印刷 | 通常画面に戻る |

トリエステ

アドリア海の最奥部の港市。1870年、イタリア王国成立後もオーストリア領「未回収のイタリア」として残った。第一次世界大戦後の1919年、サン=ジェルマン条約でイタリア領となった。第二次世界大戦でドイツ軍に占領され、そこをティトーが解放、戦後はイタリアとユーゴ間の紛争地となったため国連管理下の自由地域とされ、東西冷戦の焦点の一つなった。1954年に市域はイタリアに返還された。

現状のトリエステ GoogleMap

アドリア海に面する重要な港湾都市である。現在はイタリア領であるが、第一次世界大戦終結まではオーストリア領であった。長くその帰属をめぐって争いがあり、今もスロヴェニアクロアティアとの国境近くに位置している。
 中世ではヴェネツィア領であったことから市内にはイタリア人住民が多かったが、周辺部は南スラヴ系のスロヴェニア人が居住しており、その領有をめぐって争いが続いた。
 1382年には、トリエステ市はヴェネツィアの進出からの保護を求めて、ハプスブルク家の支配下に入った。それ以後トリエステはハプスブルク帝国にとって唯一といってよい海港都市として重要な位置にありつづけ、オーストリア=ハンガリー帝国の時代まで続いた。

未回収のイタリア

 1866年、普墺戦争の結果、ヴェネツィアがイタリア王国に併合された後も、南チロルとともにオーストリア=ハンガリー帝国領として残され、1871年のイタリア王国の半島統一後も同じ状態が続いたので、イタリアでは「未回収のイタリア」と言われた。そのころは住民の約4分の3がイタリア人であったため、これらの地の奪回を叫ぶイタリアのナショナリズムが高揚していく。

第一次世界大戦

 三国同盟に加盟していたイタリアが第一次世界大戦が始まってからイギリス・フランスなど協商側(連合国)についたのは1915年のロンドン秘密条約で、トリエステと南チロルの戦後の領有を約束されたからであった。大戦でオーストリア軍と戦い、戦勝国としてパリ講和会議に参加、そこでトリエステと南チロル、さらにフイウメ・ダルマチアなどアドリア海東岸に対しても領有権を主張した。

サン=ジェルマン条約

 1919年9月の連合国とオーストリアとの講和条約であるサン=ジェルマン条約では、トリエステと南チロルをイタリア領に編入することが認められた。しかし、フィウメなどの領有が認められた無かったことから、国内の強硬派の一人、ダヌンチオがフィウメを武装占領するという事件も起こった。戦後建国されたユーゴスラヴィア王国(当初はセルブ=クロアート=スロヴェーン王国)もトリエステその他の領有を主張したので、この旧オーストリア領をめぐる紛争がその後も続くこととなった。

第二次世界大戦

 第二次世界大戦ではムッソリーニ率いるファシズム国家イタリアはドイツと共にユーゴスラヴィア王国を占領したが、1943年に連合軍に降伏したため、イタリアに侵攻したドイツ軍はトリエステも占領した。ファシストに抵抗したティトーの率いるユーゴ共産党のパルチザンはトリエステにも進撃し、ついにドイツ軍を追い出して解放した。西からはアメリカ・イギリス軍(主体はニュージーランド部隊)もこの地に進撃してきた。

冷戦下のトリエステ

 トリエステは戦後も重要な貿易港であり、工業も発展していたので、イタリアとユーゴスラヴィア連邦の間に「トリエステ問題」と言われる紛争が生じ、さらに東西冷戦が始まると両勢力対立の焦点となった。チャーチルは、1946年3月の演説で、バルト海に面したシュテッティンとアドリア海に面したこのトリエステを結んだ線をソ連の「鉄のカーテン」として非難している。1946~47年のパリ講和会議の結果、イタリア講和条約が締結され、トリエステとその周辺は国際連合の監視下の自由地域とされ、それを北のA,南のB両地区に分割し、トリエステ市を含むA地区は英米が管理し、B地区はユーゴスラヴィア連邦が管理するとされ、イタリアの主権は及ばないこととなった。

トリエステ市はイタリアに返還

 新国境の策定は困難に見えたが、ユーゴスラヴィア連邦のティトーが独自路線をとり、ソ連と対立してコミンフォルムを除名されたため、西側諸国が軟化し、1954年に協定が成立、ほぼA地区はイタリアに返還され、B地区はユーゴ領とすることで収まった。これによってトリエステ市域はイタリア領となり、その南の沿岸部がユーゴスラヴィア連邦となった。さらに1991~92年のユーゴスラヴィア連邦解体によって旧B地区はスロヴェニア領となったが、同じく独立を宣言したクロアティアとの間でピラン湾をめぐる国境問題が残っている。
印 刷
印刷画面へ