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スペイン人民戦線

1936年1月、スペインにおいてファシズムの台頭を抑えるために成立した共和派、社会党、共産党などの統一戦線。2月総選挙で勝利し政権を獲得したが、軍部ファシストが反乱を起こしスペイン戦争(内戦)が始まる。反乱軍がドイツ・イタリアの支援を受けたのに対し、イギリス・フランスは不干渉政策をとり、政府はソ連と国際義勇兵に支援されて戦ったが、1938年までにフランコ軍によって人民戦線政府は倒された。

 第一次世界大戦後、ヴェルサイユ体制の戦後国際秩序に対して、戦勝国であったが利益の少なかったイタリアで始まったファシズムの運動は、敗戦国ドイツでも活発になって行き、1929年の世界恐慌を契機にヨーロッパ各国にも広がっていった。ファシズムは社会主義的な装いで労働者大衆に迎合しながら、国内を強力な権力で統合し、国家主義的、軍国主義的な国家体制をつくろうとして、議会政治や政党政治、ひいては自由な言論などを抑圧した。それに対して、1930年代には社会主義や共産主義勢力は互いに批判し合ったり、自由主義や議会主義などのブルジョワ陣営を敵しとて闘争するという姿勢を採っていた。
 そのような状況の中で、反議会主義、反社会主義などを掲げて民衆の心を捉えたファシズムの台頭を許し、軍国主義を唱える侵略国家が国際秩序に挑戦し、大きな脅威となってきた。ドイツやイタリアではファシズムによって議会主義だけでなく社会主義・共産主義は押さえつけられてしまったが、フランスやスペインなどで反ファシズム勢力の結集の動きが出てきた。スペインにおいても従来の王党派やカトリック系の保守主義者以外にも共和政の打倒と軍部独裁を主張するファランヘ=イスパニョーラやヒトラーやムッソリーニを崇拝し、共産主義やユダヤ人排斥を主張する団体などが活発になり、反ファシズム陣営に危機感が強まった。

スペインの人民戦線運動

 スペインでは、1931年のスペイン革命によって王政が倒れ、共和国が成立したが、アサーニャ内閣は左派の労働者と、右派のファシスト双方から攻撃されて不安定であり、1933年に選挙で多数派をとれずに倒れ、替わった新内閣にはファシストが入閣し、共和政は危機を迎えた。それ以後、右派内閣による「暗い二年間」という労働運動に対する弾圧が続き、特に1934年の労働者によるアストゥリアス蜂起に対する弾圧は、ファシズムに対する反発が強まり、統一した反ファシズム運動の必要性が意識されるようになった。右派=ファシズム内閣による左派労働者に対する弾圧や人権の侵害に対する左翼勢力だけでなく、議会政治や自由主義の危機と受け取ったブルジョワ共和派の中にも、反ファシズム人民戦線の結成の気運を高めることになった。穏健共和派の指導者アサーニャも、ファシズムと対抗するために社会党・共産党と協力する必要を意識するようになり、幅広い統一戦線の形成が進んだ。

コミンテルンの転換

 スペインなどでの統一戦線結成の動きを受けて、1935年7月、モスクワで開催されたコミンテルン第7回大会は、それまでのコミンテルンの基本方針であった社会民主主義政党やブルジョワ政党を敵視を転換し、民主主義・自由主義陣営を包括した反ファシズム人民戦線を構築する方針を打ち出した。

人民戦線の成立

 スペイン共産党もその方針に従い、人民戦線戦術を採用、各党派間の交渉の結果、1936年1月15日に左翼共和党、共和同盟、カタルーニャ左翼党(エスケラ)、社会党、共産党、労働者マルクス主義党(トロツキー派=POUM、後に離脱)の間で人民戦線協定が成立した。協定の主要な項目は、政治犯の釈放、憲法上の諸権利の保障、裁判所の改革、議会・地方自治体の諸法規の整備、租税・地代の軽減、中小企業の保護、失業の除去、銀行の統制、最低賃金、教育の改善、国際連盟の擁護、などであった。しかし、モロッコの解放など植民地問題は触れられていなかった。

