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経済相互援助会議/コメコン/COMECON

1949年に発足した、ソ連と東欧の社会主義国家間の経済援助体制。アメリカのマーシャルプランに対抗して、東欧の結束を強めようとした。

 経済相互援助会議 Council for Mutual Economic Assistance 略称がコメコン、COMECON 。
 東西冷戦が進行する中の1949年1月25日、ソ連邦アルバニアブルガリアチェコスロヴァキアハンガリーポーランドルーマニア東欧社会主義国が結成した経済相互援助に関する会議。アメリカのマーシャル=プランに対抗して組織されたものであった。

役割と変質

 1950年代を通じ、社会主義圏の工業化やインフラ整備をめざしたが、1953年のスターリン死後は、それまでソ連とそれぞれの国の二国間の経済関係の取り決めであったものを、多国間の経済協力、生産技術の交流、各国の五カ年計画の調整などを行う機構に変化した。またフルシチョフは、1958年の西側のヨーロッパ経済共同体(EEC)の成功に刺激されて、コメコンを超国家的な機構に格上げし、加盟国の分業によって生産性を上げる構想を打ち出したが、ルーマニアは独自の工業化を主張してその方針に反対するなど、足並みの乱れが始まった。
 また中ソ対立の余波から1962年にアルバニアが脱退し、次第に活動は停滞した。1989年の東欧革命の激発を受けてて事実上機能は停止し、1991年に正式に解散した。


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コメコン解散

東欧革命の進行を受け、1991年6月、ソ連を中心とした東欧社会主義国の経済相互援助機構であったコメコンは解散した。

 経済相互援助会議=コメコン(COMECON)は、1949年に設立され、アメリカのマーシャル=プランに対抗して、東欧社会主義諸国の経済協力を進めるとともに、結束を強める、言い換えれば縛りを強くするための機構であった。しかし、1960年代からソ連を中心とした分業体制がとられ、工業国と農業国に区分された。ルーマニアは農業国に組み込まれたことに反発して独自の工業化を進め、足並みがそろわなくなった。1962年にはアルバニアが脱退した。
 また70年代から80年代には、東欧諸国との経済格差、技術格差が大きくなり、社会主義計画経済が行き詰まっていくにともない、コメコンも次第に機能しなくなった。

ソ連圏社会主義国の崩壊

 1989年の東欧革命で加盟国が次々と社会主義から離脱し、同年末に米ソ首脳が冷戦の終結を宣言した。それを受けて1991年1月、コメコンの執行委員会は解散と新経済機構への移行の方針を打ち出し、1991年2月にはポーランドチェコスロヴァキアハンガリーの三国は、経済協力のためのヴィシェグラード=グループを結成した。そのうえで、1991年6月、コメコン総会は正式に解散を決定した。
 さらに1991年7月にワルシャワ条約機構の解散も解散し、同1991年12月にはソ連の解体に至り、東欧諸国の社会主義圏は完全に姿を消した。

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