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デンマーク戦争

1864年、プロイセン・オーストリア連合軍とデンマークの戦争。デンマーク領のシュレスヴィヒ・ホルシュタインにおけるドイツ系住民の分離運動をめぐり開戦した。ビスマルクの巧妙な外交で、プロイセンは勝利を占め大国化への足がかりを掴み、一方のデンマークは肥沃な国土を失い小国化した。

 1864年に起こった、プロイセン・オーストリア連合軍とデンマーク王国の、シュレスヴィヒ・ホルシュタインをめぐる戦争。デンマークとプロイセン王国はすでに1848年にこの地方の帰属をめぐって衝突しており、そちらを第一次デンマーク戦争という場合は、こちらを第2次デンマーク戦争とも言う。ただし、教科書などで言うデンマーク戦争は、この1864年の宰相ビスマルクが主導してプロイセンの勝利となったこの戦争のことを言う。

シュレスヴィヒ・ホルシュタイン地方

 ユトランド半島の南部、ドイツと接する地方のシュレスヴィヒ・ホルシュタイン地方はデンマーク王国がカルマル同盟の盟主であったころ、その支配下に入り、デンマーク王国のもとで公国として自治を認められていた。北部のシュレスヴィヒはデンマーク人の住民が多数であったが、南部のホルスタインはドイツ系の住民が多く、しかもドイツ連邦にも加盟しているという錯綜した地域であった。
 19世紀の前半、ナポレオン戦争後のウィーン体制の時代でヨーロッパ各地にナショナリズム(民族の独立と統一を求める運動)が強まるなか、シュレスヴィヒ・ホルシュタイン両公国でもドイツ系住民がドイツへの併合・デンマークからの分離を要求するようになった。
 一方、ドイツは1815年にドイツ連邦が成立したが、一つの政府によって統治される統一した国家だったのではなく、多数の領邦・自由都市に分かれている状態だった。その中でもプロイセンとオーストリアの二国が有力な領邦国家としてウィーン体制の中でも重きをなすようになっていた。特にプロイセンは本来のドイツ東部だけでなく西部のライン地方も獲得し、さらにシュレスヴィヒ・ホルシュタインをデンマークから奪う機会を狙っていた。

第1次デンマーク戦争

 1848年革命が全ヨーロッパを覆い、各地でナショナリズムが高揚し、ベルリン三月革命が起こりフランクフルト国民議会が召集されてドイツ連邦は解体された。同年、シュレスヴィヒ・ホルシュタインのドイツ系住民が独立運動を開始し、キールに臨時政府を樹立すると、プロイセン王国はそれを支援する口実で出兵した。その狙いは海港都市キールを獲得することにあった。しかし、プロイセンのバルト海進出を警戒するロシア、イギリスなど介入し、デンマーク支援に動いたため、プロイセン軍は休戦に応じた。この最初の衝突を第1次デンマーク戦争とも言う。
フランクフルト国民議会の無力さ このとき、ドイツでベルリン三月革命によってドイツ連邦に代わって成立していたフランクフルト国民議会は、強くシュレスヴィヒ・ホルシュタインのデンマークからの分離を支持していた。それはこの両公国からも国民議会に代表を送っていたからだった。しかし、プロイセンが休戦に応じ、臨時政府を裏切る形になったため、国民議会及びドイツ民衆は激高した。結局、プロイセンは国民議会を無視、民衆の反対運動も軍隊の力で解散させたので、国民議会の無力さが明らかになり、プロイセンが主導権を握っていることが目立つこととなった。
ロンドン議定書 シュレスヴィヒ・ホルシュタイン問題はヨーロッパの列強も巻き込み、1852年にロンドン会議が開催されロンドン議定書が成立した。デンマーク王国はシュレスヴィヒ・ホルシュタイン公国との同君連合を認められたものの、二公国に独立性の強い自治権を与え、デンマーク憲法を適用しないことを約束、妥協する形となったためプロイセンも撤兵した。

