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クロンプトン

イギリスの産業革命期の代表的な発明家で、1779年にミュール紡績機を考案、紡績の大量生産に成功した。

 イギリス産業革命綿工業における紡績工程で、ハーグリーヴズのジェニー紡績機、アークライトの水力紡績機に次いで、その両者をうまく統合させて、1779年ミュール紡績機を発明し、良質の綿糸の大量生産を可能にした。
(引用)80年代のなかば頃、紡績におけるもう一つの発明によって事情は再変した。ボウルトンの織布工サミュエル・クランプトンは、Hall-i'-th'-Wood のその「魔法の部屋」conjuring room で七年にわたる試作をつづけたのち、丈夫で細くて太さが平均していて、経(たて)糸にも緯(よこ)糸にも適し、従ってあらゆる種類の織物の生産に、なかでも、それまで東洋から奢侈品として輸入していた上等のモスリンの生産に適した糸を製造することに成功した。この機械はジェニーおよびウォーター・フレーム(アークライトの水力紡績機)の双方の特徴をそなえており、雑種的な素性のものと考えられたところからミュール(mule)という名で知られるようになった。<アシュトン『産業革命』 岩波文庫 p.86>

Episode 生涯不遇だった発明家クロンプトン

(引用)水力紡績機がキャリコに対してそうであったように、インド産モスリンに対抗しうる技術的基礎を提供したのは、クロンプトンのミュール紡績機であった。イギリス綿業の大恩人とも言うべきこの天才は、1753年、ランカシャーのボウルトン近郊で、小借地農をも兼ねた織布工の子として生まれた。彼の生家は今日なお残っている。・・・その労働の中から、彼は、細くて強く、その美しさにおいてインド産モスリンに匹敵する細糸を紡ぐことができる紡績機を発明したのである。しかし、産業革命が怒濤のように進行していたランカシャー綿業界は、この天才に対して冷酷であった。彼は最初、自分の作業場でミュールを使用するだけで満足していたが、近隣の工場主たちは、彼が生産した糸の異常な細さと美しさに注目しはじめた。人びとは窓にはしごをかけたり、壁に穴を開けたりして、ミュールの秘密を盗み取ろうとした。秘密は保持しきれない、さりとてミュールはアークライトの特許と抵触するかもしれない、と懸念したこのつつましやかな天才は、特許を取ることを断念し、工場主たちの言葉を信頼して、自発的な寄付金の約束と引きかえにミュールを公開した。しかし、集まった寄付金はわずか67ポンドにすぎず、彼を失望させた。1811年に、彼は友人たちといっしょになって議会に請願し、イギリス綿業に関する彼の貢献に対して賞金が授与されるよう働きかけた。彼の貢献を判断するための調査によれば、ミュールの紡錘数はすでに420万錐、イギリスの総紡錘数の実に90%に及んでいたのである。翌年、議会は5千ポンドの賞金を彼に与えたが、この金も事業の失敗や息子の放蕩のために、無駄に費やされてしまった。1827年、彼の発明を完全に機械化した自動ミュールが製作された頃、この失意の天才は貧困のうちにみずからの生涯を閉じたのである。」<吉岡昭彦『インドとイギリス』1975 岩波新書 p.82-84>

ミュール紡績機

クロンプトンが1779年に発明した紡績機。ジェニー紡績機と水力紡績機の技術を合わせ、より補足強い糸を紡ぐことを可能にし、さらに1789年には蒸気機関で動かすようになり、19世紀まで最も広く使用された。

クロンプトンのミュール紡績機

クロンプトンのミュール紡績機

 1779年クロンプトンが発明した紡績機。先行するハーグリーヴズのジェニー紡績機とアークライトの水力紡績機の両方の技術を取り入れていたので、ミュール紡績機と名付けられた。ミュール(mule)とは、ラバ、つまり雄ロバと雌馬との雑種のこと。ラテンアメリカ世界のムラートの語源もミュールである。
 これによって、 細くて強い綿糸を作ることができるようになり、さらに織機の改良を促すこととなった。特に1789年にはミュール紡績機に蒸気機関が取り付けられて自動化され、同機を備えた大工場が各地に作られるようになった。19世紀の初めには最も多く使われている紡績機械となった。
労働者の視力を奪ったミュール紡績機 1845年にイギリスの労働者階級の現状を見て回ったエンゲルスは、その報告『イギリスにおける労働者階級の状態』(1845)で労働者の健康状態について次のように告発している。
ミュール紡績機を備えた紡績工場
ミュール紡績機を備えた紡績工場
(引用)男はこのような影響の結果、ひじょうにはやく消耗してしまう。たいていの者は40歳で働けなくなる。45歳までもちこたえる者もわずかにはいるが、50歳までとなるとほとんど皆無である。これは身体の一般的な虚弱によるほかに、一部は視力の悪化にもよる。視力が弱るのはミュール紡績のためである。労働者は細くて平行に走る糸の長い列から目をはなしてはならないので、目をひじょうに酷使せざるをえない。ハーバーやラナークのいくつかの工場で働いている1600人の労働者のうち、45歳以上の者は10人しかいなかった。・・・ボウルトンの解雇された50人の紡績工のうち50歳以上の者は二人しかおらず、残りの者の平均は40歳にも満たなかった。そして全員が高齢を理由に失業したのである!<エンゲルス/一條和生・杉山忠平訳『イギリスにおける労働者階級の状態』上 岩波文庫 p.301>

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吉岡昭彦
『インドとイギリス』
1975 岩波新書