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ニューファンドランド

北米大陸東岸、現在のカナダの一部となっている大きな島と付近一帯をいう。1497年、イギリスのカボットが到達。タラ漁の漁場として重要。16世紀以来フランスが進出、スペイン継承戦争=アン女王戦争の結果、1713年、ユトレヒト条約でイギリス領となる。後に自治領となる。

ニューファンドランド島 GoogleMap

カボットの到達

 ニューファンドランド New foundland は、現在のカナダの東端にある大きな島、ニューファンドランド島とその対岸の本土のラブラドル地方の総称。現在はカナダの一州。1497年にイギリスの派遣したジェノヴァの商人カボット(イタリア人のカボート)が、北アメリカ大陸の北側を抜けてアジアに至るルートを探すために北大西洋を西に航海してこの地に到達、ニューファンドランド、つまり“新しく見いだされた土地”と言われるようになった。

タラ漁場 グランド・バンク

 ニューファンドランド島の南東の沖合の大陸棚はタラの豊富な漁場で、そこではすでにビスケー湾に面したスペインのバスク地方から沢山のバスク人漁民がやってきてタラ漁をしていた。この漁場はグランド・バンクといわれ、現在も世界で最も豊かな行状のひとつとなっている。1500年以降は、大量の漁船団や捕鯨船団が毎年、グランド・バンクに向かうようになった。それから半世紀後には、イギリスのブリストルの船団は冬にポルトガルに行って塩を手に入れ、それからニューファンドランドに渡ってタラ漁をし、タラを積んでポルトガルに戻り、ワインやオリーブ油やさらに多くの塩を積んでブリストルに帰った。
 この新大陸の一部は入植地としてより、沖合のタラ漁場が重要な資源とされ、イギリス以外にもスペイン(バスク人)、ポルトガル、フランスの漁民が競って操業するようになり、そのための寄港地が作られた。この地をイギリスが植民地であると宣言したのは1583年であり、イギリスの最初の海外植民地となった。1602年にはタラを追った船がケープ・コッドを回り、新大陸(後のニューイングランド)を遠望した。しかし冬を越えるのは困難と考えて上陸せずブリストルに戻った。1620年のピルグリム・ファーザーズの北アメリカ定住よりも前のことだった。

英仏の抗争

 しかし、やがてイギリスに対抗してフランスもこの地に進出した。16世紀にはカルティエ、次いで17世紀にはシャンプランなどフランス人のカナダ探検があいつぎ、この地もフランス植民地カナダに組み入れられた。イギリスが正式にこの地を領有したのは、スペイン継承戦争と並行して起こったフランスとの植民地戦争であるアン女王戦争に勝って、その講和条約として1713年に締結されたユトレヒト条約によってであった。

カナダの一部となる

 その後、カナダとは別個のイギリスの自治領となり、イギリス植民地会議イギリス帝国会議にも参加し、1931年のウェストミンスター憲章によって独立した国家としてイギリス連邦の一員となった。しかし、第二次世界大戦後の1949年に、カナダ連邦に加わったので、現在は国家としては存在しない。
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