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ナチスに対する抵抗運動

ヒトラーの独裁政治やナチス=ドイツの自由と民主主義の抑圧、ユダヤ人排斥などに抵抗する人々もあった。また国防軍の軍人によるヒトラー暗殺計画や反ナチ運動もあったが、それはいずれも失敗した。

 ヒトラーナチズムの反ベルサイユ体制や反共宣伝、反議会政治、反政党政治、アーリア人の優越とユダヤ人排斥の人種主義イデオロギーなどに積極的に賛同したのは、ヴァイマル共和国に不満を持ち、なんらかの変化を期待した中間層に多かったと言われる。その多くはヒトラーの言説やゲッベルスの宣伝にだまされた面も強いが、多くは無関心であるか、時流に流されるままですぎてしまったのではないだろうか。しかし、ナチス=ドイツ・第三帝国の時代に、その自由や民主主義を抑圧、ユダヤ人や障害者を絶滅させるという人種主義に対し、疑問に思ったり、反感を持った人々も多かった。また、国防軍の将校のなかには軍人ではないヒトラーが軍も併せて独裁権力を振るっていることに不満なグループもあった。またカトリック教会は多くはヒトラーに批判的であった。プロテスタントの教会はヒトラーを支持するものが多かったが、一部には信仰心からそのユダヤ人政策を批判する牧師もいた。
 社会民主党ドイツ共産党を始めとする左派政党はいずれも解散させられていたために表だって抵抗することは出来なかったが、地下活動を続けていた。これら様々な反ヒトラー、反ナチスの運動はゲシュタポによって厳しく取り締まられていたためにまとまることが出来ず、いずれも個別活動にとどまり、ナチス政権をドイツ内部から倒すことは出来なかった。ヒトラーを倒す可能性のあったのは国防軍の軍人のクーデターであり、事実それは幾度か計画され、特に1944年7月20日のヒトラー暗殺計画は実行されたが、奇跡的にヒトラーは生き延び、計画は失敗して首謀者は捕らえられてしまった。

