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黒死病/ペストの流行

14世紀中ごろ、ヨーロッパで大流行した疫病は黒死病と言われ、ペストと考えられる。百年戦争の最中であった西ヨーロッパでは人口の3分の1が死んだと言われ、人口減少から封建社会の変質の一つの要因となった。人類の歴史上最大の疫病の世界的、爆発的発生(パンデミック)であって、その後もたびたび世界的な流行があった。

14世紀の大流行

黒死病

1346~1352年 ヨーロッパの黒死病の大流行
『地域からの世界史13 西ヨーロッパ上』朝日新聞社 p.125 をもとに作図

 1346年から47年にかけて、コンスタンティノープルから地中海各地に広がった疫病の流行は、マルセイユ、ヴェネツィアに上陸、1348年にはアヴィニヨン、4月にはフィレンツェ、11月にロンドンへと西ヨーロッパ各地に広がり、翌年には北欧からポーランドに、1351年にはロシアに達した。発病すると高熱を出し、最後は体中に黒い斑点が出来て死んでいくので「黒死病(black death)」と言われた。恐ろしい伝染力を持つこの疫病は、現在ではペストと考えられている。
 ペストの大流行の発生源は解っていないが、ペスト菌を媒介するノミがクマネズミから人間に移り、伝染させる。クマネズミはもともとヨーロッパにいなかったものが、十字軍の船にまぎれ込んで西アジアからヨーロッパに移り住んできたのだという。14世紀、1348年のヨーロッパで起こった大流行は、現在では中央アジアに始まり、黒海北岸からジェノヴァ商人によってシチリア島に持ち込まれ、そこからヨーロッパ各地に広がったとされている。

黒死病の感染ルート

 13世紀にヨーロッパで流行した黒死病(ペスト)の感染ルートには諸説あるが、有力な者に次のようなコースがあげられている。
 ジェノヴァの商船は東地中海から黒海まで活動の範囲を拡げていった。1347年に黒海の奧のクリミア半島まで行って取り引きをしたが、その際、この病気にかかった。黒海北岸へは、カスピ海北岸からの交易ルートで伝わり、さらに遡ると中央アジアのいずれかに行き着く。このジェノヴァの商船は帰り道、シチリア島に寄港し、そこで上陸した乗組員から島中に広がった。地中海の真ん中にあるシチリア島には当時、各地からの商船が集まっていたので、そこから地中海の港に広がった。まず海港都市ジェノヴァやマルセイユで広がり、翌1348年1月には南フランスのアヴィニヨン、イタリア本土の各都市に広がり、西ヨーロッパ全域に及んで大恐慌をまきおこした。北欧の一部、デンマークの島嶼部やノルウェーには、海路で早く伝染し、ドイツの内陸より早く広がっていることが注目できる。さらに1352年までにロシアも含む東ヨーロッパにも広がった。<村上陽一郎『ペスト大流行』1983 岩波新書/佐藤彰一・松村赳『地域からの世界史13・西ヨーロッパ上』1992 朝日新聞社 p.125/山本太郎『感染症と文明―共生への道』2011 岩波新書 などによる>
※上の地図は、このときの黒死病の発症時期ごとに色分けし、感染ルートを視覚化したものである(原図は佐藤彰一・松村赳『地域からの世界史13 西ヨーロッパ上』1992 朝日新聞社 p.125による。当サイトで色分けしてわかりやすくした)。これを見ると、東方から黒海北岸のクリミア半島に伝播したペストが、商船によって地中海の島々を経て、まずジェノヴァやマルセイユに到達したこと、さらに陸上ルートより、海上交通によって北ヨーロッパに広がったことがよく判る。

資料 ボッカチォの『デカメロン』

(引用)さて、神の子の降誕から歳月が千三百四十八年目に達したころ、イタリアのすべての都市の中ですぐれて最も美しい有名なフィレンツェの町に恐ろしい悪疫が流行しました。それは天体の影響に因るものか、或いは私どもの悪行のために神の正しい怒りが人間の上に罰として下されたものか、いずれにせよ、事の起こりは数年前東方諸国に始まって、無数の聖霊を滅ぼした後、休止することなく、次から次へと蔓延して、禍いなことには、西方の国へも伝染してきたものでございました。
 それに対しては、あらゆる人間の知恵や見通しも役立たず、そのために指命された役人たちが町から多くの汚物を掃除したり、すべての病人の町に入るのを禁止したり、保健のため各種の予防法が講じられたりいたしましても、或いは、信心ぶかい人たちが恭々しく幾度も神に祈りを捧げても、行列を作ったり何かして、いろいろ手段が尽くされても、少しも役に立たず、上述の春も初めごろになりますと、この疫病は不思議な徴候で恐ろしく猖獗になってきました。<ボッカチオ『デカメロン』野上素一訳 岩波文庫 第1冊 p.55-56>
 『デカメロン』はボッカチォが1348~53年の間に書いた物語集で、『十日物語』とも言われる。ペストの流行から逃れてある邸宅にひきこもったフィレンツェの10人の男女が10日間にわたり、1夜にそれぞれが1話ずつ退屈しのぎの話をする形式をとっている。

