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コミンフォルム/共産党情報局

1947年、アメリカのマーシャル=プランに対抗してソ連が結成した、各国共産党の連携のための国際組織。東欧諸国では経済協力機構のコメコン、軍事機構のワルシャワ条約機構とともに、ソ連を中心とした東側の社会主義圏の結束を強め、西側の資本主義諸国ときびしく対立することとなった。

 1947年10月5日に、スターリン体制下のソ連邦ソ連共産党を中心に、ヨーロッパ8ヵ国の共産党が参加して、共産党情報局(Cominform)が結成された。英語表記では、Information Bureau of the Communist and Worker's Parties となる。従って、正しくは共産党・労働者党情報局となるが、一般に略称のコミンフォルムと表記している。

冷戦の始まり

 1947年6月5日、アメリカ合衆国トルーマン大統領のもとで、国務大臣マーシャルによるヨーロッパ復興計画、いわゆるマーシャル=プランが発表された。これは戦争で産業基盤を失ったヨーロッパ諸国に対してアメリカが経済支援をすることで復興を実現するというものであったが、その狙いは特に東欧諸国へのアメリカの影響力を強め、ソ連主導の共産化を食い止めることにあった。
 同1947年10月、ポーランドのワルシャワに集まったヨーロッパ9ヵ国の共産党代表者会議で、ソ連代表はマーシャル=プランによって世界は二分されたと非難し、それに対抗するために共産党情報局(コミンフォルム)を結成し、各国共産党の連携を強化しようとした。こうして戦後世界は東西冷戦が深刻化することとなった。

マーシャル=プランに対抗

 このように、コミンフォルム結成の目的は、アメリカのマーシャル=プランによって東ヨーロッパ諸国が動揺することを防止し、統制を強めることによってソ連邦共産党の指導力維持をはかったものであり、まさに東西冷戦における東側陣営の結束をはかるものであった。

コミンフォルムの参加国

 当初参加したのは、ソ連・ルーマニア・ブルガリア・ハンガリー・ポーランド・チェコスロヴァキア・ユーゴスラヴィアの東欧諸国の共産党(党名は国によって異なる)と、フランス共産党イタリア共産党の西側諸国の共産党を加えて9国の共産党であった。
 ソ連共産党が、東欧諸国が共産圏から離脱するのではないかという危機感は、実際に現実のものとなった。マーシャル=プランは東欧諸国の結束に強力なくさびを打ち込むことになったからである。もともと資本主義から社会主義へ、さらに共産主義への変革は、それぞれの国の歴史的条件で異なる道があると考えられており、また民主的、非暴力的な方法で人民の主権を獲得するという思想は人民民主主義として一定の進展を見せていたが、コミンフォルムの結成は戦前のコミンテルンを再現し、ソ連共産党の指導による革命をめざすという色彩が強まり、人民民主主義は後退ないし変質していった。

東欧諸国の動揺

ユーゴスラヴィアの除名 コミンフォルムの事務局は最初、最も急進的であったユーゴスラヴィアの首都ベオグラードに置かれていた。ところが、結成の翌年の1948年6月にはティトーの率いるユーゴスラヴィア共産党は、民族主義的に偏向しているとソ連共産党から批判され、コミンフォルムから除名されてしまった。
チェコスロヴァキアのクーデター また、チェコスロヴァキアではベネシュ大統領がマーシャル=プラン受け入れを決定したことに対し、共産党が主導するチェコスロヴァキア・クーデターによって共産党政権が成立し、コミンフォルムのメンバーとなった。
ポーランドのゴムウカ失脚 さらに、ポーランドでは戦前からの党指導者ゴムウカは親ソ派とみられていたが、ポーランド独自の社会主義に道も模索し、マーシャル=プラン受け容れを検討する一方、コミンフォルム結成に疑問を持っていた。それを危険視したソ連はポーランド内のスターリン派を動かしてゴムウカを解任させ、さらに51年には逮捕してしまった。ゴムウカを排除したポーランド統一労働者党はコミンフォルムにとどまった。

東西冷戦の深刻化

 東西冷戦が深刻化する中で、ソ連は東欧諸国の社会主義陣営との結束を強めるため、1949年1月には経済相互援助会議(コメコン)を成立させて経済的結びつきを強め、さら西側の北大西洋条約機構(NATO)に対抗するための軍事同盟として1955年5月にはワルシャワ条約機構を結成することになる。

コミンフォルムの解散

 ソ連のスターリン体制のもとで、コミンフォルムはソ連共産党の他国共産党への支配権を強める機関となっていった。共産主義政権が成立した東欧各国では、ソ連に倣った農業集団化や急速な工業化、一党独裁の政治体制が布かれ、また政治や軍事でのソ連共産党員の直接的な介入がおこなわれ、次第に言論の自由や文化の自主性が失われていった。また共産主義勢力が政権を握っていない場合には、ロシア革命に倣った暴力的な革命手段が正統とされ、議会制民主主義のもとでの政権奪取の思想は異端、あるいは修正主義として批判されることとなった。

スターリン批判

 しかし、1953年のスターリンの死去後、ソ連共産党内部でも独裁体制に対する批判が強まり、1956年2月スターリン批判が行われた。さらにその後の1956年4月にコミンフォルムも廃止されることとなった。
 コミンフォルムの解散によって東欧社会主義諸国の中で、ソ連の支配に対する反発が表面化し、6月にポーランド反ソ暴動(ポズナニ暴動)、8月にハンガリー反ソ暴動(ハンガリー事件)が起こった。スターリン後のソ連指導体制の維持をめざすフルシチョフ政権は、ハンガリーにはソ連軍を派遣して直接介入し、ポーランドに対しては国境までソ連軍を移動させて圧力を加え、いずれの反ソ暴動も鎮圧した。

独自路線と中ソ対立

 コミンフォルムは解散されたが、東欧社会主義国へのソ連共産党の統制はワルシャワ条約機構やコメコンを通じて続いた。しかし、ユーゴスラヴィア連邦アルバニアなど独自の社会主義路線をめざす国も現れ、またスターリン批判を機にソ連共産党と中国共産党の対立、いわゆる中ソ対立が始まり、社会主義陣営の一体化は完全に崩れていく。
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