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日満議定書

1932年9月、日本が建国直後の満州国との間で締結した取り決め。日本権益の尊重、日本軍の駐屯を取り決めた。リットン報告書の公表前に、満州国を承認した。

 満州事変を1931年9月18日に謀略で引きおこした関東軍は、次々と満州各地を軍事占領、政府・軍中央もそれを追認していった。関東軍は当初は占領地を植民地として直接統治を考えていたが、国際的な非難を解除するためもあって、独立国家建設に切り替え、その主導の下で1932年3月1日満州国が建国を宣言した。当時すでに中国政府は、国際連盟に対して、満州事変を日本の違法な行為として提訴しており、連盟理事会はリットン調査団の派遣を決定していた。日本軍は国際社会の目を満州から逸らす目的で、1932年1月に上海事変(第一次)を起こしていたが、中国政府はそれに対してもさらに提訴していた。
 リットン調査団は1932年2月29日に来日、3月~6月にかけて現地調査も含めて調査を行い、その結論として、同年10月に最終報告書を国際連盟に提出することになっていた。日本はリットン調査団の報告書が国際連盟の場で明らかにされる前に、満州国の国際的承認が必要と考え、急遽、日本自身が満州国を承認することにした。

満州国の従属性が明確に

 そのため日本(齋藤実内閣)は、新任の関東軍司令官に任命された武藤信義大将に特命全権大使、関東長官を兼ねさせ、満州の新首都新京に派遣し、1932年9月15日、満州国との間で日満議定書を締結、調印した。
 日満議定書は、①従来の日本と中国の間で締結された条約で認められた日本の権益を尊重すること。②共同防衛のため、満州は日本の軍隊の駐留を認める。の2条に過ぎなかったが、議定書締結によって、日本が満州国を承認したと見なされた。
 満州国執政の溥儀は、すでに同年3月、関東軍司令官に軍事施設・鉄道の提供、日本側が任免権を持つ日本人官吏の全部門での採用を約束しており、日満議定書はそのような満州国の日本への従属的立場を認めた上で、新国家として承認されたのだった。

リットン報告書の公表直前だった

 1932年6月14日、第62議会衆議院本会議で、政友・民政共同提案による満州国承認決議は全会一致で可決された。外務大臣内田康哉は満鉄総裁であった時代から関東軍の行動に協力的であり、早くから満州国独立・満州国承認論を主張しており、8月25日の議会では焦土演説といわれる有名な演説――「国を焦土としても」満州国を承認する――を行った。議会決議を受け、日本政府は9月15日、日満議定書を調印し満州国を承認した。内田外相は、日本の行動は自衛であり不戦条約には違反しない、また満州国の成立は中国内部の分離運動の結果であるから九カ国条約(中国の主権尊重、領土保全などを約束した)に違反しない、と述べた。関東軍の論理と全く同じことを外相が述べていた。
 リットン報告書の公表(10月2日)直前に、日本が満州国を単独承認した、挑発的とも言えるやり方には、連盟の日本代表部のほか、朝鮮総督宇垣一成などからも批判はあった。しかし、日本軍を駐屯させ、交通機関を掌握し続けるためには、満州国を正式に承認し、同国と条約を締結しなければならないと説く主張は説得力を増していたであろう。<加藤陽子『満州事変から日中戦争へ』シリーズ日本近現代史⑤ 2007 岩波新書 p.153-154>  自衛のための行動である、という日本の主張は、国際連盟総会でリットン報告書の提案が採択される前日の1933年2月23日に、関東軍が熱河作戦を開始して中国本土に侵攻したことで正当性を失った。その結果、国際連盟総会が満州国承認を否決したため、日本は1933年3月27日国際連盟を脱退する。