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農奴/農奴制

中世封建社会で領主の土地を耕作し、賦役・貢納の義務を負う半自由農民。

 一般に中世の封建社会での農村の中核となった生産者階級を農奴という。農奴は荘園内の村落に縛り付けられ、領主の支配を受け、完全な自由は認められてはいないが、家族をもち、身の回りの生産用具と若干の保有地をもつことが出来るという面では、古代の奴隷とは異なる。西欧においては、ローマ末期に奴隷の解放が進んで現れてきたコロヌスにその源流を見ることが出来るが、フランク王国以降のゲルマン人社会でも荘園の広がりに伴い、社会の基本的な生産者階級となった。そのような生産のしくみを農奴制、そして農奴制によって成り立っている社会を封建社会と定義する。

農奴の負担

 農奴は重い生産物地代(貢租)を負担する以外にも、領主に対して結婚税、死亡税などさまざまな負担や、領主裁判権に服することなどを強いられていた。領主が生産物地代以外を農奴から収奪することを「経済外的強制」という。

農奴の反乱と地位の向上

 11世紀頃から、三圃制農業が普及し、農業生産力が向上したことによって、農奴の生活も向上したが、貨幣経済が荘園に浸透したため領主は農奴に対する貨幣地代の負担を増やす封建反動が起き、14世紀のイギリスのワット=タイラーの乱、フランスのジャックリーの乱のような農奴の反乱が起こる。反乱そのものは鎮圧されるが、ペストの流行による農奴人口の減少も相まって農奴の待遇を改めざるを得なくなり、その地位は次第に向上し、農奴解放が進んだ。16世紀のドイツでは農奴に対する収奪の強化に反発した農民がルターの宗教改革に刺激されたトマス=ミュンツァーに指導されて蜂起し、農奴制廃止を掲げて領主と戦い、ドイツ農民戦争(1524~25年)を起こした。

再版農奴制

 ところが東ヨーロッパでは、16世紀ごろに再版農奴制といってむしろ農奴制が強化される。その事情は、大航海時代以来、西ヨーロッパで価格革命が進行して、工業化の端緒が開かれて農村人口が急減して都市が勃興した。そのため穀物を始めとする食糧不足が起こり、それを補うために東ヨーロッパの穀物輸入に依存するようになった。それを受けた東ヨーロッパでは、ドイツ東部の農場領主制(グーツヘルシャフト)などで地主(ユンカー)が大農園で農奴を使って輸出用穀物を生産する体制が強化された。このような農奴制再強化の動きを再版農奴制といっている。

ロシアの農奴制

 ロシアでの農奴制の形成はかなり遅く、15世紀後半、モスクワ大公国イヴァン3世のころ、ロシア人農民の中の階層分化が進み、地主と地主に地代を払う農民に分けれ、農民は土地に縛り付けられて恒久的に地代を納めなければならない農奴に転化したと考えられている。また、南ロシアの草原地帯に広く見られるコサックはこのころ、農奴制の締め付けを嫌い、自由を求めて移住した人々の後裔と考えられている。16世紀のイヴァン4世(雷帝)の時代には法令として農民の移動の禁止や逃亡農奴をかくまうことが罰せられるようになり、農奴制が強化された。ロシアの農奴制はロマノフ朝の専制政治(ツァーリズム)を支える社会的基盤となっていった。さらに1723年、ピョートル1世は、税収入をあげるために人頭税を導入した。その際、農奴の人数分は地主の責任で徴収するとされたので、地主は農奴の掌握を強める必要があり、農奴は地主の許可なしにその土地を離れることができなくなった。このように、西欧の農奴制では14、5世紀から農奴の解放が始まったが、しかし、ロシアではむしろ農奴制の強化が進み、17世紀のステンカ=ラージンの乱、18世紀後半のエカチェリーナ2世の時に起こったプガチョフの乱に代表される農奴の反乱にもかかわらず、農奴の待遇はむしろ奴隷に近い状態に逆行した。

農奴身分の解放

 18世紀末のフランス革命での封建的特権の廃止によって、領主に対する農奴の従属や地代を負担などの法的な面での農奴制は否定されたが、これは有償廃止であったので、地代を一括して支払えない農民は農奴身分として残った。革命が進行する中で1793年、ジャコバン政権によって封建的特権の無償廃止が実現し、フランスにおいては農奴制は終わりを告げた。
 その後、西欧世界で工業化が進む中で、自由な労働力が必要とされるようになり、農奴制は崩壊、封建社会から資本主義社会に移行した。しかし、ドイツやオーストリア、ロシアの農奴制のように、19世紀まで存続した地域もあった。オーストリアではすでに早くヨーゼフ2世が1781年に農奴解放令を発布していたが、その死後撤回されており、プロイセンの1806年の農民解放も不徹底なものであった。ドイツ系諸国で農奴解放が進んだのは、1848年の三月革命の時期を待たなければならなかった。さらにロシアでは1862年、アレクサンドル2世農奴解放令を出し、農奴は法的には解放された。たが解放された農奴は実質的には小作として地主に対する重い負担を継続することになった。
 ロシアにおいてはロシア革命(第2次)でのレーニンの土地についての布告で地主の都市所有が禁止されて、封建的土地所有関係は終わった。なお日本では明治維新の地租改正で近代的土地所有の原則が出来たが、農民の多くは小作農としてとどまり、重い小作料の負担が続き、ようやく第二次世界大戦後の農地改革によって自作農が創設され、封建的な土地所有関係は一掃された。

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