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ロシア共産党/ソ連共産党(1)

1918年3月ボリシェヴィキがロシア共産党と改称、22年からはソ連共産党となった。以後、ソ連の一党独裁体制を続けたが、1991年、ソ連保守派のクーデター失敗により、解体され、ロシア共産党に戻った。

 1918年1月、レーニンの指導するボリシェヴィキは、憲法制定議会を閉鎖して、ボリシェヴィキ独裁の体制を作り上げ、外交面ではブレスト=リトフスク条約を締結して単独講和に踏み切った。その直後の1918年3月6日、レーニンは、反主流派のブハーリンらを除外し、党名を従来のロシア社会民主労働党(ボリシェヴィキ)から「ロシア共産党」に変更し、正式な一個の政党となった。また3月12日には首都をペテルブルクからモスクワに移し、ソヴィエト政権の基盤を固めた。1922年にソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連邦)が成立してからはソ連共産党と称した。 → 共産党(全般)

「党の指導する国家」

 レーニンが共産党一党独裁体制を作り上げてから、ソ連国家においては「共産党の指導性」は絶対であり、「党の指導する国家」または「党の所有する国家」とされるようになった。そして共産党以外の政党は禁止されていく。その点で政党と言っても西欧やアメリカの多党制とは全く異なる存在であった。またソ連においては共産党は国家機関だけではなく、あらゆる部門において指導的役割を認められていた。
 またレーニンは1918年にコミンテルンを発足させ、ソ連共産党を国際共産党運動の中心機関として位置づけた。それ以後、世界各国の共産党は、コミンテルン支部として、ソ連共産党の指導のもとで世界革命を目指す路線をとることとなる。

スターリン体制

 党権力は1924年のレーニンの死後、トロツキーらとの激しい党内抗争の結果、スターリンが掌握し、そのころから「民主集中制」という意味づけによって独裁的な権力が生まれた。またスターリンはトロツキーの世界革命路線を否定して一国社会主義論を掲げ、ソ連一国の社会主義化に専念することになる。スターリン権力の独裁のもとで、社会主義建設を目指す五カ年計画(第1次・ソ連)(1928~32年)が開始されたが、過度な工業化路線は国内矛盾を深刻化させた。
 しかしスターリンはその独裁を個人崇拝のレベルにまで引き上げ、反対派に対しては死刑やシベリアの強制労働に送りこむという粛清を行うことでのりきろうとした。「スターリン体制」は資本主義社会の1929年に始まった世界恐慌の影響を受けずに、工業化・集団化を進めたが、その裏面ではスターリン独裁が進行し、1936~37年頃に粛清は最高潮に達していた。また同時にドイツ・イタリア・日本のファシズムが急速に台頭し、焦点は祖国防衛のための戦争へと向かっていった。

ソ連共産党(2)スターリン批判

ソ連共産党は粛清を繰り返したスターリンが第二次世界大戦後も揺るぎない独裁体制を維持したが、ようやくその死後の56年にはスターリン批判が行われた。しかし共産党一党支配は続いたので、次第に官僚的な硬直した組織となり、70~80年代のブレジネフ時代は経済停滞が顕著になった。

第二次世界大戦後の共産党

 第二次世界大戦でソ連は多大の犠牲を生じたが、彼らにとっての「大祖国戦争」を勝利に導いたという面でスターリン独裁・共産党一党体制にとってもその権威付けとされ、同時にアメリカ合衆国と対峙する冷戦下でさらにその体制は強化され、1947年、アメリカのアメリカのマーシャル=プランに対抗して、コミンフォルム(共産党情報局)を結成した。さらに1955年にはワルシャワ条約機構が結成され、ソ連共産党の絶対的な権威として東欧諸国の共産党に強い強制力を発揮した。しかし、中にはユーゴスラヴィアやアルバニアのように、独自性を志向する共産党が出現し始め、また中華人民共和国を建国した中国共産党も次第にソ連共産党の影響から脱していった。