黒死病の死者数

 大流行は1370年ごろまで続いたが、ヨーロッパ全体での犠牲者は、総人口の3分の1とか4分の1と言われているが、正確な数字は不明である。ある説によると、当時のヨーロッパの総人口約1億として、死者は2500万程度と推定されている。このペストについては、当時の人々は流行の原因がわからず、一部ではユダヤ人が井戸に毒をまいたからだ、などという噂からユダヤ人に対する虐殺が起こったりした。<この項、村上陽一郎『ペスト大流行』岩波新書 による>

ユダヤ人迫害

ユダヤ人迫害

ユダヤ人の焚刑
『ペスト大流行』p.142より

 ヨーロッパにおけるユダヤ人迫害は早くから始まり、13世紀にもイギリスやスペインで大規模な追放や殺害が起こっていたが、黒死病の大流行がさらに拍車をかけた。最初の記録は1348年のジュネーヴに見られるが、「ユダヤ人の受難は、ペストの流行の如き観を呈し」、さらに「伝染病の災禍を凌ぐ激しさ」で全ヨーロッパに広がった。
 アルザスに近いベンフェルトという小さな町で1人の男が、ユダヤ人が自分の使う井戸には蓋をして、外に出ていた置き水のバケツを室内に取り込んだ」のを見たと証言し、町民会議はそのユダヤ人が井戸に毒を流したと告発された。
(引用)町民は犯人と目されたユダヤ人を処刑する死刑執行者にこぞって志願した。ユダヤ人狩りが始まり、ゲットーは焼き討ちに見舞われた。何も知らないユダヤ人たちが刑場で、町角で、正式に、非公式に、処刑された。処刑された死体は、次々にブドウ酒の樽に詰め込まれ、ラインの河底に沈められた。自警団が組織され、当局は、焼き討ちにあったゲットーへの立ち入り禁止を命じた。どちらも秩序保持のためではない。自警団はユダヤ人のほしいままの私刑のためであり、立ち入り禁止の措置は当局者たちが、焼き打ち地区のユダヤ人の目ぼしい財産を独り占めしようとする魂胆からであった。<村上陽一郎『ペスト大流行』1983 岩波新書 p.147-142>
 ストラスブールでも全く同じ事態が起こった。ユダヤ人で殺戮された人々の数は二千人を超えた。そして、キリスト教とのユダヤ人に対する借財や負債はすべて棒引き、というお触れが発布された。ユダヤ人の金貸し行為が怨恨の感情を醸成していた。これがキリスト教徒の名において正当化され、ユダヤ人の殺害や焼き打ちに際して必ず名目的にせよ、ユダヤ教からキリスト教への改宗の強要があった。ローマ教皇はユダヤ人の迫害を許容したわけではなく、クレメンス6世は禁令を出しているが、当時は教皇はアヴィニヨンに幽閉されている状態だったので、その威令は行き届かなかった。

黒死病の影響

ルネサンス 14世紀前半は、北イタリアにおいて、ルネサンスといわれる文芸や美術での動きが活発となっていた時期であった。このときのフィレンツェにおける流行の様子は、ボッカチォ『デカメロン』にくわしく描かれている。またこのころ、ヨーロッパ各地の教会や墓所には「死の舞踏」と言われる壁画が造られた。死に直面した多くの人が、改めて“死を忘れるな”(メメント・モリ)と強く意識されたことが表されている。教皇や教会も黒死病の前には無力であることが明らかになり、その権威を失っていった。一方、農民の労賃が上がったことは農民の流動性を高め、人材の払底によって新しい人材が登用されることによって新しい価値観も生まれた。
百年戦争 当時のヨーロッパは百年戦争の最中であり、英仏両国にも伝染し、戦局に大きな影響を与えた。戦争の惨禍と黒死病の流行は社会不安を増幅し、1358年のフランスのジャックリーの乱1381年のイギリスのワット=タイラーの乱という農民反乱の背景ともなった。

