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イギリス連邦/英領コモンウェルス

1931年のウェストミンスター憲章で成立した、イギリス本国と自治領、植民地を結ぶ緩やかな連合体。

 イギリスは17世紀から広大な海外植民地を獲得し、18世紀後半には植民地帝国として繁栄し、第一帝国ともいわれた。  19世紀後半からの帝国主義になると、イギリス(この時期はイギリス第二帝国と言われる)ではインドなどの非白人地域の植民地に対しては直接支配を強めながら、白人入植者が主体となった地域は自治領(ドミニオン)として実質的な独立国とするようになった。自治領諸国に対しては、1887年からはイギリス植民地会議、1907年からはイギリス帝国会議としてイギリス本国とのつながりの維持に努めていた。
 第一次世界大戦後には本国と自治領との関係は、対等な関係と意識されるようになった。そのような傾向を受けて、1926年の帝国会議で提起され、それを受けたイギリス元首相バルフォアを委員長とした委員会で討議された結果、バルフォア報告書がまとめられ、その報告が1930年の帝国会議で承認され、翌1931年ウェストミンスター憲章として発せられた。それによって成立した「イギリス連邦」(イギリス領コモンウェルス)は、イギリス国王に対する共通の忠誠心によって結ばれている連合体ではあっても、ゆるやかな国家-植民地連合体であった。

イギリス連邦の構成国

 はじめ自治を認められていたのはカナダ連邦オーストラリア連邦ニュージーランド南アフリカ連邦アイルランド自由国ニューファンドランド(1713年からイギリス領。カナダとは別個な自治領植民地で、1949年にカナダ連邦に加入)の6ヵ国である。インドなど直轄植民地はそのままであった。

「イギリス連邦=コモンウェルス」という用語は要注意

 日本では1931年に成立したこの国家連合を「イギリス連邦」と言っているが、英語では、the British Commonwealth of Nations という。つまり直訳すれば、「イギリス領コモンウェルス」であり、コモンウェルスとは「公共の福祉、みんなの富」というのが本来の意味で、かつてピューリタン革命で成立した共和国もコモンウェルスと言っていた。イギリス連邦の場合は、連邦政府や連邦議会をもつのではなく、結びつけているのは「イギリス国王に対する忠誠」という古めかしい観念しかなく、ゆるやかな国家連合にすぎない。そこで現在ではそのまま「英領コモンウェルス」といわれることも多く、そのような国際体制を「帝国=コモンウェルス」と定義することが最近なされている。その説明は次のようなものである。
(引用)(イギリス)帝国を最終的な解体へと導く過渡的な役割を担ったのは、1926年のバルフォア報告書と31年のウェストミンスター憲章によって成立した「英領コモンウェルス」だった。それはイギリスのほか、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ、ニューファンドランド、アイルランドの六つの「ドミニオン」(白人自治植民地)で構成され、「地位において平等であり、国内あるいは対外問題のあらゆる点において他に従属しない、イギリス帝国内の自治共同体」と定義された。これまで日本では「イギリス連邦」と訳されてきた「英領コモンウェルス」は、そのメンバーに共通の立法、行政機構を持たず、字義通り「連邦」を呼びうる最小限の条件さえ備えていなかった。メンバーを結びつけていたのは、イギリス国王の「王冠に対する共通の帰属心」だけだったからである。
 1926年からイギリス帝国は、旧来の「帝国」と新たな「英領コモンウェルス」とからなる複合的な「帝国=コモンウェルス体制」Empire-Commonwealth 」へと再編された。独立志向を強めるドミニオンを英領コモンウェルスにつなぎとめ、また民族的ナショナリズムが高まるインドなど「帝国」内の植民地に対しても、条件しだいでは将来「ドミニオンの地位(ステータス)」を与えると約束することで、帝国離脱を食い止めることが期待されていた。<川北稔・木畑洋一編『イギリスの歴史―帝国=コモンウェルスの歩み』2000 有斐閣アルマ p.170-171>

世界恐慌とイギリス連邦

 イギリス連邦は世界恐慌に対応して、ブロック経済政策をとる基盤となり、1932年7月のオタワ連邦会議ではイギリス連邦加盟国による特恵貿易体制が作られ、さらに連邦以外の諸国も加えてポンド経済圏(スターリング=ブロック)が成立した。イギリスにとって、イギリス連邦は世界恐慌のなかで生き残るための閉鎖的な経済共同体として期待されることとなった。

現在のコモンウェルス

 1944年にはイギリス連邦(the British Commonwealth of Nations )の名称から British が除かれ、単にコモンウェルスとのみ呼ばれるようになった。これは、カナダとオーストラリアが二度の世界大戦に参加することで人的、資源的にも大きな貢献をしたことから地位を向上させ、相対的にイギリスの地位が低下したことを示している。また戦後、アイルランド共和国は1949年に離脱した。
 大戦後もイギリス連邦はイギリスとの経済的結びつきが強く、それがイギリスのEEC不参加の理由となっていたが、次第にEECとの経済格差が開いた。次第に経済的結束も弱まり、73年にはイギリスのEC加盟したため、イギリス連邦(コモンウェルス)の経済的意味はなくなった。それでも現在は54ヵ国が加盟している。
「コモンウェルス」という名称 日本では「英連邦会議」といっているが、その正式名称は現在では the Commonwealth である。このことについては次の指摘がある。
(引用)コモンウェルス/コモンウィールとは近世の公共善をめぐるキーワードであり、19世紀末には社会主義共同体を示す語であった。これを20世紀なかばの帝国/国際秩序を模索するエリートは巧妙に横領したのである。<近藤和彦『イギリス史10講』2013 岩波新書 p.254>
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川北稔・木畑洋一編
『イギリスの歴史―帝国=コモンウェルスの歩み』
2000 有斐閣アルマ