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アフガーニー

19世紀後半のイスラーム圏で、ヨーロッパ帝国主義の圧力に抵抗するため、民族や宗派の違いを超えてムスリムが団結しようというパン=イスラーム主義を提唱した。イスラーム圏だけでなくヨーロッパにも足跡を残して広く活動し、イランやオスマン帝国領内のエジプト、イスタンブルなどで反帝国主義の運動に大きな影響を与えた。

 19世紀の後半、イギリスなど西欧列強の侵出によって圧迫されていたイスラーム教世界において、民族の違いを超えてムスリム(イスラーム教徒)として団結し、植民地化の危機に抵抗することを説いた。その思想をパン=イスラーム主義(汎イスラーム主義)という。その思想は、中東各地での反植民地闘争、特にイギリスに対する闘争へと展開していったが、彼自身は宗教家、思想家であり、イスラーム改革運動の組織者、あるいは革命家、扇動者はその一つの側面であった。
 アフガーニー al-Afghānī 1838/39~1897 、名前はジャマール=アッディーン=アル=アフガーニー。本来はイラン人でシーア派であったが、アフガーニー(アフガン人の意味)を名乗ったのは、スンナ派であるアフガン(アフガニスタン)生まれであるとすることによって、シーア派とスンナ派の対立を超えて、イスラーム世界を統合するためであったと思われる。アフガニスタンでは彼はイラン人とみられアサダバード生まれとされたのでアサダバーディーとも呼ばれた。

拡がるアフガーニーの活動と思想

 アフガーニーの思想と行動には複雑なことが多く、まとめることは困難であるが、諸書を総合してその主な活動地域ごとにまとめると、次のようになろう。
アフガニスタン アフガーニーは、カーブルでイスラーム神学と哲学を学んだが、そのころアフガニスタンではイギリスの侵略に対してアフガン戦争で抵抗しながら、さらに北方からのロシアの侵出も強まり、いわゆるイギリスとロシアのグレートゲームと言われた抗争が繰り広げられていた。しかし宮廷では政争が繰り返され、アフガーニーもそれに巻き込まれた。
インド アフガーニーは1857年にインドでインド大反乱が起こり、イスラーム教徒・ヒンドゥー教徒が共にイギリスに抵抗し、鎮圧された一部始終を目撃した。やがてイスラーム教国のムガル帝国が滅ぼされ、イギリス植民地と化し、エジプトとインドが共にイギリス帝国主義に支配されたことに激しい敵意を抱いた。
イスタンブルからカイロへ 1869年にはイスタンブルに滞在、折からのタンジマート後半期の改革運動に触れ、トルコ人として活動したが、その言動は保守的なウラマーから危険視され国外追放になった。1871年、エジプトのカイロに行き、約10年活動の拠点とし、イギリスへの反抗と共にムハンマド=アリー朝の専制政治反対、立憲政治の採用などをめざす秘密結社を組織した。エジプト人のムハンマド=アブドゥフらの青年が彼の思想に共鳴し、忠実な協力者となった。1881~82年に、エジプトではイギリス帝国主義による財政支配に抗議したウラービーによるウラービーの反乱が起きる。アフガーニーの思想はこの運動に強い影響を与えた。
パリ さらにヨーロッパに渡り、1884年にパリでムハンマド=アブドゥフと共にアラビア語の政治評論誌『固い絆』を創刊、その頃明確になってきたヨーロッパ諸国の帝国主義に対するイスラーム教徒の団結とイスラーム社会の改革を訴えた。『固い絆』はアフリカからインドネシアまでのイスラーム圏で広く読まれ、影響を与えた。
ロシア アフガーニーはイギリスと闘うためにはロシアの助けを借りことが有利と考え、1887年にはロシアに行き保守派・反動派とも見られる政治家とも接触、イギリスとの戦争をけしかけたが、1877年の露土戦争での勝利にもかかわらず西アジアでは動きが抑えられており働きかけは失敗した。その一方でアフガーニーはイギリスにも脚を伸ばし、スーダン問題でもイギリスの政治家と接触している。
イラン カージャール朝のイランではシーア派の分派の宗教運動であったバーブ教徒の反乱を1848年に弾圧したシャーの宮廷は、19世紀末になるとイギリス帝国主義の圧迫が強まり苦慮していた。そこでアフガーニーを招いたが、その強硬な反英姿勢を恐れ、1890年に彼を追放した。しかし、その思想に共鳴したイランの民衆はアフガーニーの追放に抗議し、アフガーニーの呼びかけに応えてたばこ産業からのイギリス資本の撤退を掲げてタバコ=ボイコット運動が起こった。
イスタンブル 1891年、イランを追われてオスマン帝国のイスタンブルに移り、その地から弟子に指示して、カージャール朝の王を暗殺させるなど、テロの手段もとった。オスマン帝国のスルタン、アブデュルハミト2世は晩年のアフガーニーを一時保護し、そのパン=イスラーム主義を、オスマン帝国の改革に採用しようとした。
アブデュルハミト2世 アブデュルハミト2世は自らをオスマン帝国のスルタンであるだけでなく、イスラーム世界の宗教的指導者としてカリフの地位にあることを強調し、ムスリム国家としてオスマン帝国として再建しようと考えたのだった。しかし、すでにオスマン帝国の領土内には、トルコ人以外のアラブ人やイラン人、さらにエジプト人としての自覚などの民族主義(ナショナリズム)が台頭してきており、パン=イスラーム主義で国をまとめることは困難になっていた。
アフガーニーの死 アフガーニーのパン=イスラーム主義はヨーロッパ帝国主義に対抗するための理念であったが、アブドュルハミト2世のそれはオスマン帝国の領土的統一を強めスルタンの権力を維持するための方便に過ぎなかったため、異質なものであった。アブドュルハミト2世のパン=イスラーム主義を利用しようという目論見は失敗し、宮廷内のオスマン主義(帝国内の臣民を宗教・民族の別なくオスマン人として統合しようとする思想)の立場からは危険思想とみなされ、アフガーニーは孤立、ついには危険人物として幽閉された。幽閉されたまま、1897年に死去したが、毒殺されたといううわさが絶えない。<山内昌之『近代イスラームの挑戦』世界の歴史20 中央公論社 1996/カレン・アームストロング・小林朋則訳『イスラームの歴史』2017 中公新書 などを参照した。>
アフガーニーの思想の継承 アフガーニーの思想は弟子のエジプト人ムハンマド=アブドゥフに引き継がれた。しかし、ムスリムとしての団結を説くパン=イスラーム主義とは別に、同じイスラーム教徒であってもトルコ人、アラブ人、イラン人などの民族の違いをより重視する民族主義的潮流、特にオスマン帝国領内のアラブ民族の独立を求めるアラブ民族主義運動が第一次世界愛船の時期に盛んになっていくと、オスマン帝国内ではパン=イスラーム主義は衰退していった。