封建社会の変質

POINT 農奴制の変質 世界史上は、14世紀の黒死病の大流行が、ヨーロッパの封建社会に大きな影響を与えたことである。封建社会は、領主農奴の賦役労働によって荘園を経営するという領主―農奴関係が基本であった。10~11世紀ごろから三圃制の普及などの生産技術の発展にともない、貨幣経済が発展し、農奴は領主の荘園で賦役労働に従事するのではなく、一定の耕地を耕し、貨幣収入を得て貨幣地代で納めるようになっていた。また余裕のある農民の中には、労賃を得てはたらくものもあらわれていた。このような荘園への貨幣経済の浸透は領主の生活を脅かしていた。
農奴の待遇改善と封建反動 そのような中で14世紀に起こった黒死病の大流行による農奴・農民の人口の激減は、彼らの待遇を良くしなければならなくなり、また労賃も値上がりした。そのためやがて領主は農奴にたいする強制を強めるようになった(この動きを封建反動という)。
農奴解放の動き それに対して農奴はさらに反抗して農奴解放による自由を求めるようになった(つまり社会的矛盾が深刻になった)。この動きは農民一揆として長期的に続き、徐々に農奴から解放され、自由を獲得したて自営農民となるものも現れた。このような動きが14~16世紀にヨーロッパ各地に広がった封建社会の崩壊の意味であり、中世から近世・近代に歴史が動いていく背景であった。

14世紀以後のペスト

 ヨーロッパで黒死病と言われた疫病は間違いなくペストであるが、ペストの世界的な流行はそれ以前も以後も、幾度か繰り返されている(下の「世界史の中のペスト」参照)。
 14世紀の中ごろ、イスラーム圏のエジプトを中心としたマムルーク朝にもペストが広がり、人口が減少し、その国力が衰えるきっかけとなった。同じく14世紀には、元朝末期の中国の浙江流域で大流行が起きている。
 14世紀の大流行の後には、17世紀にヨーロッパ全域で大流行している。特に1665年のロンドンで大流行し、『ロビンソン=クルーソー』で有名なイギリスの作家デフォーが『疫病流行記』という記録を残している。ニュートンもこのとき感染をさけて故郷に疎開し思索にとつとめたという(下掲)。
 ペストの最後の大流行は19世紀末に起こった。このときは中国から始まり、アジアで急激に広がり日本にも伝わった。しかし、1894年、流行の中心地香港に派遣された北里柴三郎がペスト菌を発見し、ノミがネズミから病原菌を人間に伝染させることが判明した。この流行は1910年代に収束したが、このときの北アフリカ・アルジェリアにおける流行を題材としたのが、アルベール=カミユの『ペスト』である。

Episode ニュートンの創造的休暇?

 1665年のイギリスでのペストの大流行が、科学の歴史上きわめて重要な副産物を残したとされている。というのは、ニュートンはこのときケンブリッジのトリニティ=カレッジを卒業したが、大学がペスト流行の凄まじさのために休校を繰り返していたので、しかたなく故郷の田舎に帰り、ぼんやりと日を過ごすうちに、光の分光的性質と、重力の逆二乗法則を、そしてさらに微積分計算の基本的アイデアを発見したと言われているからである。この「已むを得ざる」休暇とか、「創造的休暇」と呼ばれるエピソードはペストのもたらした最も大きな成果と伝え継がれてきたた。この話はニュートン自身が後年ライプニッツと微積分法の発明の先取権を争ったときに自ら証言したことであるが、どうやらよくある英雄譚の一つであるようだ。<村上陽一郎『ペスト大流行』岩波新書 p.180-181>

世界史上のペスト

世界史上では、感染症ペストが14世紀のヨーロッパだけでなく、たびたび爆発的流行をみせている。

 ペストは感染症としては古くから流行を繰り返していた。最近の遺伝子研究、感染症研究で明らかになってきたことを、<山本太郎『感染症と文明―共生への道』2011 岩波新書 p.55~75>などをもとにまとめると次のようになる。

中国発のペスト

 2010年10月に発表された国際研究チームによる論文によると、世界各地から収集した17株のペスト菌の遺伝子配列から、共通祖先が中国にあって、そのペスト菌が「絹の道(シルクロード)」を通してユーラシア大陸西側にも達した可能性が高いという。さらに明代(1368~1644)の鄭和の大航海(1371~1434)もペスト拡散に寄与した可能性があることを報告している。ユーラシア大陸と大洋を横断する交易路の発達による相互の交流の質的、量的変化によって、もともと中国の原始疾病であったペストが拡散したと考えられる。(2020年の新型コロナウィルスの拡張も同様だと言うことか)

