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ボリシェヴィキ

ロシア社会民主労働党の多数派。少数の革命家の主導する暴力革命を主張。ロシア革命の主導権を握り、後に共産党と改称。

 1903年7月、ロンドンで開かれたロシア社会民主労働党の大会(第2回ともされるが実質的には結成大会)で、革命路線をめぐって党がはやくも二派に分裂した。その指導者レーニンは、ロシアの革命の推進は西欧的な大衆政党ではなく、少数の革命家の集団である党が、農民・労働者の前衛として活動すべきであると主張した。またロシア革命は民主主義の実現に止まらず、社会主義実現に向かうべきである(二段階連続革命)と考えた。党綱領の採択ではマルトフに敗れたが、党の人事面では多数を占めたので、多数派の意味でボリシェヴィキと言われる。それに対して大衆政党として支持を広げるべきだと主張したのが少数派を意味するメンシェヴィキであった。しかし党の主力はメンシェヴィキがしめ、当局の弾圧もあってボリシェヴィキは当初は振るわなかった。

ボリシェヴィキ党の自立

 その後も両派の対立は続く中、日露戦争と第1次ロシア革命を経て、革命情勢は近づいていると考えたレーニンは、主導権の確立をめざし、1912年にプラハで党の協議会を開催、メンシェヴィキを追放し、実質的な「ボリシェヴィキ党」として革命を指導する態勢を強めた。
二月革命(三月革命) 1917年、第2次ロシア革命が始まったが、レーニンはスイスに亡命しており、国内の活動家は手薄であったため革命の主導権は取れなかった。二月革命(三月革命)で結成された労働者・兵士のソヴィエトにおいても主導権をメンシェヴィキや、ナロードニキの流れをくみ農民の土地問題解決の優先を主張する社会革命党(エスエル)、君主制の下でブルジョワ議会政治を目指す立憲民主党(カデット)に握られてしまっていた。臨時政府もエスエルのケレンスキーが首相を務めつこととなった。

レーニンの四月テーゼ

 1917年にスイスから封印列車で戻ったレーニンは、四月テーゼを発表して「すべての権力をソヴィエトへ」を掲げて臨時政府打倒という戦略をボリシェヴィキに提示した。臨時政府はボリシェヴィキ弾圧に踏み切り、レーニンやトロツキー(はじめメンシェヴィキであったがこのころボリシェヴィキに加わった)らも再び国外に亡命した。
十月革命(十一月革命) しかし、戦争継続を続ける臨時政府への労働者・兵士の不満は強まる中、帝政派のコルニーロフ将軍の反乱が起こるとケレンスキー内閣はそれを抑える力が無く、ボリシェヴィキの力を借りざるを得なかったため、ボリシェヴィキは勢いを盛り返した。こうして国内の戻ったレーニン、トロツキーらはペトログラードでボリシェヴィキを武装蜂起させ、臨時政府を倒した。これが十月革命(十一月革命)である。この革命を成功させてボリシェヴィキは革命権力を握った。

ボリシェヴィキ独裁の成立

 十月革命において新しい国家の最高機関として全ロシア=ソヴィエト会議が召集されたが、まだこの段階ではボリシェヴィキ以外のメンシェヴィキやエスエルも参加していた。翌1918年1月、ロシアで最初の普通選挙による憲法制定議会が開催されたが、ここではエスエルが第一党となり、ボリシェヴィキは第2党にとどまった。その情況を観たレーニンは、全ロシア=ソヴィエト会議の名で議会を閉鎖するという強硬手段に訴え、新国家建設はボリシェヴィキ独裁のもとで行うという方針を打ち出した。それは、ブルジョワ階級との階級闘争がまだ終わっていない段階で、議会政治を導入しても、それはブルジョワを利するだけであるとして、革命を進めるためにはボリシェヴィキ独裁のもとでソヴィエトに立法と行政を統一させるという国家体制が必要であるというレーニンの主張に基づく措置であった。<レーニン/角田安正訳『国家と革命』1917 講談社学術文庫版 2011刊>

共産党に改称

 1918年3月、ロシア革命でのプロレタリア独裁の理念を現実のものとしたボリシェヴィキは、党名を共産党(ロシア共産党)に変更した。ロシアにおいては共産党以外の政党は認められない一党独裁となり、しかも1918年にコミンテルンが発足してからは世界の共産党を指導する立場に立つこととなった。さらに1922年にはソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連邦)が成立してからはソ連共産党と称するようになる。
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