参考 アフガーニーの謎と足跡

(参考)(アフガーニーの)出自の闇、足跡の広さ、オモテとウラを使い分けるような秘密めいた説法、ヨーロッパの秘密結社や反動団体とのつながり。これらは、いずれも問題の人物に謎めいた印象と外観を与えている。実際は、シーア派のイラン人だったと思われるのに、なにゆえにスンナ派のアフガニスタン人を名乗ったのであろうか。しかも、ほかならぬアフガニスタンでは、なにゆえにトルコ人を僭称したのだろうか。こうした作為にみちた陰謀的な装いは、明らかにイスラーム世界で少数派のシーア派を明示せず、出自をぼやかす方が宗派対立を避けるうえで有益だったからであろう。
 アフガーニーでまず目立つのは、足跡の驚くべきひろがりである。アフガニスタン、イラン、インド、オスマン帝国、エジプト、さらにはロシアとフランスなどヨーロッパ諸国にもおよんでいる。かれは、各地でヨーロッパの脅威に対してムスリムの団結を呼びかけ、多彩な人びとからなる秘密結社や政治組織をつくりあげながら、革命や民衆運動の指導的中核を育て上げた。イランではシーア派の革命を唱え終末論的色彩の濃いバーブ教徒の反乱に接し、エジプトではウラービー革命の思想や組織を準備する役割を果たした。<山内昌之『近代イスラームの挑戦』世界の歴史20 中央公論社 1996 p.242-547>
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書籍案内

山内昌之
『近代イスラームの挑戦』
世界の歴史 20
1991 中央公論社

カレン・アームストロング
小林朋則訳
『イスラームの歴史』
2017 中公新書