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ロンドン

現在のイギリスの首都ロンドンは、ローマ時代には属州ブリタニアの中心ロンディニウムとしてローマ人が建設した。ローマ帝国の属州ブリタニアの中心都市として整備されたが、410年にローマが撤退しアングロ=サクソン諸国の支配が始まる。中世にはイングランド王国の都として繁栄。イギリスの帝国化に伴い、世界経済、国際政治の中心として重要な都市となった。

ロンドン GoogleMap

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ロンディニウム

ローマ時代

 イギリスの地名にはケルト人に由来するものが少なくない。London は、ケルト系の人名または部族名 Londinos (原義「剛勇の者」)にちなむ。またロンドン市中を流れる Thames (テムズ川)はケルト語で「薄暗い川」を意味する。<寺澤盾『英語の歴史』2002 中公新書 p.53> ※地名ロンドンの由来には異説もある(下を参照)
 現在のロンドンは、ローマ帝国属州であったブリタニアの統治のため建設されたロンディニゥムに始まる。タキトゥスの『ゲルマニア』には、商業の中心地として出てくる。現在のロンドンの中心部シティ一帯がそれにあたるらしく、地下からローマ時代の城壁のあとが見つかっているという。

参考 ロンドンに残るローマ

 ロンドンという地名の由来には、ケルト語の「リン(湖)」と「ダン(砦)」からできた、という説がある。ローマ人が沼地を埋め立てて建設した砦がその始まり。ロンディニウムを中心に道路がしかれ、ローマのブリテン支配の拠点とされた。62年にブリテン人の反乱(ブーディカという女性に率いられた)があって町は灰燼に帰し、今でもその時の瓦礫や骸骨が地下から見つかることがある。その後本格的な都市建設が始まり、壮大なバジリカやフォーラム(広場)、公共浴場、円形劇場などが建造された。またロンドン港からはローマに向けて穀物や海産物が積み出された。190年には市街の周囲に高さ6mの壁が建造された。しかし、410年にはローマ人は撤退し、一時衰え、601年にローマ教皇がイギリス人のキリスト教化の拠点として大司教を派遣し、このころからロンドンバラ、あるいはロンドンと言われるようになった。(しかし大司教座はロンドンではなく、カンタベリーに置かれた。)<ジョン・フォーマン『とびきり不埒なロンドン史』1999 筑摩書房より>

ロンドン(中世)

アングロ=サクソン系のイングランド王国の首都ロンドンとなり、代表的な中世商業都市として発展し、ハンザ同盟の商館も置かれた。

中世のロンドン

 ローマ時代に、属州ブリタニアの中心都市ロンディニウムとして建設され、ローマによる支配の拠点となった。410年にローマが撤退した後はアングロ=サクソン人がブリテン島に進出し、七王国を作ったが、829年には、その一つのウェセックス王エグバートがほぼ統一し、イングランド王国と言われるようになり、ロンドンはその中心都市となった。
 しかしそのころ、北欧からのデーン人ヴァイキング)の侵攻が激しくなり、一時はロンドンも彼らに占領された。886年、イングランド王国のアルフレッド大王がロンドンを奪回した。ロンドンはテムス川の中流にあり、中世には水運が発達した。イングランド王国の首都としてのみならず、北海商業圏の一角の商業としても繁栄し、12世紀にはハンザ同盟の支店も置かれ繁栄した。

Episode ロンドン、二重の仕組み

(引用)テムズ・ストリートと河の間の小さな路地に、蜂の巣のようにひしめいている倉庫が、海外からの輸入品や食料品の落ち着き先だった。香料の商人、雑貨屋、石炭商人、酒類輸入業者、絹商人などがここに集まっていた。・・・製造業についていえば、造るものによってすべて通りに名前がつけられた。たとえば材木通り、ミルク通り、鍛冶屋小路、携帯電話小路(冗談)といったぐあい。・・・ロンドン市は二重の仕組みで運営された。一つは時の王、もう一つは市長を中心とした自治体制だった(1200年から)。市長というのは、いわば王と市の長老たちとの取り持ち役みたいなものだったが、王の代理人といった役目も果たした。・・・<ジョン・フォーマン『とびきり不埒なロンドン史』1999 筑摩書房 p.60>

