印刷 | 通常画面に戻る |

門戸開放宣言/門戸開放・機会均等・領土保全

1899年にアメリカ国務長官ジョン=ヘイの名で発表した、中国に関する門戸開放・機会均等の原則を求めた宣言。翌1900年に出された領土保全の原則とあわせて、ヘイの三原則と言われた。中国進出が遅れたアメリカが、アジア市場への割り込みを策したもの。

 アメリカは1860年代の南北戦争のため、中国大陸への進出が遅れたが、1898年に米西戦争の勝利によってフィリピンを獲得、そこを足場に中国に進出しようとした。しかし、すでに1898年、イギリス・フランス・ドイツ・ロシアが相次いで租借地を設けるなど、中国分割が進んでいた。そこで1899年9月にアメリカは国務長官ジョン=ヘイが声明を発表し、清国において通商権・関税・鉄道料金・入港税などを平等とし、各国に同等に開放されるべきであると主張した。この門戸開放機会均等の2原則に加え、さらに翌1900年、ヘイは清国の領土保全の原則を宣言した。この三原則を「ヘイの三原則」といい、さらにアメリカ合衆国の中国に対する外交原則を門戸開放政策 Open Door Policy という。門戸開放政策は以後アメリカのアジア対外政策の原則的な要求となり、ロシア・日本の中国大陸への進出に対してもこの原則を掲げて反対した。

中国を巡る日米の駆け引き

 第一次世界大戦が勃発し、日本は中国に対して山東省でドイツ権益の継承などを二十一カ条の要求として突きつけると、アメリカとの調停が必要となり、1917年11月、特使石井菊次郎を派遣して、国務長官ランシングと協議させた。ランシングは、中国の門戸開放・機会均等・領土保全を尊重することを条件に日本の山東省に対する特殊権益を認めた。この石井・ランシング協定は、もともと矛盾する内容であるが、曖昧な表現をとることによって、アメリカは中国における日本との対立を避け、ヨーロッパでの世界大戦への参戦を可能にしたのだった。

ワシントン会議

 従って世界大戦が終わると、アメリカはイギリスとともに日本の中国への勢力拡大を警戒し、ワシントン会議で日本に迫り、九カ国条約によって中国の主権尊重・領土保全を約束させた。これによって日本は山東省権益を放棄(山東問題の解決)し、石井・ランシング協定も破棄された。
 → アメリカの外交政策 アメリカ帝国主義
印 刷
印刷画面へ