選挙での勝利

 1936年2月に行われた総選挙では、人民戦線派は選挙協力を展開し、右翼の暴力的な妨害が露骨に行われたが、農民の自覚の高まりによってかつてのようなカシケ(農村の有力者)による操作はできなくなった。またアナーキストも建前は選挙ボイコットを表明したが、実際には多くが人民戦線に投票したと思われる。開票の結果は、人民戦線派258,右翼152、中間派62という議席配分となった。共産党も前回の1から14人に急増した。ただし得票数では人民戦線派が約420万、右翼が約378万で大きな差とは言えなかった。

人民戦線内閣成立

 人民戦線派の勝利が確定した直後から、右翼・軍人らが密謀してクーデタの動きが出始めたが、2月19日夜、アサーニャを首相とする内閣が成立した。左翼共和党、共和同盟、カタルーニャ左派などが閣内に入り、社会党と共産党は閣外から支援することになった。これによって右派ファシスト支配の「暗い二年間」は終わり、三色旗がよみがえった。一方、貴族・資本家の一部は海外に逃亡しようとジブラルタルのホテルはどこも満員になったという。資本家はまた、生産を怠るサボタージュと資本を海外に移転するなどで政府を攻撃した。5月10日にはアサーニャ大統領、カサレス=キローガが首相となり、人民戦線綱領に沿った政治犯の解放などの施策を開始した。
 人民戦線内閣成立と同時に右派、ファシスト、軍部は統一戦線を組み、早くもクーデタの準備に入った。政府は軍の右派将校を免職にするなど対応したが、労働者は社会党系の労働総同盟(UGT)、共産党系(PSUC)、反共産党のトロツキー派(POUM)、アナーキスト系の労働国民連合(CNT)の大きく分けて4つの潮流があり、それぞれは依然としていがみ合っているという状態であった。 → スペイン内戦/スペイン戦争

ジョージ=オーウェルの見た人民戦線

 以下、オーウェルの『カタロニア賛歌』からの抜粋である。
(引用)初めのうち私は、戦争の政治的側面に無知であった。・・・スペイン戦争は何よりもまず政治的戦争であった。少なくとも最初の一年間に起きた出来事は、政治路線の背後に進行している各政党間の争いについて知ることなしには何一つ理解することはできないであろう。・・・バルセロナの革命的な雰囲気は私を深く引きつけたが、私はそれを理解してみようとはしてみなかった。煩わしい名前――PSUM、POUM、FAI、CNT、UGT、JCI、JSU、AIT――をもつ各政党や各労働組合の万華鏡は、私をただうんざりさせるだけだった。それは一見したところ、スペインが頭文字の伝染病にかかったように見えた。私はPOUMと呼ばれる者の一員として参加していることは知っていた・・・が、各政党間に重大な違いのあることは分からなかった。ボケロ山で、連中が左手の陣地を指して、「奴らは社会主義者だ」(PSUCの意味)と言った時、私は当惑して言った。「われわれだってみな社会主義者ではないか?」自分たちの生命を守るために戦っている人々が、別々な党派をもつということは馬鹿げたことだと私は思った。・・・しかしスペイン、特にカタロニアではだれも不明確な態度のままでいることはできなかったし、またしなかった。だれもが不承不承であれ、おそかれ早かれ、いずれかに荷担した。・・・民兵としてはフランコを相手に闘う一兵士であるが、しかしまた二つの政治理論の間で闘われつつあった巨大な闘争に使われる歩でもあった。・・・<ジョージ=オーウェル/鈴木隆・山内明訳『カタロニア賛歌』1938 現代思潮社 1966刊 p.47-48>
 前線ではどうやって党派を区別したか。
(引用)サラゴサ付近の丘の上では、退屈と不安の入りまじった膠着した戦闘があるだけだった。・・・兵員、武器、特に大砲の不足が大規模な作戦を不可能にしたために、どの軍隊も占領した丘の頂に塹壕を掘って定着した。われわれの右手には同じPOUMの前哨地点があった。われわれの左手、時計が七時を示すような方角にある丘の突出部にPSUCの陣地があって、頂にいくつかのファシストの陣地が点在する、向こうのより高い丘の突出部と対峙していた。いわゆる戦線なるものは、あちこちジグザグになっていて、各陣地が旗を立てていなかったら全く分からない格好になっていた。POUMとPSCUの旗は赤く、アナーキストたちの旗は赤と黒であった。ファシストは一般に君主主義の旗(赤―黄―赤)を立てていたが、時々、共和国の旗(赤―黄―紫)を立てていた。・・・<オーウェル・同上 p.27>

