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学生運動/スチューデントパワー

1968年から数年間、ベトナム反戦運動などと結びついて世界各地で学生が社会改革を主張し権力と衝突した。

 1968年5月、フランスの「五月革命」ともいわれ、ド=ゴール退陣の引き金となった五月危機に始まり、西ドイツでもキージンガー大連立内閣に反対する運動が、社会民主党ブラント政権を出現させた。アメリカ合衆国でもカリフォルニア大学バークレー校の反乱に始まり、ベトナム反戦運動公民権運動と結びながら、拡大した。この年にはキング牧師が暗殺されたの続いて、民主党リベラルのホープとみなされていたロバート=ケネディ(ケネディ大統領の実弟)も暗殺されるなど、ベトナム戦争下のアメリカは混迷を極め、ついにジョンソン大統領は再出馬を断念、共和党のニクソンが当選した。
 日本でも東大を始め、日大闘争などほぼ全国の大学に広がった。同時に中国では文化大革命が進行し、紅衛兵が「造反有理」(権威否定には理由がある、の意味)を掲げて暴走していた。
 これらは「怒れる若者たち」の「異議申し立て」は自然発生的に起こったものであり、既成の左翼運動とは異なっており、むしろそれを否定したので「新左翼」運動とも言われた。
 そのような中で若者文化にも大きな変化が生じ、ビートルズやローリングストーンズの音楽が流行し、ジョーン=バエズやピーター、ポール&マリーなどの反戦歌が歌われた。1968年のウッドストックのロックコンサートはその最大のイベントだった。若者にはヒッピーと言われる自由なライフスタイルを実践するものが急増しカウンター・カルチャーと言われた。
 しかし、運動が暴力的にエスカレートすると世論は次第に安定を望むようになって学生運動は社会から浮き上がり、その一部は過激なテロに走ることとなった。ドイツのバーダー=マインホフ・グループ、日本の赤軍派などがその例で、ハイジャック戦術などによってアラブ解放との合流に向かうこととなった。

Episode アドルノと学生運動

 ドイツの学生運動の共感を得ていたのは、ナチスを産み出したドイツの社会と思想に深刻な自己批判を続けていたアドルノやホルクハイマー、マルクーゼ、ハーバーマスなどの社会学者の集団フランクフルト学派だった。アドルノはナチスを産み出したパーソナリティーを権威主義的と名付け、近代的知性がナチズムを生み出したと考え、ハイデガー批判を展開していた。彼の「アウシュヴィッツの後に詩を書くことは野蛮である」ということばは当時よく知られていた。しかし、学生たちの暴力の中に権威主義的な臭いをかいで次第に批判的になっていった。学生たちは、反体制を説きながら自らは行動しないアドルノらに苛立ち、アドルノの授業を妨害するようになった。あるときは女子学生が上半身裸になって挑発し、とまどうアドルノをあざけるというシーンもあった。アドルノは教壇を去り、間もなく69年8月に急死した。彼は『啓蒙の弁証法』の中で、近代の啓蒙による人間の解放がかえって人間の野蛮化をもたらした、と述べていただけに、この女子学生の野蛮な行為に大きなショックを受けたのに違いない。<三島憲一『戦後ドイツ -その知的歴史-』1991 岩波新書>
 アドルノはユダヤ人で、音楽批評家としても知られていた。彼の『ミニマモラリア』は現代社会や文化に対する厳しい分析の書でもある。
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