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メンシェヴィキ

ロシア社会民主労働党内の少数派。大衆参加の穏健な革命を主張し、二月革命後のソヴィエトでは大きな勢力となった。

 ロシア社会民主労働党内のマルトフプレハーノフ等に代表される穏健な革命派で、党は大衆の参加するものであり、ブルジョア階級とも妥協しながら、まず民主主義革命をめざすべきであると主張した。人事面で少数派であったのでメンシェヴィキ(少数派)と言われるが、党内での勢力では実際には多数を占めていた。レーニンなど、少数の前衛が指導する革命を主張し、大衆組織を否定するボリシェヴィキの路線と鋭く対立した。

ボリシェヴィキとの対立

 両派は1903年の第2回ロシア社会民主労働党大会で分裂し、事実上二つの党派として活動するようになった。日露戦争の最中に第1次ロシア革命ではブルジョワ民主主義者との協調を主張し、労働者の蜂起に反対した。ニコライ2世のツァーリズムが強まった反動期に、大衆路線を採るメンシェヴィキと革命家集団を目指すボリシェヴィキの対立はますます強まり、1912年には正式に分離し、ボリシェヴィキと決別し独自の「メンシェヴィキ党」となった。第一次世界大戦がはじまると、メンシェヴィキの大勢は祖国防衛戦争として参戦を支持し、ツァーリ政府を利することとなった。

ソヴィエトの中心勢力となる

 1917年、二月革命(三月革命)が勃発して、労働者・兵士のソヴィエトが成立すると、メンシェヴィキも参加し、ペトログラード=ソヴィエトの代表にはメンシェヴィキのチヘイゼが代表に選出された。第1回全ロシア=ソヴィエト会議でもエスエルに次いで第2党となり、ボリシェヴィキよりも優位に立っていた。7月、エスエルのケレンスキー臨時政府の首相となり二重権力が解消されると、メンシェヴィキも閣僚を出し、協力した。このエスエル・メンシェヴィキ政権は戦争継続を主張し、それに反対するボリシェヴィキの蜂起(七月暴動)を弾圧したが、労働者・農民の支持は次第にボリシェヴィキに集まっていった。

政権から遠のく

 臨時政府が帝政復活をもくろむ右派のコルニーロフ将軍の反乱を鎮圧できず、ボリシェヴィキの武装部隊がその反乱を鎮圧したこともあって形勢が逆転し、ついに十月革命(十一月革命)で臨時政府が倒され、メンシェヴィキは政権から離れることとなった。それでもなお、1918年に普通選挙で選出された代議員が召集された憲法制定議会では議員が選出されたが、この会議がレーニンらのボリシェヴィキによって封鎖され、ボリシェヴィキ独裁体制が成立し、1922年にメンシェヴィキも活動を停止され、共産党(ボリシェヴィキが改称)以外の政党は禁止された。

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