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ニクソン

アメリカ合衆国第37代大統領(1969年就任)。ベトナム戦争を拡大、収束に苦しみ、中国と接近。また財政難に苦しみ金とドルの交換停止に踏み切る。1974年、ウォーターゲート事件で任期満了を待たず辞任した。

 Richard Nixon は第二次世界大戦後のアメリカ合衆国共和党の保守派として活躍した政治家。まず1947年に上院議員となり、マッカーシズムの時流に乗り、反共の闘士として知られ、1953年にアイゼンハウアー大統領の副大統領となった。1959年には副大統領として訪ソし、フルシチョフと台所論争(アメリカの電化された家庭での消費生活を自賛、フルシチョフが反論した)を展開したことは有名。
 1960年の大統領選挙では民主党のケネディに敗れたが、次のジョンソン政権がベトナム戦争を本格化させ、泥沼化するなかでベトナム反戦運動が激化し、1968年のキング牧師の暗殺、民主党のロバート=ケネディ候補の暗殺という混乱の中で行われた大統領選挙で、民主党ハンフリーを破り当選した。

ベトナム戦争を拡大

 1969年1月大統領に就任するとキッシンジャーを外交問題特別補佐官に任命し、6月8日、ベトナムの米軍を8月までに段階的に撤退させることを表明、さらに1969年7月25日、外交方針の原則としてニクソン=ドクトリンを発表、海外への過度な軍事介入の抑制に転じ、対共産圏戦略で同盟諸国の肩代わりの強化を要求した。
 しかし、ベトナム和平のためのパリ和平会談ではベトナム側との交渉が進展せず、戦争は膠着状態が続いた。和平交渉を有利に展開させることを狙ったニクソン政権は、1970年4月にはカンボジア侵攻1971年2月にはラオス空爆を行って北ベトナムのベトコン支援を断たとうとした。こうして、ベトナム戦争はベトナムだけではなく、インドシナ全域に戦線を拡大させることとなった。

ドル=ショック

 しかしベトナム戦争の経済的負担のつけは厳しく、アメリカ経済は深刻な危機に陥った。財政難に陥ったことが要因となってドルが下落し、固定相場制の下で金の流出が続いたため、ニクソンは1971年8月、ドル防衛策として金とドルの交換停止に踏み切った。これはアメリカとの貿易に依存していた日本など多くの国に衝撃を与え、ドル=ショック(ニクソン=ショック)と言われた。これによって世界経済をアメリカのドルが支え、ドルを基軸通貨とするブレトン=ウッズ体制は崩れ、世界経済は変動相場制に移行すると共に、アメリカ一極体制から、西ヨーロッパ(ドイツ)・日本を加えた三極構造へと移行する。

電撃的中国訪問

 ベトナム戦争の有利な終結を模索するニクソン大統領の下で、キッシンジャー特別補佐官は積極的な外交を展開、1972年2月は電撃的にニクソン訪中を実現させ国交回復の道筋をつけて世界を驚かせた。ニクソンの狙いは中国と結ぶことで北ベトナムに圧力を加えることであり、中国の毛沢東も、長引くプロレタリア文化大革命中ソ対立の打開の見通しがない中、アメリカとの接近を歓迎したのだった。

デタントの動き

 70年代、世界的な動きは緊張緩和(デタント)へと向かい、1972年にはニクソン自身がモスクワを訪問してブレジネフと会談し、1972年5月26日戦略兵器制限交渉(第1次)(SALT・Ⅰ)に最終的に合意し、署名した。

ベトナム撤退

 ベトナム戦争ではカンボジア侵攻も効果がなく、南べトナム解放民族戦線の攻勢がますます激しくなり、国内のベトナム反戦運動も続いていた。ニクソンは、パリ和平会談での和平実現に踏みきり、ようやく1973年1月27日ベトナム(パリ)和平協定を締結、ベトナムから1973年3月29日までにアメリカ軍を撤退させた。しかし、インドシナではベトナムの南北の内戦がさらに続き、カンボジア内戦ラオス内戦、さらに中越戦争と混迷が続くことになる。

ウォーターゲート事件

 1972年6月17日、次期大統領選挙運動中に、民主党本部に侵入して逮捕された者が、ニクソン陣営による盗聴目的であったことが発覚した。1974年までにこのウォーターゲート事件にニクソン大統領本人の関与が明らかになり、議会による大統領弾劾裁判が必至となった。やむなくニクソンは1974年8月8日、国務長官キッシンジャーに辞任届を提出、任期途中で辞任した。アメリカの大統領で任期途中に辞任したのはニクソンが初めてであった。ニクソン辞任に伴い、憲法の規定により、副大統領のフォードが昇格し、大統領に就任した。

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