てる国」と言われる国内資源や植民地を有している諸国は、それぞれ経済圏(ブロック)を作って生き残ろうとした。そのような経済体制が「ブロック経済」であり、主要国の決済通貨を軸としてグループを作り、グループ内の関税を軽減して域内通商を確保し、域外からの輸入には高関税をかけて自国産業を保護するという保護貿易政策をとった。
 第一次世界大戦前から世界経済は自由貿易主義に支えられて発展してきたが、世界恐慌はその成長を停滞させた。その中で、アメリカのフーヴァー大統領が1930年6月スムート=ホーリー法を制定し高関税による保護貿易主義に転じ、各国が対抗上保護貿易策をとって経済ブロックの形成に走った大きな転機となった。

ブロック経済の例

スターリング=ブロック(ポンド=ブロックともいう) イギリスは1931年、大英帝国から英連邦という名称に切り替えて、旧植民地グループを再編しイギリス連邦を発足させていた。1932年7月に連邦の自治領をカナダのオタワに招集し、連邦経済会議を開催して特恵関税によって結びついた関税ブロックをつくった。さらにイギリスとの経済関係の強い地域を加えて、貿易をポンドで決済する、ポンドを基軸とした通貨ブロックとしてスターリング=ブロックを作った。
・ドル=ブロック アメリカ合衆国を中心とした南北アメリカ大陸を一つのドル経済圏として形成した。
フラン=ブロック/金ブロック フランスを中心とした、金による支払い(金本位制)を通じて結束した西ヨーロッパ諸国グループ。オランダ、ベルギー、スイスで構成。金本位制の維持をめざしたが、イギリス・アメリカの離脱、平価切り下げによって競争力を奪われ、1936年9月までにはそれぞれ金本位制を離脱してブロックは解体される。

「持たざる国」のブロック経済

 これらの「持てる国」に対抗する、「持たざる国」と自己を規定したドイツ、イタリア、日本は「自給自足圏」を確保するために軍事的侵略の道を選んだ。ドイツは排外主義をかかげるナチスが権力を掌握すると、「生存圏」を東ヨーロッパへ拡大することをめざした。イタリアはファシスト政権の下で、北アフリカからバルカン半島さらに中近東への野心を持った。日本は「大東亜共栄圏」を構想したが、それはアジア市場に「円ブロック」を築くねらいであった。

ブロック経済の影響

 1929年~1933年の世界恐慌期に、資本主義主要国がブロック経済政策を採ったため、世界貿易はこの4年間に7割が減少、その結果、欧米と日本で数千万人の失業者が出た。そのような社会不安を背景に、イギリス・フランス・アメリカの「持てる国」グループと、ドイツ・イタリア・日本の「持たざる国」の勢力圏をめぐる対立が深刻化し、ソ連社会主義政権に対しては双方とも警戒心を強めながら接近を模索するという複雑な外交関係の進展を経て、最終的に連合国と枢軸国とに二分されて第二次世界大戦に突入した。従って、帝国主義諸国がブロック経済政策を採ったことが世界大戦をもたらした直接的要因と言うことができる。
 1933年6月にはロンドン世界通貨経済会議が開催され、世界恐慌からの脱却を目指し、各国通貨の安定がはかられたが、アメリカの協調が得られず、失敗した。

第二次世界大戦後のブロック経済の否定

 このように帝国主義諸国が経済ブロックを作って抗争したことが第二次世界大戦をもたらしたことを反省し、戦後国際社会の原則として排他的経済ブロックの形成および保護主義政策を防止し、自由貿易を推進する必要があるという認識が生まれ、1947年に「貿易と関税に関する一般協定(GATT)」が制定(48年発足)され、貿易の自由化、関税の軽減に関する多角交渉をが行われることになった。この体制は1971年のアメリカのドル=ショックなどを機に転換し、またGATTは1995年に世界貿易機関(WTO)に改組、強化された。
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