抵抗運動のグループ

 それではナチスドイツ時代のヒトラーに対する抵抗運動はどのようなものであったか、山下公子さんの著作からいくつか紹介しておこう。<以下、山下公子『ヒトラー暗殺計画と抵抗運動』1997 講談社選書メチエ などによる>
  • クライザウ・グループ 反ナチス運動と言っても幅が広く、王政復古を主張する右派から、ブルジョワ共和政を否定する左派までが含まれていたが、その中庸に位置するグループで、既成の政治家や官僚で国家社会主義に反発したのがこのグループだった。中心にはかの普仏戦争や第一次世界大戦で名をはせたモルトケ親子の血を引くモルトケ伯爵だった。伯爵のクライザウにある別荘に集まり、ヒトラーを倒す計画を軍部の反ヒトラーグループと連絡を取り合っていたが、モルトケ始め指導者が次々と逮捕されてしまった。残った軍人グループが1944年7月20日のヒトラー暗殺計画を実行したが失敗した。
  • 赤い楽隊 1942年12月、ハルナック夫妻などエリートに属する学者などがソ連に情報を流したとして逮捕され、軍法会議で無期の判決を受けた。しかしヒトラーの命令で死刑に変更になった。裁判ではかれらは「赤い楽隊」といわれ、ドイツ国内およびベルギーやオランダ、フランスなどのドイツ占領地で活動し、共産党の指導でソ連に無線などで情報を流したスパイ組織であるとされた。かれらはナチスを批判するビラをまいたりしたが、共産党のスパイだったことは現在は否定されている。
  • 白バラ抵抗運動 ナチスは青少年組織の育成に力を注ぎ、すべての若者をヒトラー=ユーゲントに組織して統率した。そのようなユーゲント組織に反発した青年がわずかだが存在した。ミュンヘンの医大生ハンス=ショルとゾフィー=ショルの姉妹は、1942年の夏から翌年の2月まで、反ヒトラーのビラを作って配布し、壁に「打倒ヒトラー!」「自由!」と書いた。二人は大学構内でグループはビラをまいているところを逮捕され、裁判の結果、死刑判決が即日実行された。ハンスは25歳、ゾフィーは22歳だった。二人を裁いた民族裁判所長フライスラーは、学生のなかに反ナチス運動が広がるのを恐れ、見せしめのため死刑にしたらしい。
     ハンスはヒトラー=ユーゲントに属したこともあったが、フランス戦線やソ連戦線での戦争体験を通じ、ドイツを救うためにはヒトラー独裁とそれを支えているナチス体制を倒すしかないと考えるようになり、ぎりぎりの状況のなかで抵抗を開始し、ミュンヘンで『白バラ通信』という反ナチスのパンフレットを作りばらまいた。それはただちにハンブルクなどの他の都市にも広がった。しかし、ハンス兄妹の仲間クリストゥル=プロープスト、ヴィリィ=グラーフ、アレクサンダー=シュモレルやハンス=ショルの大学の哲学教授であったクルト=フーバーなども捕らえられ死刑になった。姉妹の姉のインゲ=ショルの残した記録『白バラは散らず』には、二人の抵抗と『白バラ通信』の原文などが載せられており、ぜひ読んでおきたい。白バラ抵抗運動に関しては日本でも関心が高く、多くの書籍が出版されており、また映画『白バラの祈り』も公開されている。
  • スウィングス 1936年頃からハンブルクでアメリカのスウィング=ジャズが流行し、若者のなかにアメリカ風の格好をしてダンスホールに通い、ジャズ音楽と踊りに熱中するグループが生まれた。かれらは、ヒトラー=ユーゲントに目の敵にされ、1939年にハンブルク市当局はスウィングを禁止した。かれらは貿易港ハンブルクの自由の雰囲気のなかで育った良家の子女であったが、ヒトラー=ユーゲントの集会をサボってヨットを乗りに行ったり、仲間の私邸で禁じられたスウィングを演奏したりという抵抗を続けた。しかし国家青年指導者は取り締まり強化をヒムラーに直訴し、42年1月、国家中央保安局長ハイドリヒは「この害毒は徹底的に根絶されねばならない」と、首謀者全員の強制収容所送りを指令した。かれらは学業継続を禁じられ、刑務所ないし収容所送りにされた。なお、スウィングスを描いたイギリス映画『スウィング・キッズ』がある(ヒトラーユーゲントの項参照)。

Episode ナチスに抵抗した歴史教育者

 ナチスに対する抵抗運動のクライザウ・グループに属し、7月20日事件に連座して処刑されたなかにアドルフ=ライヒヴァインという人がいた。彼は1898年に生まれ、国民学校の教師をしながら、歴史教育者としても論文を発表していた。ナチス政権が生まれ、画一的なヒトラー礼賛が強要されるようになって、社会民主党員だったために追放されたがドイツにとどまり、復職してティーフェンゼーという農村で無学年級を担当し、自然観察や実験、見学旅行などを取り入れた労作教育を実践していた。ナチの視学官の目を盗むため苦しい工夫を重ねていた。あるところで「今日、はじめて私は嘘をついた。私は、視学官に向かってヒトラー式敬礼で挨拶したのだ」と告白している。ナチス史観に抵抗する歴史研究も続けていたが、ついにゲシュタポに捕らえられ、44年7月に処刑された。ナチスに抵抗した歴史教育者がいたということも忘れないようにしよう。<宮田光雄『ナチ・ドイツと言語』2002 岩波新書 p.111-124>
 なお、ライヒヴァインには詳しい伝記も訳出されている。<ウルリヒ・アムルンク/対馬達雄・佐藤史浩『反ナチ・抵抗の教育者―ライヒヴァイン 1898-1944』1996 昭和堂>
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書籍案内

山下公子
『ヒトラー暗殺計画と抵抗運動』
1997 講談社選書メチエ

インゲ・ショル
内垣啓一訳
『白バラは散らず』
1962 未来社

宮田光雄
『ナチ・ドイツと言語
-ヒトラー演説から民衆の悪夢まで-』
2002 岩波新書
ウルリヒ・アムルンク
/対馬達雄・佐藤史浩
『反ナチ・抵抗の教育者―ライヒヴァイン 1898‐1944』1996 昭和堂
DVD 案内

『白バラの祈りーゾフィー・ショル、最期の日々ー』
出演 ユリア・イェンチ
2006 ドイツ映画