参考 ロンドンとはどこのことか

 ロンドンには範囲がない。歴史的に言うとロンドンはその範囲を地図に描くことはできず、ロンドンを統括、支配している人も、ごく最近までいなかった。現在我々がロンドンと呼んでいるところは、世界の金融街として知られているシティ・オブ・ロンドンと、国会議事堂のあるシティ・オブ・ウェストミンスターという二つのシティが含まれており、シティでなかった周辺の広大な範囲に及んでいる。ロンドン全体の行政を管轄する人というのは最近まで置かれず、ロンドンの範囲は交通局と水道局で違うという状態だった。だから、ロンドンの歴史を書く歴史家は、私の考えるロンドンの範囲はこうです、と言わなければならないという変な話になっている。近世史で最もよく用いられるのが、「死亡表の範囲」である。死亡表とは、16世紀末ごろ、ペストが流行したときから1週間毎の地区別死者数を記録したもので、現在でも人口動態の研究によく使われる資料である。<川北稔『イギリス近代史講義』2010 講談社現代新書 p.98-101>

ロンドン(近代~現代)

近代にはウェストミンスターが政治の中心、シティが世界経済の中心として市域を拡大した。17世紀の大火後に近代都市として再建され、1851年の万国博覧会の開催など繁栄を誇った。

近代のロンドン

 ロンドンは16世紀に人口が急増し、経済の中心であるシティと西南部の政治の中心地ウェストミンスターが繋がり、テムズ川をロンドン橋でわたった南側には新たな商業地サザークが生まれた。17世紀後半には人口50万を超えるヨーロッパ最大の都市に成長した。
 ピューリタン革命の時期には市民の力を背景に、議会派の拠点となって政治的役割が強くなった。王政復古期の1662年にはロンドン王立協会が設立され、17~18世紀の科学革命を推進する拠点となった。しかし、1665年にはペストの大流行、1666年にはロンドン大火という災害を経験した。その後の都市再建の過程で木造建築を禁止するなど、新しい都市計画が実施され、近代的な都市となったが、並行してイギリスの国力が伸張し、ロンドンは国際政治の上でも重要な都市となっていった。
 産業革命はイギリスを「世界の工場」にのし上げ、ロンドンはその中心都市として繁栄したが、反面、郊外にスラムが発生し、都市問題が深刻となった。それでもヴィクトリア朝のイギリスの繁栄を象徴するロンドン万国博覧会が1851年に開催され、世界に先進的な工業力を誇った。このような国力の充実を背景に、1884年にはロンドン郊外のグリニッジ天文台を通る子午線を原初子午線とすることが国際的に認定され、まさに世界の中心として位置づけられることになった。なお、1836年に創設されたロンドン大学は、中世以来のオックスフォード、ケンブリッジの閉鎖性を批判し、市民に開かれた大学として労働者や女子を積極的に受け容れた。
 この間、ロンドンは、1827-31年のロンドン会議、1840年のロンドン会議、1930年のロンドン軍縮会議、1933年のロンドン世界通貨経済会議などの国際会議の舞台となった。
 ナポレオン戦争、第一次世界大戦を通じて、大陸側の敵国の侵入を許さなかったイギリスであったが、第二次世界大戦ではドイツ空軍による激しい空襲(バトル・オブ・ロンドン)を経験し、大きな被害を受けた。それでもドイツ軍はブリテン島への上陸はできず、ロンドンは占領を免れた。
 ロンドンは、1908年(第4回)、1944年(第13回=戦争のため中止)、1948年(第14回)、2012年(第30回)のオリンピック開催都市となっている。世界的な観光都市としても依然として賑わっているが、同時に移民の増加による多民族化が進み、2017年には中心部でテロ事件が起きるなど不安材料も多く、イギリスのEU離脱の背景となっている。
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書籍案内

ジョン・フォーマン
『とびきり不埒なロンドン史』
1999 筑摩書房

川北稔
『イギリス近代史講義』
2010 講談社現代新書

見市雅俊
『ロンドン=炎が生んだ世界都市』
1999 講談社選書メチエ