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グラッドストン

19世紀後半のイギリスの自由党の政治家。自由貿易政策を伸張させる。第3次選挙法改正を実現させ、アイルランド自治法の成立をめざしたが保守派の抵抗で失敗。帝国主義競争の激化にたいしてはつねに批判的であった。

グラッドストン
 グラッドストン William Ewart Gladstone 1809-98 19世紀後半のイギリスの、ヴィクトリア朝は典型的な二大政党時代であったが、その一方の自由党を代表する政治家であった。好敵手であった保守党ディズレーリが帝国主義政策を推進したのに対して、19世紀的なブルジョア自由主義の代表的政治家といえる。はじめ保守主義の政治家として出発したが、穀物法廃止に賛成して次第に自由主義貿易を主張するようになる。1860年にはパーマーストン内閣の蔵相として英仏通商条約の締結にあたるなど実績を上げ、1868年(明治元年に当たる)から1894年(明治27年、日清戦争の年)までの間に4次にわたって自由党内閣を組織した。

グラッドストン内閣の仕事

 以下、4次にわたるグラッドストン内閣の業績と問題点を整理すると次のようになる。
  • 第1次グラッドストン内閣(1868~74年):アイルランド国教会制廃止法(69年)、アイルランド土地法(小作人保護を目的とする第一次法、70年)、教育法(70年)、労働組合法(71年)、秘密投票法(無記名投票法、72年)など一連の改革を矢継ぎ早に実現させた。しかし、1874年総選挙で敗れ、ディズレーリ保守党内閣に交替。ディズレーリ内閣のもと、スエズ運河買収、インド帝国成立などのイギリス帝国主義政策が推進される。グラッドストン自由党はそれを批判して1880年総選挙で勝利した。
  • 第2次グラッドストン内閣(1880~1885年):ディズレーリの強硬外交を批判し平和主義、自由主義を掲げる。第3次選挙法改正(84年)を実現し農村労働者にも選挙権を拡大し、有権者を倍増させた。その他、選挙の不正防止や人口比例の小選挙区制を導入し、女性参政権を除き議会制民主主義の基盤を作った。しかし、植民地で盛りあがった反英闘争の対処には苦しんだ。まずアイルランドでは農村不況から土地要求が強まり、第2次アイルランド土地法(81年)で借地権の保護を定めたが、自治要求闘争はさらに激化した。エジプトでは英仏の財政管理に反発したアラービーの反乱が起こった。グラッドストンはエジプトからの撤退を考えたが閣内の強硬派の反対に押し切られイギリス単独で軍事占領した。スーダンでも反英闘争マフディーの反乱が起き、グラッドストンが派遣したゴードン将軍がマフディー軍に殺害され、グラッドストンの援軍派遣が遅れたことが非難された。結局、帝国主義的アフリカ分割に加わることとなり、1884~5年、ベルリン会議にも参加した。
  • 第3次グラッドストン内閣(1886年):アイルランド問題解決は一貫して彼の課題だった。アイルランドの自治権拡大を主張するアイルランド国民党第3次選挙法改正によって議席を増大したのを受けて、アイルランドに議会開設を認めるなどの第1次アイルランド自治法案を提出した。しかし、自由党内のジョゼフ=チェンバレンらがアイルランドの自治に反対して脱党し、自由統一党を結成、自由党は分裂した。保守党も自治に反対したため法案は議会でも否決された。86年7月の総選挙でもグラッドストン自由党は敗北し、第2次ソールズベリ保守党内閣に交替した。自由党は単独では過半数がとれず、アイルランド国民党と連立する道を選択する。
  • 第4次グラッドストン内閣(1892~94年):1892年8月の総選挙で自由党が僅差で第1党となり、グラッドストンは82歳となっていたが首相となった。4度めの組閣、82歳の年齢のいずれもイギリス史上初のことで「老大人 Grand Old Man」と言われた。翌年9月、グラッドストンは新たなアイルランド自治法案を議会に提出、下院では可決されたが、上院で保守党・自由統一党の反対で、大差で否決されてしまった。グラッドストンは上院改革を断行してでも法案を通すつもりであったが、高齢のため指導力が低下し、94年3月、84歳で辞任した。

アイルランド問題

 彼が追求したアイルランドの解放というアイルランド問題の解決は、保守勢力の抵抗でついに生前には実現できなかった。しかし、国民的な課題に対して貴族の既得権に固執する上院に対する批判が強まり、20世紀に入ってから、1911年の議会法制定で上院の権限は大幅に制限され、1914年にはようやくアイルランド自治法が成立することとなる。しかし、第一次世界大戦の勃発によって実施は延期され、さらにアイルランド側の完全独立を求める運動も激化し、その解決は遠のくこととなった。

参考 若き日のグラッドストン

 グラッドストンはリヴァプールの富裕な貿易商人でトーリ党議員の子で、イートン校からオックスフォード大学に入り、古典学と数学首席、学生自治会の議長をつとめた。兄と一緒にヨーロッパ旅行(グランドツァー)を経験したあと、22歳でトーリ党ピール派の議員となった。
アヘン戦争に反対 30歳の1840年4月8日、野党のヒラ議員として、ホィッグ党政権のパーマーストン外相の対中国外交を批判する演説を行った。それはアヘン戦争の開戦の是非を採決する前に行われた。
(引用)たしかに中国人には愚かな大言壮語と高慢の癖があり、しかも、それは度を超しています。しかし、正義は中国人側にあるのです。異教徒で半文明的な野蛮人たる中国人側に正義があり、他方のわが啓蒙され文明的なクリスチャン側は、正義にも信仰にももとる目的を遂行しようとしているのであります。・・・<近藤和彦『イギリス史10講』2013 岩波新書 p.211>
 このように若きグラッドストンはパーマーストンが進めようとしている戦争は「不義にして非道の戦争」であると鋭く非難している。しかし、採決の結果は、開戦賛成(政府支持)は271票、反対は262票、たったの9票差でイギリスはアヘン戦争に突入することとなった。

参考 晩年のグラッドストン

(引用)グラッドストンは1894年(84歳!)まで首相として精勤し、防衛費の増大を阻止し、自由貿易と平和、小さな政府、アイルランド自治のために尽力していた。選挙権が労働者にまで拡大した大衆社会に対応し、鉄道網を利用して全国を演説行脚し、世論を糾合した。オクスフォード大学であれ、マンチェスタ市であれ、ミドロージアン(エディンバラ)であれ、重要な選挙区を選んでみずから立候補し勝利した。政敵にはやっかいな、偉大な老ステイツマン(GOM)であった。<近藤和彦『イギリス史10講』2013 岩波新書 p.244>
 自由党はチェンバレン(ジョゼフ)の分裂以来、単独では過半数をとれずアイルランド国民党との連立で政権を維持していた。しかし、国民党のエリート指導者パーネルがスキャンダルで1890年に失脚すると、グラッドストン=パーネル型の政治路線は新しい動きに対応しきれなくなった。新しい動きは、アイルランドではケルト文化復興に見られるナショナリズムの高揚であり、もはや大英帝国のもとでの「自治」の枠を越える動きとなっていた。グラッドストンの死(1898年)とともに、19世紀型の文明と信仰、自由貿易といった貴族的義務感(きれい事、ノブレス=オブリージュ)による問題解決は困難となり、イギリスはアイルランド問題、貧困問題、植民地問題、国際収支、国防、労働問題、社会主義、ジェンダー(女性解放)といった20世紀の問題に直面していくこととなる。<近藤和彦『同上書』p.246 を要約>
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