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関税自主権の回復(中国)

共産党の排除、北伐の完成、南京国民政府による中国統一によって、不平等条約の関税自主権回復が進んだ。1928年7月、まずアメリカとの関税自主権回復が実現し、同年中に日本を除き調印を終えた。日本との関税自主権交渉は済南事件のため遅れ、1930年に完了した。

 中華民国にとって、アヘン戦争の結果としての南京条約その他の不平等条約の締結によって半植民地状態に置かれていることは屈辱であったので、条約改正が悲願であった。しかし、軍閥の抗争が続き統一国家の形態をなしていない状態が続いたことで、諸外国との交渉はすすまず、第一次世界大戦後の1919年の五・四運動などで高まったナショナリズムの勃興に伴い、その要求はさらに強まっていた。ワシントン会議後に、中国は列強との間でまず関税自主権の回復の交渉を始めたが、集団交渉方式であったことと軍閥政権が安定しなかったためにほとんど進捗しなかった。
 また孫文の率いる中国国民党が、第1次国共合作によって共産党と事実上合同したことは、アメリカやイギリスを警戒させ、条約交渉は進まなかったが、蔣介石北伐を進める過程で、1927年に上海クーデタによって中国共産党を排除したことで、アメリカ・イギリスの態度も変化してきた。

国民政府による中国統一で進展

 1928年6月、蔣介石の国民革命軍が北伐を終えたことで国民革命を一応完了させ、南京国民政府の中国統一が実現した。蒋介石の国民政府は6月15日、諸外国に対し、念願であった不平等条約の改正を要求した。それを受け、まずアメリカが蒋介石政権による統一と安定が自国の利益に合致すると考え、1928年7月25日に米中関税条約を締結し、中国の関税自主権を承認した(11月に国民政府を正式承認)。イギリス・フランスなど主要国も、1929年末までに関税交渉を終え、関税自主権の回復に応じた。実際には中国政府は品目によって外国に有利な税率を認めるなど、柔軟な対応をしたことが合意できた理由だった。
日本との交渉 日本との間では日清戦争後に締結された日清通商航海条約で日本の治外法権が認められ、協定関税であったので中国の関税自主権がない状態だった。中国政府はこの条約がすでに期限を過ぎていると主張したが日本はそれを認めなかった。さらに済南事件が起こり、関係が悪化したため解決が長引いたが、ようやく1930年5月に日華関税協定が結ばれた。これによって中国は開国以来苦しめられていた関税自主権を回復することができた。
関東軍の危機感 1928年から1930年までの間に、蒋介石の中華民国南京政府が、列強との交渉によって関税自主権を回復したことは、中国が統一国家回復に大きく前進したことを意味していた。蒋介石にとって、国土統一の障害となるのは、残存する地方軍閥勢力と、国民党内の反蒋介石勢力、それに毛沢東が主導権を握った中国共産党の勢力の強大化であった。また、満州を日本の生命線と考える軍部や日本国内の勢力にとっては、満州にも中国統一の動きが満州に波及することを警戒するようになった。特に満州の現地軍である関東軍の一部には危機感を強く意識するようになり、それが1931年の満州事変へとつながることになる。

遅れた治外法権撤廃

 残る不平等条約の改正点である治外法権の撤廃・租界の返還については、1931年の満州事変の勃発と日中戦争によって中断され、放置されたが、太平洋戦争開戦に伴って第二次世界大戦がアジアに波及し、1943年に中国が連合国宣言に加わったことを受けて、1942年10月に不平等条約の撤廃が実現する。まず、日本は同年1月9日に汪兆銘政権との間で条約改正に応じると、欧米諸国も日本との対抗上、中国政府の蔣介石政府の条約改正要求に1月11日に応じたことで実現した。<横山宏章『中華民国』中公新書1997 p.157-161 などによる>
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