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ヒジャーズ王国

1918年、アラビア半島西部紅海沿岸に生まれたフセインを国王とするアラブ人の国家。わずか7年でイブン=サウードに征服され併合された。

ヒジャーズ王国旗
ヒジャーズ王国のアラブ統一旗
 1918年から1925年まで、アラビア半島のヒジャーズ地方(紅海沿岸)を支配したアラブ人の国家。イスラーム世界の聖地であるメッカの太守(知事、総督)フセインが、フセイン=マクマホン協定の密約に基づき、1916年にイギリスの支援のもと、オスマン帝国に対する反乱を起こした。1918年にはアラブ人の国家としてヒジャーズ王国の建国を宣言、アラビア半島のヒジャーズ地方(聖地メッカメディナを含む)を中心に紅海沿岸を支配した。フセインは「アラブ諸国の王」と称してパレスチナ・シリア・メソポタミアを含む地域への勢力拡張をねらった。

遠のくアラブ統一

 ヒジャーズ王国のフセインは、アラブ民族の統一を目指し、息子のファイサルがイギリス軍の協力の下、1918年にはダマスクスを征服し、勢力を拡張しようとした。第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約でヒジャーズ王国は国際的に承認されたが、イギリス・フランスはすでにサイクス=ピコ協定でオスマン帝国領の分割を合意しており、フサインの願ったアラブの統一は遠のいた。1920年にはファイサルはフランス軍によってダマスカスから排除され、オスマン帝国と連合国の講和条約であるセーブル条約でヒジャーズ王国は認められたが、イギリスとフランスはパレスチナ・シリアを分割して委任統治とすることが確定、アラブの統一はならなかった。
 アラビア半島の内陸、ネジト地方ではリヤドを拠点としたイブン=サウード(アブドゥルアジーズ)がイスラーム原理主義の一派であるワッハーブ派と結びながら勢力を拡大していた。イギリスはハーシム家のフセインだけでなく、イブン=サウードへの支援も行い、アラブ人を競わせる形となっていた。早くから両家の対立は始まっていたが、次第にイブン=サウードが優勢となり、1924年にフセインがカリフ就任を宣言したことに対するアラブ諸部族の反発を利用してヒジャーズ王国に攻勢をかけた。

ヒジャーズ王国の滅亡

 イブン=サウードの派遣した軍の攻勢によって1924年10月にはメッカが陥落、フセインはアカバに退去し、長男のアリー王位を継承したが、残る港町ジェッダも1年にわたる包囲戦の結果、1925年12月までに降伏した。翌1926年1月8日、イブン=サウードヒジャーズ=ネジド王国の建国を宣言、ヒジャーズはそれに併合された。この王国は、1932年に「サウード家の国家」という意味のサウジアラビア王国に改称し、現在に至っている。

Episode アラブの統一旗

 1916年、オスマン帝国からの独立とアラブの統一を掲げて挙兵したフセインの軍は、アラブ統一旗として黒・白・緑・赤の4色からなる旗を掲げ、ヒジャーズ王国成立後はその国旗とした。この旗はヒジャーズ王国崩壊後も、アラブの統一というアラブ民族主義者の掲げる運動の象徴となり、その後独立を達成したアラブ諸国の国旗のモチーフとなった。現在のシリア、イラク、クウェート、ヨルダン、エジプト、イエメン、スーダン、アラブ首長国連邦、パレスチナ暫定自治機構などはいずれもこの国旗をもとにしている。また1947年に登場したバース党も、この旗をアラブの解放と統一のシンボルとして掲げた。それぞれの色の意味するところは国によって異なるが、白と黒はムハンマドが用いた二つの旗――白はクライシュ族のターバンの色で神を象徴し、黒は聖戦で戦死した戦士への哀悼を意味した。またウマイヤ朝は白旗を掲げ、アッバース朝は黒旗を掲げた――、緑は4代目カリフのアリーが用いたという緑の外套が始まりで、生命や大地を意味し、赤はメッカの世襲首長でムハンマドの曾祖父から出たハーシム家の色で、後にはオスマン帝国の王朝色となった聖戦の象徴だという。<辻原康夫『図説 国旗の世界史』 2003 河出書房新社 p.40>
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