「ユスティニアヌスのペスト」

 絹の道をつうじて西に広がったペストはまず、542~750年に東ローマ帝国の都コンスタンティノープルを繰り返し襲い、ユスティニアヌス帝のローマ帝国復興の夢を挫折させた。特に542年の流行は「ユスティニアヌスのペスト」と呼ばれ、最盛期にはコンスタンティノープルだけで一日1万人が死亡したという。地中海世界の人口は紀元初期に3300万だったのが、600年の間におよそ1500万減少し1800万になったが、繰り返し襲ったペストがその原因の一つだったことは間違いない。

隋のペスト

 中国では、の末期の610年にペストが流行したことが記録されており、618年に滅亡、その後半世紀の間に少なくとも7回流行し、東ローマ帝国の衰退と同じ時期に東西同時に流行が起こっている。

一時姿を消したペスト

 ところが、750年ごろを境に、地中海世界では突然、ペストは姿を消す。これは中世の温暖期(800~1300年)という気候変動と関係があるらしい。その次の小氷期と言われる寒冷期に、ヨーロッパでは再びペストが流行する。それはペスト菌の宿主であるクマネズミ(その血を吸った蚤が人を吸血すると感染が成立する)が本来草原に住んでいたのが気候変動によって生息域を変化させたことと関係があるという学説(異論もある)がある。

交通の発達と人口の増加

 恐らく疫学的なバランスが成立して流行は収まったが、11~14世紀に再び混乱する。その要因は、ユーラシアの東西で人口が急増、中国では1200年ごろに1億を超え、ヨーロッパでは1500万も減少した人口がその後の7百年で7000万と4倍近く増加したことと、大陸を結ぶ交通網がキリスト紀元ごろと異なる規模で発達、モンゴル帝国の成立でユーラシアを横断する隊商交通網が成立し中国全土、ロシア、中央アジア、イラン、イラクを含む版図が交通もで結ばれるようになったこと、の二点が考えられる。
(引用)交通の発達と人口の増加は、いつの時代においても疫学的平衡に対する最大の撹乱要因である。15世紀に始まった大航海も、20世紀の航空時代の幕開けも、同じように疫学的撹乱をもたらした。<山本太郎『感染症と文明―共生への道』2011 岩波新書 p.63>

14世紀のペスト(黒死病)

(引用)中世におけるペストの流行の起源についてはいくつかの説があるが、最初の発生が中央アジアであったという点では一致している。そこから中国に向かい、1334年、中国の浙江流域で大流行が起きている。さらに天山山脈の南北を経由してクリミア半島に至り、海路ヨーロッパへ運ばれた。ヨーロッパへ運ばれたペストは、その後半世紀にわたって人々を恐怖の底に叩き込んだ。この流行によって亡くなった人の数は2500万とも30000万人ともいわれる。ヨーロッパ全人口の3分の一から4分の1にも達した。<山本太郎『感染症と文明―共生への道』2011 岩波新書 p.64>
 「ペスト後」のヨーロッパは、恐怖の後、気候の温暖化もあって、ある意味では静謐で平和な時間にルネサンスの盛期を迎える。同時にヨーロッパ社会は、まったく異なった社会へと変貌し、強力な(近代)国家の形成を促し、中世は終焉を迎える。ペストの流行を境にヨーロッパの疾病構造も変わった。最も目立つのはハンセン病の減少と、結核の増加である。ヨーロッパの都市化が結核を増加させ、結核によってハンセン病患者が死んだので少なくなったと考える研究者もいる。

17世紀のロンドンのペスト

 1665~66年にかけてイギリスで流行が起こり、ロンドンでは約10万人の死者が出た。「捜査員」――しばしば文字の読めない老婦人だった――は病人を見つけ出すと家に閉じ込め「我に慈悲を」という言葉とともに、ドアに赤い×印をつけた。(ニュートンの「創造的休暇」とも「已むを得ざる休暇」とも呼ばれたのはこのとき。)これはイギリスでの最後のペストの流行となった。

三十年戦争とペスト

 三十年戦争は南ドイツにペストをもたらした。ペストが大きな犠牲をもたらしたあとの1633年、バイエルンの小さな田舎町オーバーアマガウでは、これ以上の犠牲者を出さないように主イエスキリストの受難と復活の物語を10年に一度、ペストで亡くなった人々の眠る墓の上に作られた舞台で演じるようにした。それ以来この村ではペストで死亡した住民はいない。
 1720~22年にかけてマルセイユで起きた流行を最後に西ヨーロッパではペストの爆発的流行は終わりを告げた。都市の整備が進んだこと、クマネズミがペストに対する抵抗力を獲得したこと、気候変動、検疫などが理由としてあげられるが、真の原因は今にいたるまで謎のままである。

