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グレイ

19世紀前半のイギリス・ホイッグ党政治家。1832年の第1回選挙法改正や翌年の一般工場法の制定などを実現し、自由主義的改革を進めた。

 グレイ Charles Ⅱ Grey 1764-1845 イギリスのホイッグ党(自由党)の政治家で、1830年~34年の間首相を務め、第1回選挙法改正一般工場法奴隷制度廃止法の制定などの自由主義的改革を進めた。その改革は、次のピール内閣の穀物法廃止、グラッドストン内閣の第3回選挙法改正などと列び、19世紀イギリスの三大改革政権の嚆矢とされている。

第1回選挙法改正

 産業革命の進行によって産業資本家層(ブルジョワジー)の選挙権を要求する運動が次第に強まり、ナポレオン戦争後にはその動きを無視できない状況となっていた。ピットに代表されるトーリ政権は選挙法改正を拒否していたが、ホイッグ党の指導者フォックスが強く選挙法改正を主張し、その後継者となったのがグレイであった。
 グレイはホイッグ党の下院議員であったが、1807年に父親の初代グレイ伯爵の死去に伴って爵位を継承し、上院議員となった。1830年11月、選挙法改正を拒否していたトーリ党のウェリントン内閣に対する不信任決議が成立し、内閣を組織することとなった。グレイは直ちに中世以来の選挙資格と選挙区割りを改正し、選挙権を商工業者に拡大し、腐敗選挙区を廃止する法案を作成、翌1831年3月に議会に提案した。

解散して信を問う

 第1回選挙法改正案に対しては、トーリ党上院(貴族院)を拠点に徹底して抵抗し、最初の採決では下院でも否決された。グレイは内閣の信を国民に問うためいったん総辞職して下院の総選挙に打って出た。9月、そこで選ばれたあらたな下院で法案は可決されたが、貴族院側(選挙で選ばれたのではない世襲議員からなる)はなおも抵抗し法案を否決した。しかし、議院の外では、グレイ内閣を支持する中産階級の市民が盛んに運動し、また労働者層はグレイ案よりも徹底した普通選挙を要求して運動を起こし、各地で民衆と軍隊が衝突する事態となった。
 グレイは国王ウィリアム4世に対し、法案に賛成する約50名に新たに爵位を与え、貴族院議員に任命するよう迫った。国王がそれを拒否するとグレイは辞任し、ウェリントンに再組閣を命じたが、議会外の民衆運動が収まらず、ウェリントンは政権を断念、結局国王はグレイの要請を受けいれて政権復活を認めざるを得なかった。貴族院側もこのグレイの強硬な姿勢を見て妥協せざるを得ないと判断、トーリ党の議員の大半は採決を欠席したため、選挙法改正法案は1832年6月7日に無事通過、成立した。
 グレイが国王と貴族院に対し「脅迫」したことが効を奏し、実際には「大量叙爵」なしに第1回選挙法改正は実現したが、それを成功させたのはグレイ内閣を支持する民衆運動であった。なお、「大量叙爵」によって国王や貴族院を屈服させた例は、後のロイド=ジョージによる貴族院改革(1911年の議会法)の時にも見られる。

自由主義的改革

 その他、グレイ内閣の時に進められた自由主義的改革には次のようなものがあった。1833年に成立した一般工場法によって、児童労働の制限と労働監督官の設置などが実現し、同年の奴隷制度廃止法ではイギリス本国及びその植民地(つまりイギリス帝国全体で)での同例制度の全面的な禁止を実現した。その他に、救貧法の改正、都市自治体法(住民税を支払うものを積極的に市町村行政へ関わらせる法律)などが成立した。しかし、1834年、ホイッグ党の右派が政権から離れ、7月にグレイ首相は政界引退を決意した。

Episode 紅茶アール・グレイの産みの親

Earl Grey
トワイニング社のティーバッグ
に見るグレイ
 第1回選挙法改正を実現させたグレイは政治家として歴史に名を残した人物であったが、紅茶のブレンドの一つである「アール=グレイ」にもその名を残している。グレイは名門の伯爵家に生まれ、22歳で議員となったが、若い頃は社交界で浮き名を流した。茶葉にベルガモットを効かせた独特のブレンドを施し、それは彼の名から「アール(伯爵)=グレイ」と名付けられた。右の図は、紅茶の大手、トワイニング社発売のアールグレイのティーバッグの図柄に見られるグレイ伯爵像。政治家の名前が紅茶の名前になっているのは面白い。<君塚直隆『物語英国の歴史 下』2015 中公新書 p.91>
 イギリスでの茶の流行は17世紀に始まっていたが、名誉革命期に貴族社会に広がり、産業革命期には一般大衆にも広く愛好するようになっていた。19世紀前半のグレイの時代には、様々な茶葉のブレンドが試みられていた。アールグレイもその一つだった。
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君塚直隆
『物語イギリス史 下』
2015 中公新書