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封建的特権の廃止(フランス革命)

フランス革命の1789年8月、国民議会が決議した。領主裁判権、十分の一税などは無条件で廃止された。ただし貢租は有償廃止とされた。革命の最初の大きな成果として、封建制・農奴制の廃止が一歩進んだ。

 1789年8月4日国民議会で可決され宣言された、フランス革命の中心的な成果である。農奴制領主裁判権、教会への十分の一税は無償で廃止され、貢租は20~25年分の年貢を一括で支払えば免除されることとなった。つまり貢租は有償廃止と言うことであったので、実際に年貢を一括で支払って土地を自分のものにした農民は少なかった。それでもこの「封建的特権の廃止」によって従来の領主・農奴の身分関係は原則的に解消され、「フランスの国民的統合」がはかられたのであり、フランスは近代国民国家への大きな一歩を踏みだしたと言える。しかし、有償廃止であったので経済的な地主と農民の不平等はなおも残った。フランス革命は1789年の諸改革にとどまらず、一挙に立憲君主政から共和政へと突き進んでいくが、その過程でジャコバン派独裁が成立した1793年に封建地代の無償廃止が決議され、そこで農奴制は完全に消滅する。この課程で身分的・経済的特権を奪われた貴族(封建領主)は次々と国外に亡命しエミグレ(亡命貴族)となっていった。

1789年8月4日の夜

 7月14日のパリでのバスティーユ牢獄襲撃の知らせは瞬く間に全国に波及し、7月20日~8月6日の間、大恐怖と言われる農民反乱が起こった。この動きは貴族・封建領主だけでなく、有産階級である上層ブルジョワジーにとっても大きな危機であった。貴族や大地主は国民議会に対して暴動鎮圧のために軍隊の出動を迫ったが、国民議会はそれはできない。何か別なことで暴動を鎮めるしかない。そのとき、ノアイュとデーギヨンという自由主義貴族が、封建的権利の自発的放棄を提案した。それにならって熱狂的な興奮のうちに貴族や聖職者たちが自発的に「権利の放棄」を誓った。興奮は午前2時までつづき、最後は「人民の父」ルイ16世をたたえる喚声のうちに議会は終わった。成文化されるまで6日間を要し、8月11日に法令となったが、その時には年貢の徴収権については農民が20~25年分の年貢を一括支払いした場合にかぎるという抜け道が準備されていた。この法令によって、一応農民反乱は収まったが、実質的に貢租の負担が残された農民には不満が残った。<河野健二『フランス革命小史』1959 岩波新書 p.46>

封建地代の有償廃止

 フランス革命期の国民議会で、1789年「8月4日の決議」によって封建的特権の廃止が決まったが、そのうちの領主の保有地の地代(貢租)は有償廃止とされた。領主の保有地を保有する農民は、貨幣地代の場合は20年分、生産物地代の場合は25年分を払い、所有権を得ることとなった。なお、領主の直営地(直接に小作農に耕作させている土地)はそのままであったし、領主保有地を保有する地主がその地を小作農に耕作させているのもそのままであった。(小作というのは、封建的な二重の所有ではなく、完全な所有権があり、近代的な契約とみなされていた。)<柴田三千雄『フランス革命』岩波セミナーブックス p.99> → 1793年の封建地代の無償廃止
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