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ジョージ3世

イギリス国王(1760~1820)として産業革命の時期に当たり、またアメリカ独立戦争に直面した。フランス革命・ナポレオン戦争ではピット首相が主導した。

 イギリスのハノーヴァー朝の国王、在位1760年から1820年。60年にわたる在位はイギリス史上、ヴィクトリア女王の64年に次ぐ第2位。しかし、ジョージ3世は、側近を重用して議会政治に抵抗し、王権の復活を策するなど問題が多かった。特に、1763年の「国王の宣言」にみられるアメリカ植民地に対する政策では失敗が多く、植民地側の強い反発を受け、ついにアメリカ独立戦争を誘発して、結局その独立を認めることとなった。1776年のジェファソンが起草した「アメリカ独立宣言」には、ことこまかくジョージ3世の悪政を告発している。また、フランス革命に対しては、トーリ党のピットに国政を委ね、ナポレオンとも全面対決の時代となった。ナポレオンとの戦争の最中の1801年にはグレート=ブリテンおよびアイルランド連合王国が成立し、連合王国の国王となった。ユニオン=ジャックが使われるようになったのもこの時からである。
 ジョージ3世の時代はアメリカ独立戦争、フランス革命、ナポレオン戦争とイギリス外交にとって困難な時代が続いたが、同時にその時代は一方で産業革命が進行しており、イギリスが「世界の工場」に躍進していく時代でもあった。ジョージ3世は晩年は精神に異常をきたし、廃人同然ですごした。

国王の宣言

 アメリカ独立運動の起こる前の1763年、イギリス国王ジョージ3世が「勅令」(ロイヤル・オーダー)として出した植民地政策を特に「国王の宣言」といっている。それはイギリスがフレンチ=インディアン戦争(1754~63)後のパリ条約で獲得したルイジアナでのインディアンの反抗を緩和させるためのもので、東はアパラチア山脈(アレガニー山脈とも言う)から、西はミシシッピ河まで、南北はフロリダの北から五大湖を含む地方をイギリス王の直轄地として、植民地人の移住を当分の間禁止し、インディアン保留地とする、というものであった。さらに、植民地はそこでとれる原料品を本国に送らなければならず、現地で加工してはならない、また、他国の植民地と交易してはならないという「排他」制度を復活させ、イギリス人入植者は大いに不満だった。
(引用)この勅令は、アメリカ人には、辺境で思うように活動する自由-狩猟をし、インディアンとの貿易を行い、毛皮を集め、また、ぼろいもうけ仕事をさがしたり、あるいは、土地を手にいれるために、勝手にぶらつき歩いたりするという自由が、もはや、なくなることを意味していたのである。<ビーアド『新版アメリカ合衆国史』岩波書店 P.100>
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