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トルコ革命

ムスタファ=ケマルに指導され、オスマン帝国を倒し共和政を樹立した革命。トルコ共和国を樹立したケマルは、イスラーム国家色を否定して世俗化を図り、文字改革や婦人解放を実行した。

 トルコ革命とは、第一次世界大戦の敗戦によって動揺したオスマン帝国のスルタン政府に対し、ムスタファ=ケマルが1920年4月にアンカラのトルコ大国民議会を召集、スルタン政府軍、侵攻してきたギリシア軍と戦いながら、1923年10月にトルコ共和政を樹立したことをいう。またトルコ共和国樹立とともに進められた、カリフ制の廃止を初めとする世俗化を目指した改革を含めてトルコ革命という。1908年に青年トルコによって行われた青年トルコ革命とは別なので注意すること。

第一次世界大戦の敗北とギリシアの侵入

 1918年10月、スルタンのメフメト6世は連合軍に降伏、イスタンブルはイギリス、フランス、イタリア、ギリシアの連合軍に占領され、エンヴェル=パシャなどは国外に逃亡し青年トルコ政権は崩壊した。一方、シリアのアレッポでは、ムスタファ=ケマルの率いるオスマン帝国軍は連合軍に対する降伏を拒否して抵抗を続けた。翌1919年5月、ギリシア軍はイギリスのロイド=ジョージ首相の支持を受けて、突然アナトリア西部のイズミル地方に侵入し、ギリシア=トルコ戦争が勃発した。ムスタファ=ケマルは20年4月にアンカラにトルコ大国民議会を招集し、トルコ国民軍を組織してゲリラ戦で抵抗した。

トルコ共和国の成立

 一方スルタン政府は1920年8月、連合国に強要されたセーヴル条約を承認し、オスマン帝国は領土の大半を失うこととなった。しかしギリシア軍との戦いを続けていたムスタファ=ケマルのトルコ国民軍は1921年8月のサカリャ川の戦いでギリシア軍を破って形勢を逆転させ、またフランスやソヴィエト政権の支援を受けて1922年、ローザンヌ講和会議で新たな講和条約の交渉に入った。
 この間、1922年11月、大国民議会は満場一致でスルタン制の廃止を可決、メフメト6世はイギリス軍艦でマルタ島に亡命し、オスマン帝国の滅亡が現実のこととなった。
 1923年7月、改めて連合国とローザンヌ条約を締結してアナトリアの領土と独立を回復し、同年10月29日、アンカラの大国民議会はトルコ共和国を宣言し、ムスタファ=ケマルを初代大統領に選出した。ムスタファ=ケマルは次々と内政改革を実行し、トルコ革命が進展することとなった。トルコ共和国の世俗化政策の象徴として、1924年にはカリフ制も廃止され、最後のカリフ、アブデュルメジト2世は国外追放となった。
 → トルコの世俗主義改革
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