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石井・ランシング協定

第一次世界大戦中の1917年に成立した、アメリカは日本の山東権益を承認し、両国は中国の領土保全・門戸開放などを宣言した協定。しかし、大戦後、中国を巡る両国の対立から、1922年のワシントン会議の結果、九ヵ国条約が成立したため、翌年、破棄された。

 第一次世界大戦の途中、1917年4月にアメリカは参戦、ヨーロッパに軍を派遣することとなった。そのためアジア情勢を安定させ、負担を抑える必要がでてきた。一方日本は対戦開始すぐに中国に対して二十一カ条の要求を出し、袁世凱政権にほぼそれを認めさせたが、その山東省などの権益の国際的な承認を得る必要があった。
 そこで、寺内正毅内閣は石井菊次郎特使をアメリカに派遣、ウィルソン大統領のもとで国務長官を務めるランシングとの協議を開始した。まず、日本側が中国での特殊権益の承認を求めたが、アメリカが難色を示し、中国の領土保全・門戸開放を双方が認める共同声明を提案した。その結果、領国が合意に達し、1917年11月2日に、両国は中国に関する公文を交換するという形で発表した。
 要点は、「アメリカは日本の(中国における山東半島などの)特殊権益を承認し、両国は中国の領土保全、機会均等、門戸開放の尊重を約束する」ということであった。

日本の山東半島の権益、アメリカの中国進出を互いに承認

 アメリカのランシングは、日本が中国における特殊な権益(二十一カ条の要求で得た山東省での権益のこと)を有することを認めることに当初は反対したが、最終的には両国は中国の領土保全と門戸開放・機会均等を尊重することを表明することで妥協した。これは、1899年の門戸開放宣言以来の中国政策の原則である、中国の門戸開放・機会均等・領土保全を尊重する共同宣言を日本にも認めさせたことになるが、具体的な内容は無く、曖昧な表現での決着となった。
帝国主義列強による世界分割 これによってアメリカはヨーロッパ戦線に全力を傾けることが可能となり、同時に日本の中国進出に足かせをかけ、アメリカの将来の中国進出の足場を確保しておくことになると判断、日本は中国での特殊権益をアメリカに認めさせたことで満足が得られるという、日米の帝国主義の妥協による中国分割協定が成立したことを意味していた。
 なお、日本は、イギリスとの間では、同年2月にその要請に応えて海軍をヨーロッパに派遣することを条件に、山東省と赤道以北のドイツ権益を日本が継承することを認めさせ、3月にはフランス・ロシア(二月革命で混乱していたが)が同意していたので、日本のこれらの特殊権益は列強の承認を得られたことになった。これが大戦後のパリ講和会議において、中国の反対にもかかわらず日本の権益保持を他の列強が認めた理由だった。なお、石井・ランシング協定が発表されたと同じ1917年11月2日の日付で、イギリスはバルフォア宣言を出しており、帝国主義の世界分割が東西で同時に進んだと言うことができる。

第一次世界大戦後の中国情勢の変化

 第一次世界大戦によってアジア(中国)情勢は大きく変化した。まず、ドイツは中国から完全に撤退、フランスも大戦大きな損傷を受けて中国での権益拡大の余力がなくなって後退、ロシア革命で権力をにぎったソヴィエト=ロシアはレーニンの主導のもと1919年にコミンテルンを発足させ、カラハン宣言でロシア帝国が中国から奪った権益の返還を声明し、中国はそれを歓迎した。中国国民党孫文もその影響を受け1921年に結成された中国共産党への接近を開始した。イギリスはロシアの進出を警戒して日英同盟を結んでいたが、その意味は無くなり、むしろ日本との利害の対立が生まれてきた。そのような中でアメリカ資本は中国を新たな市場として進出するようになり、同じく日本との利害の対立がはっきりとしてきた。

石井・ランシング協定の破棄

 こうして中国におけるアメリカ・イギリス・日本の利害を調整する必要が強まると、アメリカは国際連盟には加盟していなかったものの、その国際社会での存在が強まったことを背景に、積極的な外交攻勢に出た。それが、海軍軍縮問題・太平洋問題と同時に中国問題の解決を図るという目的で、1921年11月にアメリカ大統領ハーディングが召集したワシントン会議であった。この会議でアメリカはイギリスと歩調を合わせて日本に圧力を加え、中国に関する九カ国条約を成立させた。ここではアメリカの主張する中国の主権尊重・領土保全・門戸開放・機会均等が確認され、日本は二十一カ条の要求で得た山東省の旧ドイツ権益を返還した。これによって石井=ランシング協定は両者合意のもと、翌年四月に破棄された。なお、太平洋に関する四カ国条約で、日英同盟の破棄も決まった。

石井菊次郎、東京空襲で行方不明

 石井菊次郎は日本の外交官として活躍を続け、1922年のジェノヴァ会議、1927年のジュネーヴ海軍軍縮会議、1933年のロンドン世界通貨経済会議という戦間期の重要な国際会議に首席全権として出席、国際連盟の日本代表、枢密顧問官も勤めている。大正~昭和初期の日本の花形外交官の一人と言っていいだろう。親英米派であった石井は、枢密顧問官として日独伊三国同盟には反対したという。ところが、意外な死に方をしている。1945年5月25日、東京がアメリカ軍機の空襲を受けた時、明治神宮付近で行方不明となった。5月30日に罹災死が確定したという記事が、『大佛次郎敗戦日記』<草思社刊 p.223>にでている。
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