スターリン批判

 1953年のスターリンの死去、共産党は集団指導体制をとったが、次第に戦後の共産党に大きな変化をもたらされた。1956年のフルシチョフによるスターリン批判がおこなわれたのである。スターリンに対する個人崇拝は否定され、外交姿勢でも平和共存をさぐるようになるなど変化が生じた。また、ソ連共産党の転換に対して、中国共産党の毛沢東はアメリカ帝国主義に屈服するものであるとして強く反発し、共産党間の中ソ対立が深刻になっていった。こういして世界の共産党はソ連派、中国派に分かれて対立し、かつての国境を越えたインターナショナルな労働者の開放を目指した共産主義運動はまったく影を潜めてしまった。

ブレジネフ時代

 教条的、官僚的な党運営はその後のブレジネフ時代にソ連の政治、社会、外交を停滞させることとなった。巨大な党組織と国家官僚の一体化は、国民生活から次第に遊離し、硬直した官僚国家の弊害が次第に表面化していった。一部の共産党官僚は、ノーメンクラツーラと言われる特権階層を形成し、一般民衆から遊離した存在となった。
 またこの間、共産党政権は1968年のチェコ事件以来、制限主権論(ブレジネフ=ドクトリン)を掲げて東欧諸国の共産党政権に対する強圧的態度を続け、その延長線上で1979年のアフガニスタン侵攻が行われ、国際的な世論の支持を失った。

ソ連共産党(3)ペレストロイカから解党へ

改革に迫られた共産党は1985年にゴルバチョフを党書記長に選出、思いきった改革に乗り出した。しかし、社会主義体制・連邦制を維持しようとした保守派が1991年にクーデターを起こしたが失敗、ゴルバチョフ自身がソ連共産党の解散を宣言するに至った。その中心部分はロシア共産党に戻った。

ペレストロイカ

 1985年にゴルバチョフが共産党第一書記となってゴルバチョフ政権が成立、グラスノスチ(情報公開)とペレストロイカ(改革)に着手した。その翌年、チェリノブイリ原発事故は当時のソ連の問題点が凝縮されて起こったという感がある。
 ゴルバチョフは、まずソ連経済の停滞の打破を目指し、市場経済導入をはかったが、社会主義計画経済の枠組みの中での一部手直しにとどまったため、効果を上げることができず、かえって混乱を増大させた。
 また政治改革では、西欧型議会政治に近づけようとしたが、それは共産党一党支配というレーニン以来の原則をなくし、複数政党の容認につながることなので、保守派の強い抵抗を受けることとなった。
 外交ではゴルバチョフが掲げた新思考外交は東欧社会主義国の自立の動きを刺激し、1989年の東欧革命の嵐がわき起こり、それはソ連自身に跳ね返ってくることとなる。

ソ連共産党の解散

 それはソ連邦下のバルト三国の独立などへと波及し、ソ連邦の解体の危機が迫った。それを何とか抑えたい共産党保守派は、ゴルバチョフ政権が連邦制解体に踏み切る前に権力を奪取しようとして、1991年8月19日に保守派クーデタを起こしてゴルバチョフを監禁するという挙に出た。
 しかしそれ自体が共産党の命運を決することとなり、クーデタがロシア共和国のエリツィン大統領などの抵抗によって失敗した後、同年8月24日ゴルバチョフ書記長が辞任し、党中央委員会に自主解散を求めた結果としてソ連共産党は消滅した。1918年にボリシェヴィキ党がロシア共産党と改称してから73年目であった。さらにゴルバチョフは同年12月8日、ソ連大統領も辞任して、これによってソ連の解体が確定した。

ゴルバチョフの思惑を越えた解党

 ゴルバチョフの推進したペレストロイカは経済改革から始まり、政治改革に及んで必然的に硬直した党官僚制の打破に向かった。最終段階ではレーニン以来の原則であった共産党一党独裁の見直しに及び、憲法で定められた「共産党の指導する国家」という規定もはずされ、複数政党制に移行することとなった。ゴルバチョフは共産党の解散までを予想することはなかったが、共産党保守派がクーデターを起こして失敗するという、「自壊」という形で終わりを告げることとなった。ソ連共産党の財産はエリツィンによってロシア連邦に接収された。
 その後、ロシア共産党として復活し、現在のロシアでは一定の支持を集めている。 → 共産党 
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