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ロンドン会議/ロンドン軍縮会議/ロンドン海軍軍縮会議

1930年、ワシントン会議に続く海軍軍縮のための国際会議。米英日三国間の補助艦の比率をほぼ10:10:7と定めた。1936年に日本は会議を脱退し、会議は期限切れとなって消滅した。

 1930年1月~4月、ワシントン海軍軍備制限条約の期限が切れたためその更新と、補助艦の制限問題について開催された会議。補助艦とは巡洋艦、駆逐艦、潜水艦のこと。その制限については、1927年にジュネーヴ海軍軍縮会議を開催したが、仏・伊は参加を拒否し、英・米の意見が対立したため、失敗していたので、イギリス・アメリカ・日本・フランス・イタリアの5ヶ国が参加した改めて話し合うこととなった。会議はイギリスのマクドナルドが提唱し、日本は若槻礼次郎首席全権、海軍大臣財部彪らが参加した。ロンドンのイギリス議会議事堂で開催された会議は難航したが、4月22日、補助艦と主力艦を切り離した次の合意が成立した。

ロンドン海軍軍縮条約

  • 補助艦制限について英と仏・伊が対立、仏・伊は途中で脱落したため、米・英・日の三国で協定が成立し、米・英10に対して日本は約7(6.97)の比率とすることが定められた。有効期限は1936年までとされた。
  • 主力艦については5ヵ国が建造停止を5年間(1936年まで)延長することで合意し、さらに米・英・日は主力艦を15隻・15隻・9隻に削減することで合意した。
 当時すでに前年に世界恐慌が始まり、三国とも軍事費削減が迫られていたので話し合いがまとまったのであるが、イギリスと日本では対アメリカの比率で不満が大きかった。

日本の統帥権干犯問題

 ロンドン海軍軍縮条約が難航の末、合意されたことは、日本政府の良識ある妥協として国際社会では高く評価された。また、軍備拡張が財政を圧迫していた日本では、財界や国民一般にも支持する意見が多かった。しかし、軍部(特に海軍)・右翼は浜口雄幸首相と若槻礼次郎外相の国際協調外交を「軟弱外交」であるとして強く非難した。彼らが持ちだしたのが、いわゆる統帥権干犯問題であった。統帥権とは天皇のもつ軍事統制権であり、それを執行するのが軍であるから、政府が軍備について外国と協定を結ぶことはそれを犯すものであるという主張である。文民統制=シビリアンコントロールを全面否定するこの論理に、政府・国民も反撃できないでいるうちに、調印を強行した浜口首相が1930(昭和5)年11月14日、右翼によって狙撃される事件が起きた。
 このような情勢を背景に、日本軍は政府の統制を離れて独自の行動を強め、翌1931年9月の柳条湖事件を契機として満州事変をおこし、一気に日中戦争へと向かっていくこととなった。

海軍休日の終わり

 1922年に成立したワシントン海軍軍備制限条約によって、第一次世界大戦前の建艦競争が終わり、軍縮の時代に向かったことは、「海軍休日(または建艦休日)」といわれ、国際協調の理念の証ともされた。1930年のロンドン海軍軍備制限条約は、世界恐慌で苦しむ各国の経済安定を回復するものとして評価された。
 しかし、1930年代にドイツにファシズム、日本にも国家主義・軍国主義が急速に台頭した。日本は1934年12月3日、単独でワシントン海軍軍縮条約を破棄し、さらに1935年にロンドン軍縮会議からの離脱を決定、1936年12月にはワシントン・ロンドン両条約とも満期となり、軍縮時代は終わりを告げ、1937年からの日中戦争、39年の第二次世界大戦、41年の日米開戦へと突き進んでいく。軍縮という国際協調、集団安全保障の努力は報われることはなかった。このようなことが再び起こらないようにするには、軍縮を嫌がり抵抗する軍人を国民の立場からおさえて実行するという、平和維持に向けての「文民統制」が絶対に必要だ、ということであろう。戦争は軍人に任せておけない、というクレマンソーの名言を忘れないようにしよう。
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