近代アジアのペスト

 西ヨーロッパ以外ではペストの流行は続いた。1894年に中国の広東、香港に始まり、日本では1899年、台湾から神戸に来港した船舶によってもたらされた。さらに航路で北米にもたらされた。その後、日本では1900年、1905~10年と大きな流行が見られたが、1929(昭和4)年を最後にしてペスト発生はない。明治時代半ばに神戸や横浜に海港検疫所が開設された。検疫は数度にわたりペストの上陸を未然に防いでおり、そこで活躍したのが若き日の野口英世だった。アメリカでは1906年、大地震後のサンフランシスコ、1924年のロサンゼルスで再びペストが大流行した。これは北米における移民政策と植民地主義のもとで展開された、太平洋航路という新たな交通路の整備が背景にあった。<山本太郎『感染症と文明―共生への道』2011 岩波新書 p.75>

参考 感染症と文明

 ヨーロッパで黒死病が大流行した14世紀は、大航海時代の前ではあるが、地中海でのイタリア商人による活発な商業活動、さらに東方の商品が海上交通で北ヨーロッパに運ばれ、ユーラシア大陸ではモンゴル帝国の成立、十字軍の派遣などで遠隔地を結ぶ交流がすでに行われていた。このような人類の商業活動・交通の発達を「文明」というならば、まさに文明が感染症を世界的流行をもたらしたと言うことができる。
 これから約150年後、コロンブスに始まる大航海時代には、旧大陸から天然痘やインフルエンザが新大陸に持ち込まれインディオの激減の要因となった。また新大陸から旧大陸に梅毒がもたらされ(これについては否定的見解もある)、いわゆる疫病交換がおこったともいわれている。第一次世界大戦末期にはスペイン風邪の大流行があった。
 2020年の新型コロナウィルスが航空機(あるいはクルーズ船)で世界に拡散、しかも黒死病の頃と比較できない早さでパンデミックとなったこと、黒死病の時と同じようにみんなが門を閉ざして家に閉じこもった体験は、まさに私たちも世界史の中にいる実感となったのではないでしょうか。歴史に学ぶことによってコロナ禍をどう受け止めるか、ヒントになるだろう。黒死病の流行の時のユダヤ人迫害のような、“元凶探し”の愚行は避けなければならないが、大きく捉えれば封建社会が崩れ近代社会への転換をもたらしたのと同じような、大きな社会的変動に向かっていくことも予想しなければならないだろう。当面はコロナ禍による経済不況が失業や貧富の差の拡大を深刻化させないよう、国が対策を立てることが必要であるが、世界的には自国第一主義、孤立主義に陥ることを避け、経済優先、成長第一のいわゆる新自由主義的発想から転換する必要があるのではないだろうか(2020/5/29記)。
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書籍案内

村上陽一郎
『ペスト大流行』
1983 岩波新書

コロナ禍から37年前の本だが、ペストを単に病気として捉えるのでなく、世界史上の出来事として社会、宗教の側面からも活写した名著。今でも光を失っていない。


山本太郎
『感染症と文明―共生への道』
2011 岩波新書

2011年刊だが、現在の水準で感染症の歴史をわかりやすく説明。黒死病の節も要を得ている。コロナについては触れていないが、感染症と共生をするという意味が理解できる。

ボッカッチョ/河島英昭訳
『デカメロン』上
1999 講談社文芸文庫

文庫本には岩波(野上素一訳)の他に、手にしやすいものとして、この講談社文芸文庫版(河島英昭訳)、ちくま文庫版(柏熊達生訳)、河出文庫版(平川祐弘訳)がある。

岡田晴恵
『感染症が世界史を動かす』
2006 ちくま新書

時の人、岡田晴恵教授が2006年に新型インフルエンザの大流行を予言し、世界史上の黒死病、梅毒、スペイン風邪などの歴史をわかりやすく解説。新型コロナ発生以前に読むべきであった。

W.マクニール/佐々木昭夫
『疾病と世界史』上下
2007 中公文庫

原書は1976年発表。定評ある疾病史。ペストについてだけ見るなら下巻。

アルベール=カミユ
/宮崎嶺雄訳
『ペスト』
1969 中公文庫

佐藤彰一・松村赳
『西ヨーロッパ 上』
地域からの世界史13
1992 朝日新聞社