デンマーク戦争

 1863年、デンマークの新国王は、シュレスヴィヒ公国にデンマーク憲法を適用し、併合することを表明した。シュレスヴィッヒの住民は強く反発、ホルシュタインの民衆とともに独自の公を選び、再びキールに臨時政府を樹立した。プロイセンのビスマルクは、ドイツ連邦(1851年にプロイセンの主導で復活していた)のオーストリアとともに、1864年2月にデンマーク領シュレスヴィヒに侵攻を開始した。これがデンマーク戦争(第2次という場合もある)である。デンマーク軍はよく抵抗したが、プロイセン軍は装備の面で数段力を付けており、圧倒的に優勢な戦いを進めた。デンマークは途中、ホルシュタインの放棄を条件に講和を申し込んだが、ビスマルクは応じず、デンマーク軍をユトランド半島の奥まで追いこんだ。デンマークもやむなく敗北を認め、同年10月のウィーンでの会談で、シュレスヴィヒ・ホルシュタインのすべてを放棄し、プロイセンとオーストリアに引き渡すことが決まった。

参考 ビスマルクの外交の勝利

 ビスマルクは後年、当時を振り返って「これは私が最も誇りに感じている外交戦だ」と述懐したという。なぜ、彼はこのデンマーク戦争の勝利を誇りに思い、どのような外交戦を戦ったのだろうか。
 シュレスヴィヒ・ホルシュタインで反乱を起こしたドイツ系住民と臨時政府はビスマルクにただちに支援の軍隊の派遣を要請した。しかし、彼はその要請には応えなかった。他の領邦や野党はこぞってビスマルクを非難したが、動かなかった。しかし彼は別な理由を掲げてデンマークとの開戦に結局は踏み切った。1848年のデンマークとの戦争がロシア・イギリスなど列強の介入を受けて失敗したことを反省し、他の列強から文句の付けられない「正義」の戦争に持ち込んだのだった。
(引用)彼はクリスチャン9世(デンマーク王)の即位を正当なものと認めたうえで、ロンドン条約(議定書)に違反してシュレスヴィヒ併合の動きをとったデンマークに対して、武力行使に踏み切る姿勢を示したのである。かねてからビスマルクは「わが国にとって望ましいやり方でデンマーク問題全体を解決するには戦争しかない」としていたが、このときは沸き起こったナショナリズムの動きに呼応するのではなく、列強間で取り決められた国際秩序を維持するスタンスをとったのである。……  対外的な効果は絶大である。このとき彼は、ロンドン条約に基づく国際秩序を破ったのはデンマークであることを印象づけ、プロイセンは「平和攪乱者」ではなく「ヨーロッパ秩序の共同保証者」との評価を獲得し、他のヨーロッパ列強の介入を(当面の間ではあったが)阻止することに成功したのである。<飯田洋介『ビスマルク』2015 中公新書 p.112-114>
 ビスマルクは「鉄血宰相」というあだ名から軍国主義一本役のような印象を受けるかも知れないが、その真骨頂はここで見せたような巧妙な外交戦だった。感情的なナショナリズムに引きずられた戦争ではなく、「正義」の立ち位置をつくり出すことで戦争に勝つという、ビスマルクの次の普墺戦争、普仏戦争にもその手腕を見ることができる。

プロイセン・オーストリアの対立へ

 デンマークが放棄したシュレスヴィヒ・ホルシュタインは、1865年8月にプロイセンとオーストリアとの間で「ガシュタイン協定」が締結され、シュレスヴィヒをプロイセンが、ホルシュタインをオーストリアがそれぞれ統治することで終結した。しかし今度はビスマルクは、巧みにオーストリアを戦争に追いこんでいく。ホルシュタインの統治をめぐってオーストリアを挑発し、1866年に普墺戦争を戦い、それによってドイツ統一をオーストリアを含む大ドイツ主義ではなく、プロイセンを主軸とした小ドイツ主義によって完成させることとなる。。

小国への道と大国への道

 デンマークは、かつて14世紀のカルマル同盟の時代は北欧の大国であったが、17世紀にはスウェーデンに北欧の覇権を奪われ、さらにウィーン会議の結果、ウィーン議定書でもノルウェーを奪われるなど凋落が続いていたが、このデンマーク戦争によって敗れ、(グリーンランドは領有しているが)ユトランド半島だけの小国になったことを決定づけた。一方のプロイセン王国はシュレスヴィヒ・ホルシュタインを獲得したことによって豊かな北ドイツ平原のほぼ全域を統一的に支配し、次ぎに北ドイツ連邦を実現させ、数年の後には大国フランスとの普仏戦争に勝利して「ドイツ帝国」を誕生させヨーロッパの覇権を争う存在となっていく。
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書籍案内

飯田洋介
『ビスマルク―ドイツ帝国を築いた政治外交術』
2015 中公新書

武田龍夫
『物語北欧の歴史』
1993 中公新書