スペイン人民戦線の党派

 スペイン人民戦線は反ファシズムで一致して成立した同盟であるが、ファシストとの戦いの意味の捉え方において党派ごとに異なっていた。ソ連=コミンテルン=共産党は、今スペインで目標とすべきはブルジョワ=デモクラシーであり革命ではない、まずファシズムとの戦争に勝つことだ、と主張した。その考えはブルジョワ共和派の市民や穏健社会主義者にも支持され、党勢を拡大した。それに対して反共産党社会主義者(POUM、トロツキー派)とアナーキストは、この戦争は革命そのものであると捉え、ファシストとの戦いは革命の勝利のためである、戦争より革命だ、と主張した。しかし、革命で目指す社会についてはこの両者には決定的な違いがあった。前者は国家機構や法秩序は必要不可欠だと主張しプロレタリアによる国家権力の樹立を目指したのに対し、後者はあらゆる国家的束縛、官僚的秩序を否定し、労働組合が生産管理する「自由共産主義」を目指していた。

内戦の中の内戦

 共産党はコミンテルンの方針に従ってブルジョワとの共闘を重視し、「革命より戦争」という路線をとって支持を拡大した。そしてソ連の軍事支援と国際旅団の参加によってフランコ軍との戦いでアナーキストに替わって次第に主力をしめるようになった。POUMはそれを「革命を放棄した」スターリニストであると非難すると、共産党は彼らをファシストに協力するトロツキストだと言って攻撃した。アナーキストはあくまで民兵による戦いを主張し、正規軍に組み入れられることに抵抗した。共産党はそのようなアナーキストを戦争に有害だとして排除し、武器を供給しなかった。
 人民戦線は1936年10~11月、ソ連の軍事支援が始まった頃から、POUM、アナーキストは排除され、あるいは離脱して行き、主力は共産党ーブルジョワ共和派ー社会党右派によって構成されるようになった。この両陣営の対立が決定的になったのが、1937年5月の「内戦の中の内戦」といわれたバルセロナでの衝突だった。それ以後、反共産党勢力に対する弾圧は苛烈を極め、その両派の活動は抑え込まれていく。
(引用)(スペイン戦争の)全過程の理解を容易にするためには、この事態はファシズムが何らかの形でブルジョワジーと労働者階級に強制した、一時的同盟によるものであることを想起すればよい。この同盟は人民戦線として知られているが、本質的に敵同士の同盟であり、常にどちらかが一方を併合して終わる以外にはなかっただろう。ただ、スペインにおける予期しなかった状況・・・は、政府側の諸政党のなかでコミュニスト(共産党)は極左にいたのではなく、極右にいたということである。・・・<オーウェル・同上 p.55-56>
 なお、オーウェルのスペイン戦争の最も優れたルポルタージュ、史料である『カタロニア賛歌』は、現代思潮社版以外にも岩波文庫、角川文庫、ハヤカワ文庫、ちくま学芸文庫でも刊行されている。