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ロンドン秘密条約

第一次世界大戦に際し、1915年4月に成立したイタリアとイギリス・フランス・ロシアの連合国との間の秘密条約。イタリアは領土拡張の約束を得て、連合国側で参戦することとなった。

 第一次世界大戦が1914年7月に始まると、イタリアはドイツ・オーストリア=ハンガリーとの三国同盟から、当然同盟国側に参戦するものと考えられていたが、参戦しなかった。口実は、三国同盟は防衛同盟であるのに、オーストリアがセルビアに対して宣戦したのは攻撃に当たるから、イタリアには参戦の義務はない、というものであったが、実はイタリアはイギリスなど協商側と極秘に交渉し、1915年4月にこのロンドン秘密条約を締結していたのである。この条約ではイタリアは連合国(協商国)側に参戦することを約束する代わりに、オーストリアに支配されている未回収のイタリアといわれたイタリア人居住地とそれ以外の新たな領土を割譲される保証を得た。これによってイタリアは同1915年5月、イタリアは連合国側に参戦に参戦した。

イタリア割譲が密約された地域

 ロンドン秘密協定でイタリアに割譲が認められたのは次の地域であった。
  • ブレンネル峠を境界とする南チロル
  • トリエステを含むイストリア半島。
  • ダルマティアの一部。
  • アルバニアのヴァロナ湾。
  • オスマン帝国領小アジアの一部。
 このようにイタリア人居住地には限定しない、広い範囲を含んでいた。
 同盟国側でもイタリアが連合国側に回るのは致命的な痛手であるので、ドイツはオーストリアに対し、シュレジェン(かつてプロイセンが普墺戦争でオーストリアから奪った土地)の一部の返還とひきかえに南チロルをイタリアに譲ることを迫った。オーストリアもやむなくそれに応じ、秘密裏にイタリアと交渉を開始しようとしたが、すでにイタリアはよりよい条件でイギリスなどと密約を交わしていた。
 イタリアは三国同盟には加わったものの、1870年の統一時に、トリエステ・イストリア・南チロルなどのイタリア人居住地が依然としてオーストリア領に残されていることに不満だった。しかし、このとき同時にイタリア領とされることに密約されたダルマチア地方は南スラヴ系のクロアティア人やスロヴェニア人が多数居住しているので、第一次世界世界大戦後の線引きが問題となった。

パリ講和会議での秘密外交否定

 第一次世界大戦でイタリアはロンドン秘密条約に基づき、イギリス・フランス側として戦い、戦勝国の一員として1919年1月、講和会議であるパリ講和会議に臨んだ。イタリア代表の首相オルランドは、秘密条約に基づいて未回収のイタリアだけでなく、フィウメとダルマチア(アドリア海東岸)の割譲を主張した。しかし、講和会議の原則と掲げられたアメリカ大統領ウィルソン十四カ条では、秘密条約は否定されており、ウィルソンはイタリアの要求に強く反対した。秘密外交の禁止はすでにロシア革命でソヴィエト政権を樹立していたレーニンが平和についての布告でも提唱しており、ウィルソンも譲れない線であった。
 結局、イタリアは南ティロルとトリエステの領有は認められたものの、フィウメとダルマチアはイタリア人居住者も少なく、民族自決の原則からも新生のセルブ=クロアート=スロヴェーン(後のユーゴスラヴィア)に属するとされ、同年9月のオーストリアとの講和条約であるサン=ジェルマン条約で確定した。

領土紛争続く

 ヴェルサイユ体制といわれた第一次世界大戦後の国際秩序においては、イタリアはロンドン秘密条約での約束が反故にされ、戦勝国でありながら十分な領土的見返りが少なかったことにつよい不満が残った。その後も旧オーストリア領を継承したユーゴスラヴィア連邦とは領土紛争が続くこととなった。
 トリエステは第一次世界大戦後にはイタリア領となったが、第二次世界大戦でドイツに占領された後、ティトーの率いるユーゴ軍が奪回したことから、イタリアとユーゴスラヴィア連邦で分割支配され、東西対立の焦点となっていく。
 フィウメ・イストリア半島、ダルマティア地方はユーゴスラヴィア領とされ、ユーゴスラヴィア連邦崩壊後はクロアティア領となっている。
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