レヒフェルトの戦い
955年、東フランクのオットー1世が、東方から侵入したマジャール人を破った戦い。オットーはこの勝利でキリスト教世界の保護者としての権威を高め、962年にローマ皇帝として戴冠する。マジャール人は東方のパンノニア(現在のハンガリー)に退く。
955年、東フランク王国のオットー1世が、東方から侵入したマジャール人を撃退した戦い。レヒフェルトは南ドイツのアウクスブルクの近郊。勝利したオットー1世は962年にローマ皇帝として戴冠し「神聖ローマ帝国」の初代皇帝となり、敗れたマジャール人はパンノニアに後退して定住し、ハンガリー王国を成立させるという契機となった。
955年7月、マジャール人がドナウ川流域から侵攻して略奪を重ね、アウクスブルクを包囲したことがオットー1世に伝われたが、オットーは北方のデーン人、北東のスラブ人に兵力を備えておかなければならなかったので、急遽、ザクセン人以外にもバイエルン人、フランク人、シュヴァーベン人、さらにベーメン(モラビア)人も動員し、総勢7~8千名の軍勢で救援に向かった。戦いを前にして、陣営では異教徒との戦いに臨んで神に勝利を祈願するために、心身を浄め断食が指示された。夜が明けて戦士たちは互いに協力し合うことを約した後、鬱蒼とした森の中の道を東に向かった行軍した。
緒戦で大きな犠牲をはらったオットー1世の東フランク軍は、ようやく態勢を立て直し、レヒフェルトの草原でマジャール軍の主力と対峙した。決戦を前にしてオットーは次のような演説を行って兵士を鼓舞した。
マジャール人の侵攻
マジャール人はウラル語系の民族で、遊牧と農耕を行いながら西方への移動を続け、9世紀末にドナウ川中流域の大平原地帯であるパンノニアに入った。10世紀の初めにはモラヴィア王国を滅ぼし、さらに西進して東フランクの領内に遠征し、略奪を繰り返すようになった。マジャール人は930~950年代にかけて、現在のフランス、イベリア半島、イタリアにまでしばしば遠征すると、キリスト教徒は騎馬を操るマジャール人をかつてのフン人の再来と思い込んで非常に恐れた。955年7月、マジャール人がドナウ川流域から侵攻して略奪を重ね、アウクスブルクを包囲したことがオットー1世に伝われたが、オットーは北方のデーン人、北東のスラブ人に兵力を備えておかなければならなかったので、急遽、ザクセン人以外にもバイエルン人、フランク人、シュヴァーベン人、さらにベーメン(モラビア)人も動員し、総勢7~8千名の軍勢で救援に向かった。戦いを前にして、陣営では異教徒との戦いに臨んで神に勝利を祈願するために、心身を浄め断食が指示された。夜が明けて戦士たちは互いに協力し合うことを約した後、鬱蒼とした森の中の道を東に向かった行軍した。
オットー1世の勝利
8月10日の早朝、待ち伏せていたマジャール人部隊が最後尾のベーメン人の隊列に奇襲をかけたことから戦闘が始まった。ベーメン人の隊列が崩れ、多くが敗走を始めたが、マジャール兵士が戦利品の略奪に夢中になっている間に、主力の部隊が反撃して、ようやく森林を抜け出した。緒戦で大きな犠牲をはらったオットー1世の東フランク軍は、ようやく態勢を立て直し、レヒフェルトの草原でマジャール軍の主力と対峙した。決戦を前にしてオットーは次のような演説を行って兵士を鼓舞した。
(引用)余は承知している。彼らが勝(まさ)っていることを。だが、それは数においてなのであって、勇気と武器においてではない。・・・そして、我々にとって何よりも最大の慰めとなるのは、彼らには神の御力が欠けているということなのだ。彼らを守っているのは、ただひたすら向こう見ずさにすぎないが、我々の側は神の御加護への希望によって守られているのだ。我々はヨーロッパのほぼ全域を支配する者として、恥じ入らねばならぬであろう、仮に今敵に降伏などしたならば。もし、我々の最期の時が近づいているのであるならば、我が戦士たちよ、敵に服して隷属の身で生き長らえるよりも、ましてや悪しき野獣の如く首を絞められて殺されるよりも、むしろ戦場で名誉をもって死のうではないか。余はもっと多くを語るであろう、我が戦士たちよ、もし言葉によって汝たちの勇気と精神の大胆さが高まるというのならば。しかし今は、言葉ではなく剣をもって事を始めようではないか。<ヴィドゥキント『ザクセン人の事績』第3巻46章 三佐川亮宏『オットー大帝』2023 中公新書 p.171 引用文による>戦闘は、軽装備のマジャール騎兵の弓矢による奇襲攻撃と東フランク軍の重装備の戦士が集結する密集陣形との間で展開された。戦闘ではオットーの義理の息子コンラートが戦死するなど、東フランク軍の苦戦が続いたが、マジャール人の騎馬戦法に次第になれると共に態勢を立て直し、最終的には東フランク軍が勝利した。その勝利の理由は、「神の御加護」による奇跡とみることはともかく、未だに謎である。一説に、マジャール騎兵が使っていた「反り弓」は、馬上で使用するため短くしており、動物の腱などを貼り合わせて弾性を強化していたが、弱点は湿り気であったので、真夏でしかも当日は雨が降っていたと伝えられており、充分機能しなかったことなどがあげられている。<三佐川亮宏『前掲書』p.173-4>
オットー1世の戴冠
この時、オットー1世は42歳、自ら聖遺物(キリストが十字架上で刺された)とされる槍をふるい、戦士の先頭に立って戦った。国王に即位してから、異教徒のスラブ人、隣接する西フランク、イタリア両王国との戦争、あるいは幾多の内戦を勝ち抜き、最期のマジャール人に対する勝利を手にしたことはその総決算を意味した。その勝利は、200年前のフランク王国宮宰カール=マルテルのトゥール・ポワティエ間の戦いの勝利と同じように、キリスト教世界を守った戦いと受け取られ、オットー1世はローマ教皇から守護者として讃えられることとなった。それが、962年のローマ皇帝へのオットーの戴冠の理由となった。<三佐川亮宏『前掲書』はじめに p.ⅱ / 坂井榮八郎『ドイツの歴史百話』2012 刀水書房p.36->ハンガリー王国の成立
また敗れたマジャール人は、これ以上の西進ができず、ドナウ川中流域のハンガリー平原(パンノニア)に定住することとなる。彼らは1000年にキリスト教に改宗して、ハンガリー王国を建国する。Episode 1000年後の勝利集会
(引用)「レヒフェルト」の名はドイツ人の「記憶の場所」として1000年後に蘇ることとなる。西ドイツがNATO(北大西洋条約機構)に加盟した1955年の7月、アウクスブルクのローゼナウ・シュタディオンで、6万人が参加してレヒフェルトの戦い1000周年記念イベントが開催された。それは、ハンガリー人に代わる新たな「東方の脅威」、すなわちソ連共産主義からのキリスト教的西欧の解放を訴える、東西冷戦体制下の政治的デモンストレーションの場としてであった。<三佐川亮宏『同上書』p.166>