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ティルジット条約

1807年、フランスのナポレオンが、プロイセン・ロシアと締結した条約。プロイセンの領土を大幅に削ってウェストファリア王国・ワルシャワ大公国が作られ、ナポレオンの大陸支配が成立した。ロシアには大陸封鎖令の遵守を約束させた。

 1806年10月のイエナの戦いプロイセン軍を破ったフランスのナポレオン1世は、プロイセンの首都ベルリンを占領、その地でヨーロッパ最大の敵対国であるイギリスを追いこむために同年11月にベルリンで大陸封鎖令を出し、イギリスとの貿易を全面的に禁止した。さらに1807年6月にフリートラントの戦いでロシアアレクサンドル1世を破った。それらの戦いの講和条約としてティルジット条約を締結した。ティルジットはリトアニア人の居住地であるが、当時はプロイセンとロシアの国境であったネマン川左岸の小都市で、第二次世界大戦末期にソ連領となってソヴィエツクと改称、現在もロシア飛地のカリーニングラード州に属している。
 条約はロシア・プロイセンと個別に、1807年7月7日に対ロシア(第一次ティルジット条約)、9日に対プロイセンとの間で締結(第2次ティルジット条約)された。「ティルジットの和約」ともいう。厳密にはフランスとロシア、プロイセンがそれぞれ別個に締結したものだが、通常は一括してティルジット条約としている。ロシアはアレクサンドル1世、プロイセンはフリードリヒ=ウィルヘルム3世が署名した。同年7月9日の第二次条約の締結の際には、ティルジット講和条約の締結式典がネマン川の筏の上でナポレオンとアレクサンドル1世が会見して執り行われた。この式典はこの二人でヨーロッパを二分したという印象をあたえる演出となった。つまり、プロイセンは敗戦国と認識されたが、ロシアはフランスと対等な関係にあると意識された。

プロイセンとロシアの譲歩

この条約で、プロイセンとロシアがナポレオンのフランスとの間で強いられた譲歩は次のような点であった。
・プロイセン……領土面での次の譲歩。
  1. プロイセン領のエルベ川左岸を割いてウェストファリア王国をつくり、ナポレオンの弟ジェロームを国王とすること。
  2. プロイセン領ポーランド(ポーランド分割によって獲得していた地域)はワルシャワ大公国とし、ザクセン王が支配すること。
  3. ダンツィヒ(ポーランドの主要港)は自由市とすること。
 プロイセンは他に、賠償金の支払いとエルベ以西をフランスに占領されるという大きな譲歩を強いられた。
・ロシア……大陸封鎖令に従うことを約束した。
ナポレオンの大陸支配の成立  ナポレオンはこのとき、ウェストファリア王国の国王に一族のジェロームをあてた以外にも兄ジョゼフをナポリ王国、弟ルイをオランダ王とすること承認された。この条約によってナポレオンは大陸支配を完成させたということができる。
 プロイセンはイエナの戦いのでの敗北とこの条約締結は、首都ベルリンをナポレオンに占領されたことと相俟って大きな屈辱として受けとった。プロイセンの宮廷ではこれを「ティルジットの屈辱」と呼んで、再建のための国内改革(プロイセン改革)を開始することとなる。哲学者フィヒテは「ドイツ国民に告ぐ!」の講演を行い、ドイツ国民精神の覚醒を促した。
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